文字数 3,485文字

「長谷って名字、よく『ながたに』って読む人いるんですよ。病院なんかでも、突然、『ながたにさん』って呼ばれて自分のことだって気づかなかったりすることあるんです。
 奈良県に初瀬川という川があって、長い谷間を流れているので、初瀬川を長谷川と書くようになったんですか?長谷って、初瀬から来てるんだ。へえ、知らなかった。光岡先生って、物知りなんですね。さすが弁護士。え、テレビのクイズ番組でやってたの。なあんだ。でも、すごいです。あたしなんか、テレビの中身なんてほとんど覚えてませんよ。バラエティ見て笑ったり、ドラマで感動して泣いて、それで終わり。次の日になれば、大体忘れてます。
 はい、藍澤の叔父さんにはよくしていただきました。あたし、父が子どものころに亡くなって、母と二人暮らしだったんです。母は働いて収入もそこそこだったんですけど、その母もあたしが大学二年のときに亡くなってしまったので、卒業までの大学の学費とかは全部、叔父さんが出してくれたんです。進路の相談にも乗ってもらいましたし。
 だから叔父さんには、すごく感謝してます。千鶴叔母さんも、優しくしてくれました。二人とも恩人です。だから、二人ともいなくなって、本当にショックで。事件のあと、しばらく毎日泣いてました。
 事件の日のことですよね。泣かないように頑張って思い出さなくちゃ。
 あの日は、はい、いつものように千鶴叔母さんから携帯のメールをもらって、学校が終わった後、あのお家に直行しました。だから、午後四時頃だったかしら。あたし、お腹が空いてて、まだ他のひとたちが来るまでは時間があったので、キッチンでホットケーキを作らせてもらって食べました。こう見えても、お料理得意なんです。叔母さんは自分では料理をほとんどつくらないので、休みの日なんかは、あたしが行って料理したりすることあるんですよ。それから一時間くらいして、大庭さんが料理を持ってやってきて。大庭さんはあたしよりも料理がすごく上手なんです。その後岩井さん、最後に磯島先生が来たのかな。
 キッチンを使ったのは、だから、そうですね、ホットケーキを焼いたときと、パーティの途中で空いたお皿を片付けに行ったときだけです。
 食器を落としたのは、磯島さんに後ろから突き飛ばされたんです。『何するのよ』って言おうと思ったら、『ごめん、わざとじゃないんだ。つい、よそ見しちゃって』って言いながらさっと片付けはじめたので、文句を言いそびれちゃって。そうしたら、すぐに千鶴叔母さんが来て、安物だからいいのよ、って言って、物置から掃除機を引っ張り出してきました。でもあれって、本当はロイヤルコペンハーゲンのセットになってるやつの一枚で、あたし結構気に入ってたんです。それを割ってしまったので、自分としてはけっこう腹が立ったんですけど。……というのは実は嘘です。千鶴叔母さんはきっちりしてないと気が済まない性格というか、その反面、あまり物に執着がないので、食器なんかにちょっと傷がついたものとか、くれたりするんです。だから、一枚割ってしまったので、もしかしたら、残りのセットをもらえるかもしれない、なんて一瞬だけ考えたりしました。ずうずうしいですよね。でも、気持ちはともかく、決してわざと割ったわけじゃありません。本当です。
 えっと、よくは憶えてませんが、そのとき、岩井さんは来てません。千鶴さんが来て、『いいわよ』って言ったような気がします。
 ウイスキーの瓶ですか?
