八二歳
文字数 2,765文字
よく晴れた日曜日、わたしは車の後部座席のシートに身を預け、流れる景色をそれとなく眺めていた。都心から何時間も車に揺られ、ただ目的地へと向かっていた。静かな車のエンジン音に意識を近づけていると、これまでことが思い出される。
四二歳の時、ファミリーレストランでアイさんと食事をしてから、四回、わたしは十年を越えていた。
五二歳の時は社長就任の折に、電話でアイさんを高級フレンチへと誘った。六二歳の時は引退を口実に手紙を書き、アイさんを老舗の料亭に招いた。その手紙には、フレンチのレストランでの失言を詫びる一文を添えなければならなかったのだが。七二歳の時は偶然を装って、アイさんに声を掛けた。それまでに二回ほど、声をかけられずに背中を見送っていた。
その時、アイさんはすぐにわたしと気づいていないようだった。十年で随分と老け込んだのだなと落ち込んだものだ。
それから近くの喫茶店でお茶をした。アイさんは楽しそうに話し、よく笑った。お互いに上機嫌で別れ、新しくなったというアイさんの電話番号を貰った。わたしはその夜、まるで学生が恋している相手の実家に電話するかのような緊張を胸にダイヤルを押した。
しかし、耳元に響くのは、その電話番号が使われていないことを知らせる無機質なガイダンスだった。わたしは興奮に熱した血液が急激に冷えていくのを感じながら、そっと受話器を置いた。
わたしは八二歳になっていた。アイさんはというと、この十年、行方がわからなくなっていた。以前知っていた住所もアイさんには繋がらなかった。わたしは私財を遣い、人を雇って情報を集めさせた。その僅かな情報を頼りに、方々を探させた。
そして、ようやくアイさんの居場所を突き止めた。また十年もの月日が過ぎていた。
わたしを乗せた車は高速道路から一般道に下り、いつの間にか郊外の山道を走っていた。車窓から見える景色は、目に鮮やかな緑の木々に変わっていく。
わたしの神。
アイさんが笑うだけで、争いが無くなり、飢餓は消え、世界に平和が訪れた。
振り返れば、わたしの人生はアイさんという神に巡礼を続ける信奉者の一生だった。結局、妻を娶ることも無く、生涯、独身のまま、神に祈りを捧げ続けたのだ。その度に、わたしは神の加護を得られずにいたのだが。
それでもまた、神に拝謁が叶うこととなった。わたしは運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「旦那さま、到着いたしました」
車が止まり、運転手の木村がドアを開けた。車から下りると、そこは山の中にあるロッジ調の老人ホームだった。木々に囲まれて空気も良い。環境はいいが、ここでは見舞いに来るにも一苦労だろう。これではまるで姥捨山だ。わたしはアイさんが気の毒なった。
アイさんの娘のリョウコさんが結婚し、その相手が中小企業の社長の息子で玉の輿なのだと、六二歳のアイさんは嬉しそうに話していた。
七二歳のアイさんには、リョウコさんに娘が生まれて、可愛い孫娘なのだと誇らし気に携帯電話の写真を見せられたものだった。携帯電話の画面には、アイさんには似ても似つかないほど愛嬌のない小学生の孫娘が立っていた。どちらかと言えばリョウコさんによく似ている。
わたしがファミリーレストランで見た八歳のリョウコさんも、とてもアイさんの娘とは思えなかった。恐らく父親の血が色濃く出たのだろう。男の子に見間違えたとしても、それは仕方のないことだった。その時にアイさんが、最近では孫娘に会わせてくれないのだと、寂しそうに呟いていたのを思い出す。
その娘に、こんな山の中の老人ホームに押し込まれてしまったのだ。性根もアイさんを捨てた父親に似たのだろう。わたしがアイさんと人生を歩むことができていたなら、こんな惨めな思いはさせなかった。わたしは改めて、これまでの失言を恥じた。
わたしは僅かな緊張を胸に、アイさんが好きだというピンクのガーベラの花束を持って、老人ホームへ足を進めた。
木村が面会の手続きを済ませると、わたしはテーブルとソファーの並べられたロビーに通され、そこで待たされた。堅くて座りの悪い木製の椅子と、壁掛け時計の音がわたしを苛立たせる。アイさんを待っている時間は、最後にアイさんと会ったあとの十年と同じくらい、長く感じられた。
