9.ルントラント万歳

文字数 10,659文字

 一九四〇年六月、パリは抵抗なきままにドイツ軍を迎え、独仏休戦協定が結ばれた。世界の目はあまりにもあっけないフランスの末路に向いており、同じく占領下にある小さな国で同時期に起きたことに注目しているものは誰も居なかった。
 ラジオから流れているのは、コンピエーニュの森で行われた休戦協定への調印を伝えるドイツのニュースだ。アナウンサーは先の大戦での屈辱が晴らされたことを勇ましい口調で伝え、彼らの総統の偉業を讃えている。
 けれど、そのラジオを聞くべき住人は家の中には居ない。ラジオを付け、食卓に手を付けかけた朝食が並んだ状態のまま、その家の住民は慌ててどこかへでかけていったかのようだ。
 同様の現象は、その日、ルントラント全土で起こっていた。
 首都ロイテンゲンに住んでいて家を空けずに住んだ住民たちは、窓の外に広がる光景を震えながら見つめていた。窓の外、小雨の降る石畳の通りで繰り広げられているのは、着の身着のままの老若男女が銃を構えた兵士たちの指揮のもと連行されていくという光景だ。連行される人々はに共通するのはただ一つ、ダビデの星の腕章をつけているという点だけだ。
「──兵隊さん! どうしてヨーズアを連れてくの?」
 一つの家の窓が開き、小さな女の子が沿道に立つ兵士に問いかけた。どうやら、トラックへと流れてゆく列の中に、友達の姿を見つけたらしい。慌てて母親が我が子を抱き上げ、室内に引っ張り入れたが、少女は納得がいかない様子だ。なにしろ、親衛隊員だとかドイツ国防軍の兵士ならばともかく、そこに立っているのは今までならば陽気に挨拶をしてくれたり、時には飴をくれることもあったルントラント国軍の兵隊さんなのだ。声をかけるなと言われても、納得がいかないのだろう。
 シュナーベル親衛隊大佐がルンテンゼー遺跡を調査する最中、何者かによって襲撃を受け命を落としたと伝えられたのは、わずか一週間ほど前のことだった。ルントラントに駐留する親衛隊のトップであったシュナーベルは、ルントラントがドイツに併合された暁には大管区長に就任するだろうと目されていた存在である。その突然の死に対しては何らかの報復があるものと噂されてはいた。だが、今日起きているこの事態は、そういった噂のさらに上を行くものだった。
「ルントラントは親衛隊からの提案に従い、自らの手で犯罪人とその係累、およびドイツ民族にとっての敵性民族をこの地上から消し去ることでドイツへの友誼を示す」
 ルントラント政府は首相以下の連名でそのような声明を出し、国軍兵士を使って「犯罪人とその係累、およびドイツ民族にとっての敵性民族」の摘発を始めると発表、そして間髪をいれずに起きているのが今朝からのこの光景であるのだった。けれど、誰の目から見ても、連れて行かれるものたちはシュナーベル親衛隊大佐の暗殺に関わったことがあるどころか、「敵性民族」などとすら思い難いものばかりだ。連れて行かれるものもそうでないものも、ルントラントという国が生贄を捧げたことを理解しないわけにはいかない、そんな光景が、小さな国の至るところで発生していた。
 ロイテンゲンの通りという通りに発生している遅々とした人の流れは、王城からもよく眺め渡すことができた。石造りの古い城塞の最上部、尖塔の屋上に立つ幾つかの人影もまた、小雨の中傘をさすこともなくその光景を眺め続けていた。
「本当に、よろしかったのですか。いずれは濯げる汚名とはいえ、今日明日のことではない。ことによれば、閣下がたの死後ようやく、ということになるかもしれないというのに」
 訛りのないドイツ語が、城下を見下ろす老人たちに向けて発せられた。声を掛けたのは、尖塔を登りきって屋上に現れたばかりの〈ちとせ〉だ。
「うむ、名など、所詮は名だ」
 一人の、前世紀の貴族のような服装の老人が振り返った。彼こそがルントラントの首相である──と説明するよりも、あの時、山小屋で〈ちとせ〉と話をしたあの老人だ、と説明するほうがわかりやすいだろう。
「あれだけの生命を救うことができるのならば、なんとなれば永劫に汚名が晴らされずとも構いはしないとも。なあ、諸君」