 いえ、特になにも気づかなかったですけど。よく見かけるウイスキーですよね。そうだ、そういえば、岩井さんがウイスキーの瓶をじっと見てましたね。いつだったかしら。地震のあったすぐ後かしら。
 それから、岩井さんがウイスキーの瓶を手に取ろうとしたら、千鶴さんがさっと手にとって、瓶を拭いたんです。濡れてたのかしら。ああ、そうです。テーブルも少し濡れてました。ウイスキーが冷蔵庫で冷やされてたので、結露したんじゃないでしょうか。でも、それがどうかしました?ウイスキーって冷やして飲むものじゃないんですか?お酒って全然飲まないので、よく知りません。磯島先生は、別に何も言わずに飲んでいたので、そういうものかと思いました。
 磯島先生も普段お酒はほとんど飲まないみたいですけどね。『酒は嫌いだ』って言ってたので、飲めないのかと思ってましたけど、少しくらいなら大丈夫なんでしょうか。とにかく、飲んだの見たのはあの夜が初めてでした。
 空き瓶?いいえ、夕方キッチンにいたときには見なかったような気がしますけど。夜は、割れたお皿の処理は叔母さんがやったので、あたしはキッチンにはちょっと入っただけで、あまり中の様子は記憶にないです。
 でも、岩井さんも、独特な雰囲気の方ですよね。別に悪口じゃなく。化粧気がなくて、服装もすごい地味なのに、でも、スタイルよくてかっこいいし。お肌もすごく白くて、研究室で白衣とか着たら本当に似合いそう。あたしも、ああいう研究員みたいな人になれたらって、思います。でも、文学部だし、勉強がそんなに得意じゃないから、無理ですけどね。
 磯島先生?
 いつもどおり、当たり障りのない、話題を喋ってましたけど。好きな車の話とか、グルメとか。
 先生をどう思ってるかですか?別に。ちょっとヘラヘラしてるところがイラっと来ますけど、まあ、普通っていうか、悪いひとではないと思います。本人はかっこいいと思ってるみたいですけどね。つきあってる?まさか。ありえない、ていう感じです。
 まあ、いろいろ親切にはしてくれるし、こちらも叔父さんにそんなにお小遣いをもらうわけにもゆかず、貧乏なので、代わりに先生が、ご飯とかよくおごってくれたり、お小遣いとかもらったり、たまにお買い物につきあったりもしますけど。
 向こうはつきあってる気になっているのかもしれませんね。そういうオーラを感じることはあります。でも、十歳以上歳が離れているひとは、あたしはちょっと無理。恋愛対象にはならないです。まあ、百パーセントないか、ってきかれれば、一パーセントくらいはあるかもしれませんけど。とにかく、『結婚しよう』とか言われると、正直、ドン引きします。ええ、何度か言われましたよ。もちろん、冗談だと思いますけど。
 それに、つきあっている人なら、あたし、一応、大学のゼミの先輩がいますし。
 自分で言うのもなんですけど、外国語が結構得意なので、それを生かした仕事をしたくて。海外も行ってみたいです。でも、まずは、どこに就職できるかが問題ですよね。
 それと、こんなことを言うのは不謹慎だと思いますけど、叔父さんと叔母さんが亡くなって、遺産をあたしが相続することになるらしいです。そうしたら、ある程度お金も入ってくるみたいなので、そうしたら、もう磯島先生なんかのお世話にならなくても済みますしね。
 磯島先生が可哀想だって?
 そんなことないですよ。
 だって、磯島先生は、千鶴叔母さんと仲が良かったんでしょう?
 知ってますよ。そのくらい。
 わたし、千鶴叔母さん好きだったんです。
 やさしいし、性格もさっぱりしてて、気前もいいし、あんなひとに将来はなれるかな、なんて考えたこともありました。
 でも見た目と違ってすごい寂しがりやで、叔父さんの愛情が足りなかったのかな。最近は、ちょっと元気なくて、どうしたんだろう、とちょっと気になってて。けっこう、痩せてやつれた感じで、病気じゃないかって心配だったんです。
 叔父さんでも、磯島先生でもどちらでもいいから、千鶴叔母さんをもっと支えてくれたらよかったのに、と思います。
 でも、磯島先生も、あんまり頼りにならない、というか、おっちょこちょいなところがあって、この前なんか、アドレスのボタンを押し間違えたのか、あたしに千鶴叔母さん宛てのメールが届いたことがありましたよ。『愛する千鶴へ』とかって書いてあったんだから。びっくりしちゃった。
 内容ですか?よく憶えてないけど、確か『KCNの入手ありがとう。でも、どうやって使うかが問題なんだ』とかって書いてありました。『KCN』って何ですかね。その時は、『コリアン・コンピュータ・ネットワーク』みたいな、韓国のIT企業の名前かなって思ったんですけど、今、改めて考えると、それだとちょっと文章の意味が通じないですよね。それとも製品名かしら。え、化学式?なんですか、それ。化学は高校で習ったことないんんで、わかりません。ああ、H2Oみたいなものですね。メール?はい、まだ残ってると思います」
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