二二歳

文字数 3,426文字

 俺はアイが好きだ。それは二二になった今でも変わらない。
 小六からアイは口を利いてくれなくなった。それもこれも、あのときのバカな質問のせいだ。でも、小六で生理って言葉を知らない男も少なくはないはずだ。それでもデリカシーのない質問をしてしまったし、完全に失敗だった。あの日に時間を戻せるなら、決してあんなこと口走らない。ついでに木村の奴をぶん殴ってやりたい。
 それでも俺はアイを想い続けた。十年間一日だって、アイのことを想わなかった日はない。

 俺とアイは小学校を卒業して、近所の同じ公立中学校へ進んだ。中学生になった俺はアイの気を引こうと、得意だった野球に力を入れた。
 朝練は誰よりも早く学校に行ってグラウンドを走り、練習が終わって家に帰れば、陽が落ちても手の皮が剥けるまでバットを振り続けた。その甲斐もあって中二のとき、野球部は全国大会で優勝し、日本一になった。
 エースで四番の俺を学校中が知ることになっても、アイと話すことができずにいた俺は、アイと同じ高校に進むことで、なんとか望みを繋げようとした。
 問題はアイが恐ろしく頭が良いことだった。アイが学区で一番偏差値の高い公立高校を受験することを知った俺は、その日に野球部を退部して受験勉強に備えた。すでに強豪校から野球特待生の誘いが来ていた俺の突然の退部願いに、顧問の教師はまず俺を叱り、それでも答えを変えない俺に泣きつき、とうとう家に来て土下座までしたが、俺の決意は揺るがなかった。
 野球しか取り柄がなく、成績が人並み以下だった俺はそれこそ血の滲む努力をした。勉強のしすぎで二度病院に運ばれたこともあった。
 しかし、努力の甲斐もあって、俺は学区で一番偏差値の高い、アイと同じ高校へ進むことができた。

 高校に入学した俺は野球部にも入らず、勉強漬けの毎日を送った。きっとアイは大学に進む。俺はアイがどの大学を選んでもいいように、友達も作らず、学力を上げることだけに集中した。それにもう、高校受験のときのようなICU行きは御免だ。
 家が近所というのもあって、通学時に俺とアイはよく顔を合わせた。あまりにそれが続くものだから、アイは面白がって話かけてくれるようになった。家を出るタイミングを玄関で計っている俺を母は不審がったものだが。
 それから次第に俺とアイは一緒に通学するようになった。そんな日々を送るうちに、やがてアイは俺に無邪気な笑顔をくれるまでになった。
 俺の天使。
 アイが笑うだけで、バス停から、郵便ポストから、マンホールの隙間から花が咲いた。

 しかし、高二のとき、事件が起きた。なんとアイに彼氏ができたのだ。相手は三年の野球部のエース。顔も良く、背も高い、学校一のモテ男。女がらみの噂も多い、最低のクズ野郎だった。
 奴がアイに相応しい男なのかどうかを見極めるべく、俺は人知れず奴の身辺調査を始めた。
 奴が学校の朝練へと向かう時間、俺は奴の家の前にある電柱に隠れて、登校する奴の背中を追った。
 朝練を校舎から眺め、できる限り奴の教室に足を運んで、放課後は野球部の練習を眺めた。そこを通りかかった木村が「そんなに野球したいなら、入部したらいいじゃねえかよ」とからかうように言ってきたが、俺は木村を無視して奴の姿を見つめ続けた。
 練習が終わると奴は疲れた様子もなく、野球部の仲間と繁華街へと繰り出し、合コンやナンパに明け暮れていた。やはりそうだ、奴は噂通りの男だった。遊んで帰ったあと、夜遅くに家の前で投球練習にタオルを振り続ける努力を野球部の仲間に見せない部分は、この際、判断材料から除外する。

 奴がアイに相応しい男じゃないことを学校中に証明すべく、俺は二年で野球部に仮入部した。全中の優勝経験がある俺を、そのエースは面白半分でバッターボックスに立たせるものだから、お望み通りに奴の本気の球をトスバッティングのように打って打って打ちまくり、完膚なきまでに叩きのめしてやった。
 奴は力なくピッチャーマウンドに膝をついて崩れ落ちた。その光景を見た野球部の監督は俺を褒め称え、それでも反応を示さない俺に泣きつき、とうとう家に来て土下座までしたが、俺の決意は固く、仮入部のみに留めた。