 胸壁の前に立っていた他の老人たちも振り返り、そうだそうだ、と同意を口にし、頷いた。彼らもまた閣僚、あるいは国軍の将軍であり、そして、あの山小屋に居てルンテンゼー遺跡には向かわなかった「抵抗組織」の重鎮たちであった。
「それよりも、ハルト・シュラーくん。いや、ええと……〈ちとせ〉くんだったか。君こそ、ここからが正念場だろう。ぜひとも頑張ってくれたまえよ」
「は。お言葉、痛み入ります」
 首相の言葉に、〈ちとせ〉は深々と頭を下げ、螺旋階段へと下がりかけ、ふと足を止めた。
「──そうだ、申し上げるのが遅れておりました。僕とあの少年とは、ですからひいては女王陛下は、フォン・ゾンマー近衛中佐のおかげで命拾いをすることになりました。自らを顧みぬ勇気に、心から感謝をいたします」
「うん。……そうか」
 ルントラント王国首相クリスティアン・エリクセン・フォン・ゾンマーが客人に向けた短い返答は、こころなしか震えていた。
 ルントラント国軍を動員しての国内におけるユダヤ人並びにジプシー、ロマをはじめとする少数民族の「処理」は、わずか半日ほどで終了した。その旨はルントラントに駐留する親衛隊を通じて「シュナーベル親衛隊大佐暗殺実行犯への報復」としてドイツ本国の親衛隊本部へと伝えられ、計画立案者は称賛を浴びることとなった。つまり、この場合書類上ではホップ親衛隊中尉がその対象である。
「うわーお。俺、すげえ昇進するっぽいですよ。特別行動部隊(アインザッツグルッペン)への指揮官待遇での異動の打診まで来てんですけど。あんた、そのまま残ってりゃあ出世コース間違いなしだったでしょうに」
 親衛隊本部からの連絡を前に、ホップ中尉はにやりと笑いながら〈ちとせ〉を見た。実際のところ、ホップ中尉は次の司令官が赴任するまでの最上位者として書類上計画立案者ということになっていたに過ぎず、計画の青地図を引いたのは〈ちとせ〉であったのだ。
「ちょっと御免被りたい出世コースだな。お前、その異動蹴っとけよ。ボロを出されちゃ困る」
「分かってますよ、下手な真似して古代の神さまだか宇宙人だかに嫌われたくないですし。そっちこそことを露見させないでくださいよ、あんたはその時ゃ少なくともドイツの勢力圏外だろうが、こっちは全員抗命罪やら何やらで縛り首間違いなしなんですからね」
「任せておけ」
 ホップ中尉の肩を叩き、〈ちとせ〉は胸を張って宣言した。
 王宮の外はすっかり暗くなり、ルンテンゼーの湖上には掛け始めた月が浮かぶ頃となっている。ルントラントの地下には青い結晶を通じて月明かりが差し込んでいるだろう。青い月明かりの中に、何千人という人々が不安げな表情を浮かべている様子がありありと脳裏に浮かび、〈ちとせ〉はその責任の重さに身震いがする気になった。
 山場は、今夜だ。〈ちとせ〉は自らの顔を叩き、王宮の地下へと続く階段を数段飛ばしで下り始めた。
 そして、およそそれから一月後。
 舞台は地球を半周ほどした先、日本列島のある一点へと移る。
 恐ろしくよく晴れたある日、神戸の港に一隻の船が到着していた。だが、何やら手間取っているらしく、なかなか乗客は降りてこない。船の前には、どうやらその便を待っていると思しき一台の車が停まっている。ナンバープレートを見るまでもなく、カーキ色の制服を着込んだ陸軍軍人が運転席に収まっているところからして、軍の車だと分かる。
 後部座席の陸軍少佐は、苛立った様子で葉巻をふかしつつ、何度も到着した船のタラップを眺めていた。そのタラップに人の姿が現れたのは、少佐がすっかりふてくされ、船の様子を見るのも諦め始めた頃になってのことだった。
「貴様! 〈ちとせ〉、一体どういうつもりだ、何のつもりであんなまねを、よりによって責任者を俺の名でッ」
「やーあこれはルントラント駐在武官殿、たいへんものすごくお久しぶりであります! 暗号名を天下の公道で叫ぶのはおやめいただきたく思いますな、まあ勝手に他所の国の兵隊に漏らしたほどですから秘匿すべき情報とも思っておられなかったのでしょうが」
 タラップを駆け下りてきた〈ちとせ〉と二ヶ月ほど前までルントラント駐在武官であった陸軍少佐とは、港の街灯の真下で即座に殴り合いを始めかねない勢いで再開を果たした。どういうわけか握手を交わしているのは、互いに相手に殴られる可能性を重々承知した上で、その拳を使用不能にしようとした結果であったようだ。
