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「わたしが藍澤先生とお付き合いを始めたのは、一年ほど前からです。学生時代、先生のゼミにいたころは、もちろん、普通の先生と学生の関係でした。わたしも、当時付き合っていた人がいましたし。
 ええ、磯島さんでした。オープンにしていたので、あのときのスキー同好会の人たちはみな知ってましたよね。光岡さんもご存知だったんでしょう。でも、磯島さんとは、わたしが学部を卒業したのと同時に別れて、そのままです。価値観というか、ちょっと、お互いに考えていることが違う気がして。まさか、最近になって再びお会いするとは思っていませんでした。
 お互い、ちょっと気まずい感じはありましたが、何回か会うと、ほとんどわだかまりはなくなって、普通の友人としてお付き合いいただいていたと、自分では思います。こんなことになってしまっても、光岡さんを紹介してくれたり、骨を折っていただいて、申し訳ないと思っています。
 大学の修士を終えて現在のメーカーに就職して十年ちょっとになります。その間、藍澤先生の研究室へは、よく出入りさせていただいてました。
 藍澤先生のこれまでの学問の業績も、温厚なお人柄も尊敬はしていましたが、男性として好きになったのは、去年からです。
 当時は、仕事が行きづまって、職場の人間関係でも悩んでいたことがあって、先生が親身になって相談に乗ってくれたんです。それがきっかけでした。
 奥様に悪いという思いはもちろんありましたが、でも、自分の気持ち優先でした。それだけ精神的に追い詰められていたんです。なんて、言い訳にしかなりませんけど。会うのは、夜、大学の研究室でした。
 ただ、こんなことを言っても信じてくれないかもしれませんが、先生との間に男女の関係はありません。先生は、妻とは近々別れようと思っているので、そうしたら、晴れて結婚できる。それまで、お互いに後ろ指を差されるような関係にはならないでおきたい、ということでした。
 先生がそうおっしゃったのは、先生が保守的というか、家族関係とか、古風な価値観を大事にされる方だということもありますけど、もちろん、それだけではありません。
 というのは、奥様とは、お互いに愛情が元々なく、別れたい、と考えていたそうですが、奥様の方は、専業主婦ということもあり、中々承知しなかったようです。それが、急に、何とか折り合いがつきそうになった、ということでした。理由はわかりません。先生が財産の大部分を擲つことにしたのかもしれません。そんな微妙な時期に、先生が不倫をしているということが明るみになれば、先生にとっては奥様との離婚協議に当たって非常に不利なことになります。そのことをわたしも理解できましたので、先生の言うとおりにしていたんです。
 隠れて会っているとかえって怪しまれるということで、奥様の千鶴さんにも紹介されました。千鶴さんはとても社交的で、わたしも時々お宅にお呼ばれするようになりました。奥様に恨みとかは全くありません。素敵な方だと思います。もちろん、先生への思いはひた隠しにしていましたし、事実、幸か不幸か肉体上の不倫関係といえるものはなかったのですから、それほど罪悪感を抱くこともありませんでした。
 はい、この前も言ったように、わたしが藍澤先生のウイスキーに毒を入れたんです。警察の方にもそう言いました。
 どうしてですかって?
 一ヶ月ほど前のことです。先生がいつになく深刻な表情をして、わたしにおっしゃいました。
 『岩井君、もう君とは会えない』
 『どうしてですか、先生』
 『私には、君を愛する資格がないんだよ』
 『どういうことでしょう』
 『もう、私自身の命が続かないんだ』
 先生の言うことによると、最近、胃の調子がよくないので、内視鏡検査をしたところ、癌が見つかったということでした。それも、もはや他に転移していて、余命三ヶ月と宣告されたというのです。
 確かにこのところ、元気がなく、顔色も悪いのに気づいていたのですが、まさか、そんなことになっていようとは。
 それ以来、先生は、どうやって死ぬかをずっと考えていらしたようです。人前では、快活に振舞っていたのに、二人きりになると、ぐったりと、ため息をついて、『どうせなら、早く死んでしまいたい』と涙を浮かべて言うのでした。わたしは、そんな先生の手ををそっと握って慰めてあげることしかできませんでした。
 どうしたら、先生の心を明るくしてあげられるか、わたしも不安と悲しみで胸が張り裂けそうでした。
 そうこうするうち、先生が分析用の試薬をわたしに見せて言いました。
 『これを飲めば、すぐに死ねる』
 その試薬にはシアン化カリウム、つまり青酸カリが入っています。
 先生、そんなことを言わないでください、とわたしは泣きながら言ったのですが、先生は、力なく笑うだけでした。
 苦しんで死ぬより、毒を飲んで一息に死んでしまった方がましだ、と思うようになっていたみたいでした。そうしなかったのは、どうしても躊躇ってしまうから、ということでした。誰かが毒を盛ってくれればいいのに、ともおっしゃいました。
 わたしも、こうなったら、先生を早く死なせてあげたい、と思うようになりました。もちろん、倫理的に許されないことだとはわかっています。でも、その時の私には、それが先生を苦しみから救う唯一の方法だと信じて疑いませんでした。先生が自殺なさらないのは、わたしを殺人者にしたくないからでしょう。でも、先生のためなら、わたしが背負う汚名など、何でもありません。
 ええ、シアン化カリウムは、わたしの勤務先からごく微量盗み出し、その一部を先生のウイスキーに混ぜたんです。いいえ、先生の研究室のものではありません。もちろん、大学にも保管されているのは、知っていますが。
 え、研究室からも盗まれていた?ええ、そんな話は先生がおっしゃっていました。量が足りない気がする、調査をしなければならないかもしれないって。でも私は知りません。先生がわたしに見せた試薬は、すぐにもとの保管庫に戻したのを見ています。わたしじゃありません。本当です。今さらこんなことで嘘をついてもしかたがありません。
 いつ毒を入れたかですか?あの日、皆さんが一瞬だけ、部屋からいなくなった時があったんです。その隙に入れました。詳しいことは、わたしも動転していたので、よく憶えていません。
 警察の調書は、動機に関しては、間違いです。結婚してくれないので殺したわけではありません。でも、面倒なのでサインしてしまいましたけど。結局、自分の意思で先生を殺したのは同じことです。
 千鶴さんには恨みもありませんし、さっきも言ったとおり、わたしにとても親切にしてくれました。なので、大切な旦那様の命をわたしが勝手に奪ってしまったことは、大変申し訳ないと思います。ただ、それを申し上げる前に、千鶴さんは亡くなってしまいました。今、日にちが経って思い返してみると、なんて、不幸なお二人だったろう、と、自分のしたことを棚に上げて、そう思ってしまいます。わたしにできることは、ただお二人への謝罪と、ご冥福をお祈りすることだけです」
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