 次の日の放課後、下校する俺をアイは校門で待っていた。俺の行動で、アイも奴が相応しい相手ではないと気づいてくれたようだ。ついにこの日が来た。俺の胸は激しく高鳴った。
 しかし、俺の淡い期待を打ち崩すように、アイは真剣な眼差しで俺を責め立てた。彼氏が自身喪失に陥り、その原因は俺なのだと。
 俺は必死に奴の素行の悪さを説いた。それでもアイは俺の言葉などまったく信じようとはせず、目に涙を浮かべて走り去った。
 雨が降りだした。天使が泣くと雨が降るのだと、俺はそのとき知った。
 俺はその日から大学受験のため、これまで以上に勉強に励んだ。アイと話すことができなくても、アイが彼氏に遊ばれたあげく無残に捨てられたという噂が学校中を駆け巡っても、無我夢中で勉強した。おかげで俺は国内最高峰の大学に合格できるほどの学力を手に入れた。
 だけど、俺は失恋して大学受験に失敗したアイと同じ大学への進学を決めた。木村からなぜ大きくランクを下げるのかと笑われたけど、俺は木村を無視して勉強を続けた。俺はただ、アイと同じ大学に進みたかっただけだった。

 そして、あの小学校の失言から十年。大学の卒業パーティーに来ていた。ホテルのセレモニーホールを借り切ったパーティー会場には、その年の卒業生たちが精一杯にドレスアップして互いを祝い合っている。その中にアイの姿もあった。
 白いドレス姿に栗色の長い髪をアップさせたアイは、俺が今まで見たどんな景色よりも美しかった。
「アイちゃん」
 俺は勇気を振り絞って、アイに声をかけた。
「久しぶり……」
 アイはどこか気まずそうに返事する。
「まだ、怒ってるかな?」
 俺は恐る恐るアイに訊いた。
「ううん、もう怒ってないよ。わたしのほうこそ悪いことしちゃったから、まだ怒ってるんだろうなって思ってた」
 俺を傷つけたと思い、今日までそのことを気にかけていた。なんて健気なんだ。
 その言葉を合図に、心地良いハープの音色と共に、天から天使たちがキラキラと光を放ちながら、俺の肩の辺りまで下りて微笑みかけてくる。
「そんなことないよ、怒ってなんかない。アイちゃんが怒ってないってわかって良かった」
「もう卒業だけどね。同じ大学にいるのに四年間も話せなかったなんて、なんかもったいないね」
「そうだね」
 はにかむアイの笑顔を見て、だらしなく顔をほころばせる俺の腕を引いて、天使たちが俺を天へと連れていこうとする。
「でもなんでこの大学にしたの? 高校の時、成績も一番良かったのに」
 天へと連れていかれそうな俺にアイが訊いてくる。俺はアイの質問に答えるべく、丁重に天使たちの手を振り解き、この場から遠慮してもらうように会釈した。天へと還っていく天使たちに気を留めず、俺はアイの瞳を真っ直ぐに見つめた。ついにこのときが来た。
「実は、アイちゃんと同じ大学に行きたかったからなんだ。ずっと、君のことが好きだった」
 心臓が破裂しそうなくらい動悸している。視界はぼやけて、足に力が入らず、立っているのがやっとだった。しかし、ようやく伝えることができた。
 だけど、俺の言葉にアイは動揺しているようだった。もしかしたら、気持ち悪いと思われたかもしれない。
「そんな……、わたしのために大学まで変えるなんて……。全然知らなかった」
 アイは頬を紅潮させて心臓の鼓動を抑えるように、胸に手を当てている。
「おかしいかな?」
 俺は緊張に、声を震わせた。
「……嬉しいよ」
 その言葉を聞いた途端、また天から天使たちが下りてこようとするものだから、俺は慌てて、天使たちに向かい手を差し出して止めた。
「じゃあ……」
「ちょっと待って、突然すぎて……。少し落ち着きたい」
 喜びのあまり、答えを催促しようとする俺を、今度はアイが手を向けて止める。
「そうだよね、ごめん。俺、何か飲み物取ってくるよ」
「お願い」
「あっ、それからビュッフェに美味しそうなサーモンがあったんだ。好きだよね? サーモン」
「わたしの好きな物、知ってるんだね」
 アイは不思議そうに笑った。
 当たり前じゃないか、君のことならなんでも知ってる。俺は君の望むすべてを叶えてあげられるんだ。
「毎日、君のこと見てたからね」
「えっ?」
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