「責任者の名については他に思いつかなかったのでそうさせていただいたまでです、が、しかし、掛けた迷惑に見合うだけのものは持ち帰ったつもりであります」
 右手はガッチリと握手をしたままであるので残る左手で、〈ちとせ〉はポケットに入れていたものを取り出してみせた。金の鎖の先に下がった、大振りな青い宝石──〈契約の石〉だ。陸軍少佐がぎょっとした顔を見せたのは、事前に幾つかの国の日本大使館で無理を通しついでにその〈石〉のもつ力について、いくつかの情報を除いてはほぼ完全に報告をしていたからだ。
「これが、本当にその……?」
 少佐は〈石〉に手を伸ばしかけ、しかし直前で引っ込めた。報告には、〈石〉に使用者として認められなかったシュナーベルが焼け死んだ旨をしっかりと明記しておいた。どうやら迷惑をかけられたことには怒りつつも、しっかりと報告にも目を通してくれていたようだ。ならば、話は早い。
 〈石〉に見入りつつもその力を恐れた少佐は、自身が恐れを抱いたことを恥ずかしく思ったらしく、慌てて咳払いをした。
「う、うん。しかしだな、だとしても、貴様、あれは──そう、あれは一体どういうことか!」
 と、怒りで表面を取り繕いつつ少佐が指差したのは、〈ちとせ〉が降りてきた船だった。いや、正確にはその甲板上だ。
 そこには、無数の人々が居た。誰も彼も着の身着のままで、蒸し暑い異国の日差しに汗を拭い、見知らぬ景色に目を細め、やや怯えた様子すら見せている。仕方あるまい、何しろルントラント人は、ほぼ自分の国からでたことのないものばかりであるという。それが遠い日本の地にまで連れてこられて、困惑しないはずがないだろう。
 〈ちとせ〉も少佐に倣って青空を背にするルントラントからの避難民たちを仰ぎ見つつ、ニッコリと笑顔をうかべた。ここまで来たのだ、あとはもう、失敗の余地など存在しないに等しい。
「はい、ルントラント駐在武官殿。はじめにスイスより打電いたしましたとおり、〈石〉を使用するには正当な血筋が必要、とシュナーベルは目しておりました。そして、自分こそその血筋を持つと目していたが──」
「実際には違ったと。そう、報告していたな。だから、その代わりに〈石〉とともに候補者を連れ帰る、と報告を受けたはずだが」
 少佐はやはり、報告書の記載通りの答えを返した。どうやら、根がマメな男であるらしい。
「そう、そのとおり。で、ありますので、候補者を連れてきたのであります。一通り、全員を」
「一通り、全員を」
 言葉をオウム返しにして、再度、陸軍少佐は船の上を仰ぎ見た。そこには老若男女、ナチが自らの勢力圏内に置きたくないと目したほかには共通点の何一つないルントラント人たちがすし詰めになっている。その様子を眺めつつ、少佐は口の中で「まさかこんな人数」とか「どうやってスイス経由で連れてきたんだ、内陸国だぞ内陸国」とか、もごもごとつぶやいたようだった。が、やがて更に空を仰ぎ見て、大きく深呼吸をした。
「分かったよ、来たものはもうどうにもしようがない」
「は、ありがとうございます」
 陸軍少佐は、もはや目の前にあるものをそのまま受け入れることにしたようだった。追い返したら途中で通した他の大使やら駐在武官やら公使やらのメンツも潰すことになるのだ、追い返すわけがない。
 甲板の上に居た人々が、ようやくタラップを降り始めた。〈ちとせ〉が声を掛け、降りるよう促したのだ。あたりには、ルントラント人たちの様子を困ったように見つめる役人の姿も見受けられる。おそらくは神戸市の職員だろう。一九四〇年の夏、神戸市にはリトアニア領事代理時代の杉原千畝からビザを受け取ったユダヤ人が到着しはじめてもいる。何重にも予期せぬ形で外国人を迎え入れることとなっている市職員たちにとっては、目の前の光景はさらなる難題が次々に上陸してくる光景に他ならなかったはずだ。
 軍人たちの乗った車が遠ざかるのとともに、近づいてくる靴音があった。
「役人さん、ちょっと迷惑ついでに連絡を頼みたいんだが──」
 市の職員が近づいてきたものと思い、朗らかな笑顔とともに振り向いた〈ちとせ〉の顔は、しかし途中で強張ることとなった。そこに立っていたのは、彼に〈ちとせ〉の暗号名を与え、偽りの身分をも与えてドイツへ送り込んだ上官であったのだ。
