四二歳
文字数 2,277文字
「久しぶりね」
「そうだね」
こうしてアイと会うのも二年振りか。ファミリーレストランのテーブルを挟んだアイが、どこかぎこちなく伏し目がちに話しかけてくる。
デートをしていた公園で突如アイに大泣きされ、それに戸惑い、逃げるようにアイを公園に置き去りにしてから十年。こうしてまたアイと会えるという幸せを、私はしみじみと噛みしめていた。
あの日から、会社ですれ違っても話どころか目も合わせてもらえなくなり、もう関係の修復は不可能だと思った私は、丁度よく舞い込んだ業界最大手からのヘッドハンティングに飛びつき、十年務めた会社を退社した。私は外からひっそりとアイを想うことにした。
新しい会社に務めるようになってからというもの、会社に与えられた席で、私は毎日のようにアイを想った。
これまで私はアイに振り向いてもらおうと、ひたすら仕事に打ち込んできた。新しい会社に務めるようになってから、その情熱は消え去り、部下たちの提示する選択肢にただ答えるだけの無気力な日々が続いた。
会社に損害を与えようが、そのために職を失おうが、もはやどうでもよかった。自暴自棄になっていた。アイのそばにいられないということは、私にとって、それほど絶望的なことだったからだ。
しかし、思いとは裏腹に、私の選択はことごとく当たった。その場しのぎのいい加減な発言もなぜか時勢にうまく乗り、ヒット商品へと化けていった。たまたまだが、今では四十二歳の若すぎる専務だ。
四十歳を迎えたとき、中学校の同窓会が開かれた。表立ってはないが、アイをどうしても諦めきれなかった私が、木村に頼んで開かせたものだった。
八年振りに私はアイと再会し、公園での出来事を謝罪して、「一番」というのは、二番、三番がいるという意味ではなく、世界のなによりも一番だということを説明することで、なんとか和解することができた。
それから学生時代の話、会社に勤めていた頃の話をして、同じ場所にずっといたはずの二人に共通の話題がほとんどないことが妙に面白く、私とアイは笑い合った。
そして、メールアドレスを交換して、この二年間、着かず離れず連絡を取り合い、チェーン店のファミリーレストランではあるが、なんとかこうして食事することが叶った。高級店を用意しようとした私にアイは、「ファミレスのお子様ランチに目がないの」と健気にも遠慮したのだった。
「ママー、食べていいー?」
アイの隣には八歳の子供が座っていた。赤いチェックのシャツの上からオーバーオールを着たその子は、上機嫌に太い眉毛を上下させながら、ウエイトレスが持ってきたお子様ランチを前に、目をキラキラと輝かせている。
「お行儀よくね」
アイはその子の首元に、優しくナプキンを掛けた。
私の聖母。
アイが笑うだけで、コーヒーカップから、メニューの隙間から、お子様ランチのチキンライスの上から花が咲いた。
「ごめんなさいね、目が離せないものだから」
少し困った顔をして笑うアイに緊張して、私はついついコーヒーに手が伸びてしまう。
この子はアイが三三歳の時に生まれた子だった。私の失言に傷心したアイはすぐさま同僚の男に言い寄られ、そのまま妊娠し、寿退社したと聞いた。
結局、二年後に夫の浮気が理由で離婚。今はシングルマザーで、スーパーのパートとスナックのバイトで生計を立てている。これは興信所に調べてもらった確かな情報だった。この件についての失言は絶対に許されない。これ以上の遠回りはできないのだ。
「最近、どうなの?」
考え込む私を見兼ねて、アイが私に訊いてくる。
「ああ、会社もうまくいってるよ。とは言っても、今じゃ書類に目を通すだけだけどね」
「専務ですってね、すごいわ。頑張ったのね」
キラキラと輝くアイの瞳をかわすように横へ目をやると、レジに光輪を背負った聖母が立っている。まるで私のこれまでの罪をすべて許してくれるかのように優しく微笑んでいた。レジの前ではよそ見をする聖母に気付かれない若いカップルがいつまでも会計を待たされていて、彼女に急かされる彼氏が聖母に声をかけあぐねている。
「仕事しかない男だよ」
私は視線をアイに戻した。
「それじゃあ、今も独身?」
アイはこちらの様子を伺うように訊いてくる。
「そう、一人寂しく家と会社の往復」
私は精一杯戯けてみせる。それを見たアイは安心するように笑った。
「でもわたしたち、一緒になってたらどうなってたのかしら」
アイは何気なく口にしたろうが、私にとってはあまりに大きなことだった。こんな風に遠回りしなければ、もしかしたらハンバーグを頬張っているこの子は、私の子だったのかもしれない。いや、今からでも遅くない。私はアイの瞳を真っ直ぐ見つめた。
「そうだとしたら、この殺風景な世界も、もっと素晴らしいものに思えただろう」
アイはその言葉に吸い込まれそうな顔をして私を見た。私たちは熱く見つめ合った。
「きゃっ!」
アイの叫び声に、私はアイの瞳の中から現実に引き戻された。アイの子がオレンジジュースの入ったグラスを手に引っかけて倒してしまっていた。テーブルにオレンジジュースの甘い香りが広がってゆく。
「本当にごめんなさい。リョウちゃん! お行儀良くって言ったでしょ」
アイは私に謝ると、ハンカチでオレンジジュースを拭いながら、リョウちゃんの粗相を慌ただしく叱った。
「いやいや、いいじゃないか。わんぱくで」
私はこの場を和ませようと笑った。オレンジジュースを拭く手を止めて、アイは目を丸くして私を見た。
「リョウちゃん、元気な男の子じゃないか」
