第3話
文字数 1,271文字
「旦那、すまねえ。やっちまった。痛かったですかい?」
床屋の親父 の言葉に、
「なあに、気にしなくていいよ。少しちくりとしただけさ」
答えながら鏡を覗くと、確かにシャボンを塗られた片頬の一点、赤く滲んでくるものがあった。すぐに濡れタオルが押し当てられ、
「ちょいとこのままにしておきましょう。なあに、すぐ止まりまさ」
のんびりとした親父の声が、ものうく耳に纏 わる。
世間もだいぶ暑くなってきた時分だから、濡れタオルは冷たく、その心地よさの中で再び瞼 を閉じかけると、
「また来たの? そんなにあたいの軀 が好きなの」
赤姫の声が耳に甦り、俺はみじめに戸惑う。
人間の女を愛せなくなった俺は、床屋で髯 をあたってもらっている。
赤姫は俺が飼っていた金魚で、俺の情婦でもあった。
水槽の中には、もう一匹、青鬼という金魚がいた。俺はかつてしばしば異界の境界を越え、青鬼の眼を盗んで赤姫とまぐわった。境 を越えると、赤姫は白い肌に赤い薄物 を纏った女で、青鬼は古武士 のように見えた。
人の毒に中 って赤姫は次第に弱り、ついに病 膏肓 に入 って明日をも知れぬ身となった。青鬼に首を捩じ切られる覚悟で、〝死に水〟を取りに行ったが、青鬼は俺を殺さなかった。すぐにイノチを取らぬ代わりに、青鬼は俺に呪いをかけた。俺は、人の女を愛せなくなった。
赤姫が死んだ翌朝、青鬼も円い腹を上にして、揺れる水草の陰に浮いていた。
青鬼が赤姫の何だったのか、俺は知らない。まぐわり合っていたのだから夫婦だろうと考えるのは早計で、あるいは兄妹だったのかもしれないし、父娘だと聞いても驚くほどではない。
いや、あんな見かけによらず、案外青鬼は、赤姫のヒモだった可能性すらある。
もし青鬼が赤姫のヒモなら、俺こそ本物の旦那で、青鬼の方が間男 ということになる。俺は青鬼に遠慮するどころか、むしろ怒っていいはず――と、此処 まで考えて、急にひどくばかばかしい気分になる。
人界の掟とは無縁の場所で、美しい鰭をそよがせていたものたちに、人の道理を説いてみたところで詮 なきことではないか。彼らは涼しい顔でそっぽを向き、口から小さな泡を吹き零 すだけだろう。
床屋の親父の剃刀 が俺の頬を切った時、視界の隅に青い影が走ったと見たのは、やはり俺の気のせいだったか。
ぽたり。
赤い花びらのようなものが床に落ちた気がして、眼を開けると、鏡の中に愛染明王 が映っていた。
俺の顔は一面血に染まり、背後から古武士のような風貌の、全身青い男が覗き込んでいる……。
「おや、旦那。変な夢でも見なすったかね、頓狂 な声を上げて」
親父の声にはっとして鏡を見直せば、いつもと変わらぬ俺の顔がきれいにシャボンを拭 われて、そこにあった。
光沢を放つ頬の一点に、眼を凝 らさなければわからぬほどの、薄い染みが残るばかり。赤姫の唇の痕 。死者の思いは、それでも猶 消えずに、この世に残っているのか。
その思いが愛なのか、恨みなのか、呪いなのか、人の俺にはわからない。
――親父の手の中の剃刀がまた青い光を閃 かし、思わず瞑 った瞼の裏が、ぱっと朱 に染まった。
床屋の
「なあに、気にしなくていいよ。少しちくりとしただけさ」
答えながら鏡を覗くと、確かにシャボンを塗られた片頬の一点、赤く滲んでくるものがあった。すぐに濡れタオルが押し当てられ、
「ちょいとこのままにしておきましょう。なあに、すぐ止まりまさ」
のんびりとした親父の声が、ものうく耳に
世間もだいぶ暑くなってきた時分だから、濡れタオルは冷たく、その心地よさの中で再び
「また来たの? そんなにあたいの
赤姫の声が耳に甦り、俺はみじめに戸惑う。
人間の女を愛せなくなった俺は、床屋で
赤姫は俺が飼っていた金魚で、俺の情婦でもあった。
水槽の中には、もう一匹、青鬼という金魚がいた。俺はかつてしばしば異界の境界を越え、青鬼の眼を盗んで赤姫とまぐわった。
人の毒に
赤姫が死んだ翌朝、青鬼も円い腹を上にして、揺れる水草の陰に浮いていた。
青鬼が赤姫の何だったのか、俺は知らない。まぐわり合っていたのだから夫婦だろうと考えるのは早計で、あるいは兄妹だったのかもしれないし、父娘だと聞いても驚くほどではない。
いや、あんな見かけによらず、案外青鬼は、赤姫のヒモだった可能性すらある。
もし青鬼が赤姫のヒモなら、俺こそ本物の旦那で、青鬼の方が
人界の掟とは無縁の場所で、美しい鰭をそよがせていたものたちに、人の道理を説いてみたところで
床屋の親父の
ぽたり。
赤い花びらのようなものが床に落ちた気がして、眼を開けると、鏡の中に
俺の顔は一面血に染まり、背後から古武士のような風貌の、全身青い男が覗き込んでいる……。
「おや、旦那。変な夢でも見なすったかね、
親父の声にはっとして鏡を見直せば、いつもと変わらぬ俺の顔がきれいにシャボンを
光沢を放つ頬の一点に、眼を
その思いが愛なのか、恨みなのか、呪いなのか、人の俺にはわからない。
――親父の手の中の剃刀がまた青い光を