「連絡は必要ない、もう、一通りのことは把握している」
 上官は、先程の陸軍少佐たちとは違い、上物の背広を着込んでいる。一見するに軍人と分かるものは居ないだろう。
「〈石〉を使用しうる候補者にしては随分と、どこかの国が嫌う民族ばかりを連れてきたようだ。果たして、あの中に本当に、〈石〉の力を使いうる人間は居るのかな?」
 耳に入ってくる言葉に、軍人の高圧さは微塵も含まれていない。だというのに、〈ちとせ〉は上官が話せば話すほど、先程の陸軍少佐を相手にしているときよりも重々しいものが腹に溜まっていくような感覚を覚えていた。
 ルントラント人たちはすっかりタラップを降りきり、〈ちとせ〉の様子をうかがっている。漏れ聞こえる言葉からするに、彼が市の職員と話しているとでも思っているようだ。
「──ええ。シュナーベルの説が正しければ、居るはずです。ですので、登戸でもそれ以外のどこでも、検査なり研究なりを進めてください」
「つまり、官費で彼ら全員を、結果が出るまで養え、というのだね」
 ぎゃあぎゃあと海鳥のなく声がべたつく潮風に混じり、港にあふれている。〈ちとせ〉は体内の水分がすべて無くなるのではないかというほどに汗をかいているというのに、その横に立つ上官は、涼しい顔に汗一つ浮かんでは居ない。
「ま、適当な予算を取ってきてやろう。ものは実際に持ち帰ってきたんだ」
 と、上官はいつの間に手にしたものか、青い宝石の下がった振り子を手に掲げ、青空に透かしてみせた。星型八面体を作る奇妙な結晶は、強い日差しを受け、青い炎をその裡に揺らがせたようであった。
 〈ちとせ〉はほっと息をつき、頭を下げた。その様子を上官は本心の分かりにくい笑顔で眺めていたが、やがて、
「しかし、君は存外密偵(スパイ)には向かなかったな。うん、通常の軍務に戻るといい、このところ南方の情勢も不確かだからね、──」
 と、あっさりと諜報員の任を解き、最後に〈ちとせ〉の本来の名を呼んでみせた。
 汽笛が鳴り、わあ、と無数の声が上がった。どこかへ行く船が港をでて、見送る者たちが別れの言葉を告げたのだろう。
 上官は来たときと同じく、靴音を立てて去っていった。途中、市の職員に何やら話していたのは、ルントラント人たちの処遇について話を通したものらしい。その場で対応を協議していたものらしい役人たちの顔は、責任の所在とするべきことが明確にされた瞬間見るからに明るくなった。
 懐かしいはずの日本の景色を、どこか陽炎の向こうの景色のように見ていた元密偵は、袖を引く感覚に振り返った。
「ね、ちとせさん。いつまでここで待ってなきゃいけないの?」
 そこに居たのは、船の中で彼に懐いてきていた少女だった。同じツィゴイネルだからだろうか、どこかミランに似た面差しに見える。少女の問いに、じきに案内が来る、とか、悪いようになることはない、とか返し、しばし会話を続けたあとのことだ。
「──お嬢ちゃん、将来ルントラントに帰る時がきたら、ミラン・トリエスティっていう男の子に伝えてくれないか。いや、そのときにはもう子供じゃないかもしれないし、名字も違うかもしれないが……そうだな、多分女王さまに聞いてみると分かるはずだ」
 彼は少女と目線を合わせ、真剣な顔を浮かべた。彼の脳裏にあったのは、ルントラントに残った一人の少年だ。ミランだけは、〈契約の石〉の使用が本当に可能である関係上日本に連れてくるわけにはいかず、ルントラント貴族の養子という扱いにして本国に留まることとなったのだ。
 少女は、コクリとうなずいた。
「いいよ、なんて伝えたらいいの?」
「僕の名前は、本当は…………」
 結局、ミランは最後まで彼のことを〈ちとせ〉とすら呼ぶことはなく、おじさんと呼び続けたのだ。せめて本名を知ってもらいたいものだ、と彼は自身の名を口にしようとして、はたとその名が喉からでてこないことに気がつき、首を左右に振った。
「〈ちとせ〉だ。ちとせでいい」
 少女の顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。
「じゃあ、その、ミランって子にちとせさんが自分の名前はちとせだって言ってた、って伝えたらいいんだね。変なの、そのくらい、自分で伝えたらいいのに」