はじめてアイさんと出会った、小学校入学式の朝。慣れない正装に戸惑うわたしと同じように、両親に手を引かれて、おめかしをしたアイさんがわたしの家の近所を歩いていた。そのときの感動が蘇りそうになった途端、その記憶は、もやがかかったようにぼやけた。
アイさんに関わる記憶がはっきりと輪郭を持っていなかったのだ。幼少期、学生時代、社会人。いつも目を瞑ればありありと思い出せたはずなのに。
手ですくった砂が、指の間からこぼれ落ちていくような錯覚にわたしは恐怖し、身を震わせた。
長い時間をかけて、この手の中に残ったものはなんなのだろう。そんなものは、はじめからなかったというのか。わたしはなんとかそれを留めようと、意味もなく拳を固く握った。
すると、車椅子に乗せられた老人が施設の職員に押され、わたしの前に現れた。
「旦那さま、彼女です」
背後から、小声で耳打ちする木村の言葉にわたしは驚愕した。
白髪で身体は痩せ細り、目は虚ろに宙を漂い、口は半分開いたままの、以前の輝きを失った神がそこにいた。
わたしは震える足でアイさんの前まで行くと、しゃがんで目の高さを合わせ、花束を差し出した。
アイさんは不思議そうに、受け取った花束を見ている。
「アイさん……」
「え?」
アイさんが驚いた顔をしてわたしを見た。
ピンクのガーベラではないのか。わたしはまたしても間違ってしまったというのか。
「認知症が進んでしまっていて、今では、誰が誰かもわからないんです」
施設の職員がアイさんの肩にそっと手を添えて、優しい声であまりに惨い現実をわたしに突きつけた。
なんということだ。
わたしは目からこぼれ落ちそうな涙を堪え、目を見開き、アイさんの手を握った。その手をアイさんはまた不思議そうに見ている。その無垢なアイさんの顔を見ていると、さらに涙が込み上げてくる。
泣いては駄目だ。ここで泣いてしまっては、涙と共にわたしのこれまでのアイさんへの想いが、わたしの人生で唯一、偽りのないものが流れ落ちて、消えてしまう。それだけは嫌だった。
「神は死んだ」とニーチェは言った。
しかし、わたしの神は、今もこうしてわたしの目の前で生きている。抜け殻のような姿になって。それでも生きている。確かに生きている。
だからわたしはこれから幾度もここへ訪れることになるだろう。手にはピンクのガーベラの花束を持って。
わたしはアイさんが好きだから。
終
四二歳の時、ファミリーレストランでアイさんと食事をしてから、四回、わたしは十年を越えていた。
五二歳の時は社長就任の折に、電話でアイさんを高級フレンチへと誘った。六二歳の時は引退を口実に手紙を書き、アイさんを老舗の料亭に招いた。その手紙には、フレンチのレストランでの失言を詫びる一文を添えなければならなかったのだが。七二歳の時は偶然を装って、アイさんに声を掛けた。それまでに二回ほど、声をかけられずに背中を見送っていた。
その時、アイさんはすぐにわたしと気づいていないようだった。十年で随分と老け込んだのだなと落ち込んだものだ。
それから近くの喫茶店でお茶をした。アイさんは楽しそうに話し、よく笑った。お互いに上機嫌で別れ、新しくなったというアイさんの電話番号を貰った。わたしはその夜、まるで学生が恋している相手の実家に電話するかのような緊張を胸にダイヤルを押した。
しかし、耳元に響くのは、その電話番号が使われていないことを知らせる無機質なガイダンスだった。わたしは興奮に熱した血液が急激に冷えていくのを感じながら、そっと受話器を置いた。
わたしは八二歳になっていた。アイさんはというと、この十年、行方がわからなくなっていた。以前知っていた住所もアイさんには繋がらなかった。わたしは私財を遣い、人を雇って情報を集めさせた。その僅かな情報を頼りに、方々を探させた。
そして、ようやくアイさんの居場所を突き止めた。また十年もの月日が過ぎていた。
わたしを乗せた車は高速道路から一般道に下り、いつの間にか郊外の山道を走っていた。車窓から見える景色は、目に鮮やかな緑の木々に変わっていく。
わたしの神。
アイさんが笑うだけで、争いが無くなり、飢餓は消え、世界に平和が訪れた。
振り返れば、わたしの人生はアイさんという神に巡礼を続ける信奉者の一生だった。結局、妻を娶ることも無く、生涯、独身のまま、神に祈りを捧げ続けたのだ。その度に、わたしは神の加護を得られずにいたのだが。