「え?」
「そうだね」
こうしてアイと会うのも二年振りか。ファミリーレストランのテーブルを挟んだアイが、どこかぎこちなく伏し目がちに話しかけてくる。
デートをしていた公園で突如アイに大泣きされ、それに戸惑い、逃げるようにアイを公園に置き去りにしてから十年。こうしてまたアイと会えるという幸せを、私はしみじみと噛みしめていた。
あの日から、会社ですれ違っても話どころか目も合わせてもらえなくなり、もう関係の修復は不可能だと思った私は、丁度よく舞い込んだ業界最大手からのヘッドハンティングに飛びつき、十年務めた会社を退社した。私は外からひっそりとアイを想うことにした。
新しい会社に務めるようになってからというもの、会社に与えられた席で、私は毎日のようにアイを想った。
これまで私はアイに振り向いてもらおうと、ひたすら仕事に打ち込んできた。新しい会社に務めるようになってから、その情熱は消え去り、部下たちの提示する選択肢にただ答えるだけの無気力な日々が続いた。
会社に損害を与えようが、そのために職を失おうが、もはやどうでもよかった。自暴自棄になっていた。アイのそばにいられないということは、私にとって、それほど絶望的なことだったからだ。
しかし、思いとは裏腹に、私の選択はことごとく当たった。その場しのぎのいい加減な発言もなぜか時勢にうまく乗り、ヒット商品へと化けていった。たまたまだが、今では四十二歳の若すぎる専務だ。
四十歳を迎えたとき、中学校の同窓会が開かれた。表立ってはないが、アイをどうしても諦めきれなかった私が、木村に頼んで開かせたものだった。
八年振りに私はアイと再会し、公園での出来事を謝罪して、「一番」というのは、二番、三番がいるという意味ではなく、世界のなによりも一番だということを説明することで、なんとか和解することができた。
それから学生時代の話、会社に勤めていた頃の話をして、同じ場所にずっといたはずの二人に共通の話題がほとんどないことが妙に面白く、私とアイは笑い合った。
そして、メールアドレスを交換して、この二年間、着かず離れず連絡を取り合い、チェーン店のファミリーレストランではあるが、なんとかこうして食事することが叶った。高級店を用意しようとした私にアイは、「ファミレスのお子様ランチに目がないの」と健気にも遠慮したのだった。
「ママー、食べていいー?」
アイの隣には八歳の子供が座っていた。赤いチェックのシャツの上からオーバーオールを着たその子は、上機嫌に太い眉毛を上下させながら、ウエイトレスが持ってきたお子様ランチを前に、目をキラキラと輝かせている。
「お行儀よくね」
アイはその子の首元に、優しくナプキンを掛けた。
私の聖母。
アイが笑うだけで、コーヒーカップから、メニューの隙間から、お子様ランチのチキンライスの上から花が咲いた。
「ごめんなさいね、目が離せないものだから」
少し困った顔をして笑うアイに緊張して、私はついついコーヒーに手が伸びてしまう。
この子はアイが三三歳の時に生まれた子だった。私の失言に傷心したアイはすぐさま同僚の男に言い寄られ、そのまま妊娠し、寿退社したと聞いた。
結局、二年後に夫の浮気が理由で離婚。今はシングルマザーで、スーパーのパートとスナックのバイトで生計を立てている。これは興信所に調べてもらった確かな情報だった。この件についての失言は絶対に許されない。これ以上の遠回りはできないのだ。
「最近、どうなの?」
考え込む私を見兼ねて、アイが私に訊いてくる。
「ああ、会社もうまくいってるよ。とは言っても、今じゃ書類に目を通すだけだけどね」
「専務ですってね、すごいわ。頑張ったのね」
キラキラと輝くアイの瞳をかわすように横へ目をやると、レジに光輪を背負った聖母が立っている。まるで私のこれまでの罪をすべて許してくれるかのように優しく微笑んでいた。レジの前ではよそ見をする聖母に気付かれない若いカップルがいつまでも会計を待たされていて、彼女に急かされる彼氏が聖母に声をかけあぐねている。
「仕事しかない男だよ」
私は視線をアイに戻した。
「それじゃあ、今も独身?」
アイはこちらの様子を伺うように訊いてくる。
「そう、一人寂しく家と会社の往復」
私は精一杯戯けてみせる。それを見たアイは安心するように笑った。
「でもわたしたち、一緒になってたらどうなってたのかしら」
アイは何気なく口にしたろうが、私にとってはあまりに大きなことだった。こんな風に遠回りしなければ、もしかしたらハンバーグを頬張っているこの子は、私の子だったのかもしれない。いや、今からでも遅くない。私はアイの瞳を真っ直ぐ見つめた。
「そうだとしたら、この殺風景な世界も、もっと素晴らしいものに思えただろう」
アイはその言葉に吸い込まれそうな顔をして私を見た。私たちは熱く見つめ合った。
「きゃっ!」
アイの叫び声に、私はアイの瞳の中から現実に引き戻された。アイの子がオレンジジュースの入ったグラスを手に引っかけて倒してしまっていた。テーブルにオレンジジュースの甘い香りが広がってゆく。
「本当にごめんなさい。リョウちゃん! お行儀良くって言ったでしょ」
アイは私に謝ると、ハンカチでオレンジジュースを拭いながら、リョウちゃんの粗相を慌ただしく叱った。
「いやいや、いいじゃないか。わんぱくで」
私はこの場を和ませようと笑った。オレンジジュースを拭く手を止めて、アイは目を丸くして私を見た。
「リョウちゃん、元気な男の子じゃないか」
「え?」