 丁度その時、何かしらの算段を付けたらしい役人たちが手を振り、片言のドイツ語で注目を集めようとしながら近づいてきた。少女は両親に呼ばれて小走りに駆け出し、あとは、ちとせだけが誰からも離れたまま取り残された。
 眩しいほどに青い空の下、陽の光をまともに浴びながら、ちとせは一人つぶやいた。
「僕は、多分、無理だ」
 一九四〇年、夏。かねてより続く大陸での戦争はなお一層混迷を極める一方で、近衛内閣は大東亜共栄圏確立を閣議決定、国内では挙国一致の体制が形作られてゆく。欧州でのドイツの快進撃に触発された軍部の後押しを受け、同年九月には日独伊三国同盟が締結、翌年の太平洋戦争開戦へと至る道が開かれてゆくことになる。以降、日本は同盟国ドイツと同じく一九四五年の敗戦を迎えるまでの間、多大な戦禍を振りまき、自らも灰燼に帰す事となる。
 誰もが大なり小なりの戦火、大なり小なりの悲劇を免れえなかったこの時代にあって、ルントラントという小国は、実に幸運であったと言えよう。一九四〇年七月、フォン・ゾンマー内閣はナチスドイツの求めに応じて併合を承認し、ルントラント王国は一時的に地図の上から姿を消すこととなる。ナチスドイツのいち行政地域となっていた間は無論、帝国内の他の地域と同様の扱いとなり、民族政策も同様のものが施行された。が。──
 クノップ大管区指導者は、フォン・ゾンマー邸の廊下をあるきながら、神経質そうに髪をなでつけた。ルントラント王国改めティーフホーフ大管区に赴任してからというもの、彼にはどうにも許しがたいことがあったのだ。
「そこの。そこの、お前」
 大管区指導者は、目の前を通り過ぎようとしている一人の少年を呼び止めようとした。けれど、少年はその声に気づかないかのようにすました顔で斜め前の部屋へと入ろうとしている。
「おい、聞こえないのか、お前、お前だよ」
 革手袋に包まれた手が肩を叩くに至り、ようやく少年は大管区指導者の方を見た。その顔には、一体なぜ自分が声をかけられたのかがわからない、と言いたげな表情が浮かんでいる。
「お前って、失礼な人だな。俺にはちゃんと名前があるよ、前にも名乗ったろう」
「ああ、ミランとか言ったか。ふん、いかにも下等民族らしい名だ。こちらこそ前にも言ったはずだが、貴様のようなツィゴイネルが一体なぜ大手を振って私の大管区を歩いているのか──」
 ごほん、と背後から咳払いがして、大管区指導者は振り返った。そこにあったのは、大時代的な服装にモノクルをつけた、いかにも貴族然とした元ルントラント王国首相の姿だった。
「大管区指導者殿、勝手に家の中をうろついて、子供を脅されては困りますな」
「これは失礼。なにしろ、かれこれ二時間ほど待たされておりましたのでな」
 そう、クノップ大管区指導者はフォン・ゾンマー氏に文句をつけるべく邸宅に乗り込んだは良いものの、あまりにも待たされすぎてしびれを切らせて勝手に応接間から出歩いている最中であったのだ。
「そうしたら、お宅のなかにどういうわけかツィゴイネルの子供が居たので誰何(すいか)していたまで。……ああ、このツィゴイネルは、あなたの養子であったのだったか」
 そう、現在のミランはフォン・ゾンマー元首相の養子という扱いになっているのだった。名前も、ミラン・トリエスティではなく、ミラン・フォン・ゾンマーと名乗っている。
 フォン・ゾンマー氏は大管区指導者の前に割り込みつつ、ミランに部屋へと入っているよう促した。
「おや、妙な話だな。我が国は総出で、貴国にとっての害となりうる存在をこの地上から消し去った。ゆえに、残っているのはすべてそちらのお眼鏡にかなう存在だけだよ。何なら、協力してくれた親衛隊の記録を見せてもらうといい」
「ルントラントではなく、ティーフホーフ大管区だ。これも一体何度言わせるんだ」
 大管区指導者は耐え難いといいたげな表情でフォン・ゾンマー氏に詰め寄りかけたがひらりと躱され、たたらを踏む羽目になった。その隙にフォン・ゾンマー氏はと言うと、次の授業を待つミランとフィーネが揃って顔を出している図書室の中に素早く身を踊りこませていた。
「待て、おい、だいたい何だって子どもたちに正規の教育を受けさせないんだ」
「ドイツの兵士だとかドイツの母だとかになるための教育など必要はない。帝王学を教えられる教師を連れてきたら認めてやる」