それでもまた、神に拝謁が叶うこととなった。わたしは運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「旦那さま、到着いたしました」
車が止まり、運転手の木村がドアを開けた。車から下りると、そこは山の中にあるロッジ調の老人ホームだった。木々に囲まれて空気も良い。環境はいいが、ここでは見舞いに来るにも一苦労だろう。これではまるで姥捨山だ。わたしはアイさんが気の毒なった。
アイさんの娘のリョウコさんが結婚し、その相手が中小企業の社長の息子で玉の輿なのだと、六二歳のアイさんは嬉しそうに話していた。
七二歳のアイさんには、リョウコさんに娘が生まれて、可愛い孫娘なのだと誇らし気に携帯電話の写真を見せられたものだった。携帯電話の画面には、アイさんには似ても似つかないほど愛嬌のない小学生の孫娘が立っていた。どちらかと言えばリョウコさんによく似ている。
わたしがファミリーレストランで見た八歳のリョウコさんも、とてもアイさんの娘とは思えなかった。恐らく父親の血が色濃く出たのだろう。男の子に見間違えたとしても、それは仕方のないことだった。その時にアイさんが、最近では孫娘に会わせてくれないのだと、寂しそうに呟いていたのを思い出す。
その娘に、こんな山の中の老人ホームに押し込まれてしまったのだ。性根もアイさんを捨てた父親に似たのだろう。わたしがアイさんと人生を歩むことができていたなら、こんな惨めな思いはさせなかった。わたしは改めて、これまでの失言を恥じた。
わたしは僅かな緊張を胸に、アイさんが好きだというピンクのガーベラの花束を持って、老人ホームへ足を進めた。
木村が面会の手続きを済ませると、わたしはテーブルとソファーの並べられたロビーに通され、そこで待たされた。堅くて座りの悪い木製の椅子と、壁掛け時計の音がわたしを苛立たせる。アイさんを待っている時間は、最後にアイさんと会ったあとの十年と同じくらい、長く感じられた。
はじめてアイさんと出会った、小学校入学式の朝。慣れない正装に戸惑うわたしと同じように、両親に手を引かれて、おめかしをしたアイさんがわたしの家の近所を歩いていた。そのときの感動が蘇りそうになった途端、その記憶は、もやがかかったようにぼやけた。
アイさんに関わる記憶がはっきりと輪郭を持っていなかったのだ。幼少期、学生時代、社会人。いつも目を瞑ればありありと思い出せたはずなのに。
手ですくった砂が、指の間からこぼれ落ちていくような錯覚にわたしは恐怖し、身を震わせた。
長い時間をかけて、この手の中に残ったものはなんなのだろう。そんなものは、はじめからなかったというのか。わたしはなんとかそれを留めようと、意味もなく拳を固く握った。
すると、車椅子に乗せられた老人が施設の職員に押され、わたしの前に現れた。
「旦那さま、彼女です」
背後から、小声で耳打ちする木村の言葉にわたしは驚愕した。
白髪で身体は痩せ細り、目は虚ろに宙を漂い、口は半分開いたままの、以前の輝きを失った神がそこにいた。
わたしは震える足でアイさんの前まで行くと、しゃがんで目の高さを合わせ、花束を差し出した。
アイさんは不思議そうに、受け取った花束を見ている。
「アイさん……」
「え?」
アイさんが驚いた顔をしてわたしを見た。
ピンクのガーベラではないのか。わたしはまたしても間違ってしまったというのか。
「認知症が進んでしまっていて、今では、誰が誰かもわからないんです」
施設の職員がアイさんの肩にそっと手を添えて、優しい声であまりに惨い現実をわたしに突きつけた。
なんということだ。
わたしは目からこぼれ落ちそうな涙を堪え、目を見開き、アイさんの手を握った。その手をアイさんはまた不思議そうに見ている。その無垢なアイさんの顔を見ていると、さらに涙が込み上げてくる。
泣いては駄目だ。ここで泣いてしまっては、涙と共にわたしのこれまでのアイさんへの想いが、わたしの人生で唯一、偽りのないものが流れ落ちて、消えてしまう。それだけは嫌だった。
「神は死んだ」とニーチェは言った。
しかし、わたしの神は、今もこうしてわたしの目の前で生きている。抜け殻のような姿になって。それでも生きている。確かに生きている。
だからわたしはこれから幾度もここへ訪れることになるだろう。手にはピンクのガーベラの花束を持って。
わたしはアイさんが好きだから。
終