三二歳

文字数 2,195文字

「久しぶりだね」
 アイの口から発せられた言葉の意味が僕にはわからなかった。
「毎日、同じ会社に通ってるのに?」
 僕はその言葉の真意を探るように、慎重に言葉を選んだ。
「そうじゃなくて、こうやってゆっくり話すの」
 アイは池を囲んだ木製の柵に身体を預けるように乗り出して、池の水面に立つ波紋を見ていた。その波紋に陽光がキラキラと乱反射している。
 僕もアイと同じように池を眺め、その光に少し目を細めた。
「そうだね」
 大学の卒業パーティー会場で弁解しようとする僕に「ストーカー!」とアイが騒ぎ立て、その場から逃げるように立ち去ってから十年。僕とアイは三二歳になっていた。

 卒業パーティーからしばらくのあいだ、僕はアイの前に姿を現さないことを心がけた。偶然にでも出会ってしまったら、またストーカー呼ばわりされてしまう。僕はそんなのじゃないんだ。
 大学三年生の時、様々なツテを頼って、アイの希望する就職先を聞き、それに合わせて就職活動を行っていた。そして、僕はアイと同じ大手電器メーカーに就職することになった。あの卒業パーティーのあとからアイとの関係は最悪の状態だったが、大学卒業前に内定していたのだから、アイも仕方なくというところだろう。ちなみに、同じ業界でもさらに上位の数社から内定を貰っていたが、そんなもの、アイとは比べようもない。

 同期入社し、同じ部署の同僚になったものの、僕のことを気味悪がったアイを安心させるため、僕は吹っ切れたフリをした。
 木村に借りた恋愛マニュアル本に始まり、音楽、映画、グルメにカクテル。女の喜びそうな知識を身につけて、アイ以外の女性社員と代わる代わるデートを重ねた。それでも会社にいるあいだ、アイを目で追わないように必死だった。
 僕の女神。
 アイが笑うだけで、コピー機のトレイから、コーヒーメーカーから、パソコンのキーの隙間から花が咲いた。

 僕はなんとかアイに振り向いてもらいたくて、遮二無二仕事した。その甲斐もあって、異例の早さで課長に昇進し、昼も夜もやり手のサラリーマンという噂と共に、会社で名前を轟かせていた。
 そしてついに、アイが僕とのデートを承諾してくれた。アイと仲の良い同僚とも寝ていた僕は、また会うのを条件に、アイに僕とのデートを勧めさせ、その作戦が功を奏した。
 デートといっても、ランチを食べて、この公園というにはあまりにも広い敷地をブラブラと歩いているだけだったが、どの女と過ごす夜よりも、僕の心は満たされた。
「でも、こうやって誘ってくれるなんて、意外だったな」
 アイは僕を見てしみじみ言った。
「なんで?」
 上目遣いで訊いてくるアイの顔を直視できず、公園を女の子と散歩しているミニチュアダックスとアイをチラチラと交互に見てしまう。
「だって酷い誤解であなたを傷つけたでしょ? 本当はわたしなんて到底釣り合わないくらい、人気の男性なのに」
「そんなことないよ、変な噂が回ってるだけだって」
 慌てて弁解する僕を見てアイは笑った。
「そうだよね。時々、変な噂聞くから」
 僕の背中につうっと冷たいものが走る。僕と付き合うに至らなかった女が腹いせに僕の悪口を言い、それにおひれがついて、つまらない噂になっているのは僕の耳にも届いていた。知らない誰かが勝手に噂することは気にもならないが、それを聞いたアイがどんな風に思うのか、それを想像する僕の心は穏やかではなかった。
「でもね、レイコが一度デートしてみなよって言ってくれたから、思い切ってみようって思えたんだ」
 アイは少し照れた様子で僕の顔を伺ってくる。
 レイコとはアイと仲の良い同僚の名だ。彼女は僕と小学校が同じだと言っていた気もするが、いまいち思い出せない。その名前を聞いても僕の胸はまったく痛まなかった。確かに彼女とは寝たが、そもそもアイと付き合っているわけではないから浮気でもないし、彼女は肉体関係だけで構わないと言うから、僕らは割り切った関係を楽しんでいた。時折ベッドで涙する彼女が不可解ではあったが。
 僕はアイの誤解が解けたことに安堵し、公園の景色に眼をやった。ふと見たベンチにはワンショルダーの白いドレスをまとい、頭に月桂樹の冠をかぶった女神が腰かけていた。
 女神はミニチュアダックスに吠えられながら、僕を慈しむように柔らかい笑顔を浮かべている。飼い主の女の子がミニチュアダックスの首に繋がれたリードを必死に引っ張って、ミニチュアダックスが女神に飛びかかるのをなんとか抑えている。
「わたしね、女癖の悪い人にトラウマがあって……。知ってるでしょ? 高校のときのこと」
 その言葉に、僕は視線をアイに戻す。
「うん」
 それはアイと高校時代に付き合っていた卑劣な野球部エースのことだ。僕は校門の前で一人、雨に濡れて立ち尽くしたことを思い出していた。
 あのとき、僕にもっと勇気があれば、僕たちはこんな遠回りをしなくて済んだのかもしれない。僕はアイの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「今だって、僕の気持ちは変わらないよ」
 僕の言葉にアイは頬を赤く染め、照れるように微笑んだ。もじもじと身体を落ち着きなく揺らすと、アイは僕の瞳を見つめ返した。
「ありがとう。じゃあ、今も?」
 そうだ。僕は誰よりも君を想っている。きっとアイの両親よりも。他の女は僕にとって人でしかない。女は世界でアイ、君一人だけなんだ。
「うん、一番好きだよ」
「え?」
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