 大管区指導者の目の前で図書室の扉がピシャリと閉められ、内側から鍵のかかる音がした。
 ミラン少年は極端な例にしても、同種の問題がある度、「ティーフホーフ大管区」では短い占領期間の間に行われた大規模な浄化作戦と、その際の記録とを引き合いに出して問題ではなくさせることが常態化していた。この際、元シュナーベル麾下の親衛隊将校たちがルントラント人の味方につくことが多かったのは、数々の証言や記録に残されているところである。
 そして一九四五年。占領からほぼ五年が経ち、千年帝国を自称した一つの国が滅亡を迎えた後に、一つの巨大な「奇跡」が起きることとなる。これこそが、ルントラントというごく小さな国の名が世界に知られることとなった原因であることは論をまたないことながら、研究者によってはルントラントがふたたび国としての主権を取り戻し、今日まで存続することの出来ている理由であるとすら言うほどの「奇跡」である。
 出ていったときとは違い、彼らは白昼堂々、陸路を使いルントラント唯一の駅のホームへ降り立ってきた。事前に政府より通達をされていたとはいえその内容に半信半疑だった人々は、汽車から流れ出る中に見知った顔を見つけてようやくそれが現実だと思い知り、手に手を取り合って喜びあった──とは、その日ルントラントを訪れていた米国の特派員が記した「奇跡の再会」の様子であった。
 駅舎は、中も外も凄まじい混雑を見せていた。汽車が到着するたびに数多くの人が少しでも早く知人や友人、あるいは引き離された家族に合うべく改札につめかけようとするため、外に出ようとする帰還者たちと人の流れがぶつかり合い、コンコースでは駅員や国軍兵士が総出で誘導を行い、場合によっては怒鳴りつけてでも駅舎の外へと人を流そうとする、一種の狂騒が発生していた。だが、それでもその光景はあの日、雨の中人々がトラックに詰め込まれていく様相とは真逆の、喜びに満ちた光景なのは間違いない。
 そんな狂騒のハイライトは、なんといっても駅前にある一台の車が停まり、その後部座席から一人の女性が降り立った時に訪れた。
 近衛の青年にエスコートされる形で降りてきた女性はしばらくの間は誰にも気づかれず、到着する者を待つ市民の中に紛れていた。だが、じきに誰かがその存在に気づいたものだろう。
「ヨゼフィーネ女王さまだ」
「本当だ、女王陛下がいる」
「我々を迎えてくださっているんだ」
 そんな声が上がるやいなや、誰もがフィーネ・フォン・フェーンブルクの存在に気が付き、滞留していた人の流れがフィーネへと向かい始めた。
「まずい、フィーネさま、一度車へ」
 青を基調にした近衛の制服を着たミランが慌ててフィーネを車へと押し戻そうとしたが、すぐに周囲には人だかりができ、わずか数メートルを移動することすら困難な有様となってしまった。車の周りにできた人だかりを国軍の兵隊が押し留め、その間にどうにかこうにか車のドアを開こうとした、そんなときのことだった。
「女王陛下! えーっと、ミラン・トリエスティっていう男の子をご存知ですか!」
 フィーネのために手足を突っ張り、ドアにかかる人の圧力を少しでも避けようとしていたミランがはっと顔を上げた。そこでは、神戸の港に降り立ったときから五年分歳を重ねた少女が、人混みに流されかけながらも声を上げているところだった。
「その子に伝言があるんです──」
 と、再度少女が上げた声は、しかし、途中で途切れることとなった。バランスを崩して転びかけたわけではない。その後ろから誰かに声をかけられたのだ。振り返った少女は驚きを顔に浮かび上がらせた。
 この時の様子を、先の特派員は次のように伝えている。
「────苦難の末にふたたび祖国の地を踏むこととなった帰還者たちを若き女王が迎えに出たとき、辺りは喜びと混乱の頂点に達した。近衛兵に守られて一度車へと戻った女王は、その途中で何かに気づいたようだった。恐らくはその場に参じた他の多くの市民と同様、旧知のものを見つけたのだろう。五年来、公の場では見られなかった笑顔が女王の顔に浮かぶと、辺りの興奮は頂点に達し、女王陛下万歳、ルントラント王国万歳、との歓呼の声が駅前の広場を包み込んだ。──」
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