6.岐路

文字数 6,974文字

 今にも飛び起きて駆け出しかねないミランの体を、〈ちとせ〉は必死で押し留め続けていた。〈ちとせ〉がほぼ全身で覆いかぶさる形となっているためどうにか抑え込めてはいるが、そうでなければ、少年はすぐにでも去ってゆく足音に向けて走り出していたことは想像に難くない。
 〈ちとせ〉とミランがほぼ無傷でそこに倒れているのは、偶然の産物だった。祭殿の奥へと駆け込むのが遅れ、一度目の斉射で倒れた近衛兵たちに紛れて地面に伏せることが出来たこと、二度目の射撃で死体が折り重なったために体が隠されたこと、その二つのどちらかが欠けていれば、運良く斉射で殺されずともその後シュナーベルに射殺されていたことは想像に難くない。
 けれどその幸運も、人生をごく僅かに引き伸ばすだけに終わるかもしれなかった。去り際にシュナーベルが下した命令の意味を、〈ちとせ〉はしっかりと理解していた。済ませた後にシュナップス(蒸留酒)を飲めと言われる命令など、処刑の命令の他には存在しない。
「いいか、ミラン。もう少しだ。もう少ししたら、連中が近づいてくる」
 銃剣と銃口の擦れ合う音を聞きながら、〈ちとせ〉はミランの耳元で囁いた。同時に、右手は自身のベルトに挿したワルサーPPKを探る。
「そうしたら、僕が手近な敵を倒す。君は、その隙に奥に向かって走るんだ」
「わかった。……でも、おじさんは」
「あとから行く、心配するな」
 体の下では、ミランの頭が揺れたのがわかった。それを了承の意味と受け取り、〈ちとせ〉は拳銃を握った手をゆっくりと胸元へと引き上げていった。少年が駆け出す時間を捻出するには、跳ね起きるとともに、確実に一人は敵を殺せる状態にしておかなければならない。──いや、より安全を期すならば、できれば二人は倒しておきたいところだ。それが達成できたならば、ごく僅かに伸びた人生の使い道としては悪くないほうだろう。
 少尉の短い命令が下され、靴音が近づいてくる。行動を起こすまでの秒読みに入り、〈ちとせ〉が呼吸を落ち着かせ始めた、その時のことだ。
「おい、生きてるやつは伏せていろよ」
 と、低い声とともに、何か硬いものが地面に転がる音がした、と思ったのもつかの間のこと。直後、轟音が地下空間に響き渡った。
 あたりには、きいん、という甲高い音が満ちている。いや、それは実際の音ではない。麻痺した耳が耳鳴りを起こしているのだ。耳が正常に働いていたならば、〈ちとせ〉が聞いたものは降り注ぐ石の破片が立てるごうごうという音と、痛みにのたうち回る親衛隊員らの悲鳴、それに爆発音の残響であったはずだからだ。爆発はすぐ近くに居た二人の親衛隊員の体を引き裂き、やや離れたところに居た残る三名にも致命的な怪我を与えていたのだった。
 死体の下から這い出た〈ちとせ〉は、血の臭気に満ちた光景を半ば呆けたように眺めていた。親衛隊員たちと、それに近衛たちの死体についた傷を見れば、爆発音と合わせて手榴弾が使われたことは明白だ。手榴弾の殺傷力は飛び散った破片によるものであり、破片は人体を遮蔽物とすれば回避することができる。死体の下に潜り込んだ状態だった〈ちとせ〉とミランが無傷であったのも、そのおかげだろう。
 だが、一体誰が、どこにそんなものを隠し持っていたのか。戻ってきた聴覚がドイツ人たちの苦悶の声を拾い上げる中、未だどこか呆けた頭で〈ちとせ〉はあたりを見回した。
 その目が一対の瞳を見出したのは、一つの鍾乳石の影でのことだった。
「やあ、あんたは無事だったか」
 青い光を放つ鍾乳石にもたれかかったまま、男は〈ちとせ〉を見上げていた。名前は知らない。が、あの山小屋で〈ちとせ〉とはじめに顔を合わせた、あの見張りの男だということはわかった。
「あんたは……あんな物を持っていたなら、はじめから」
「持っていたら、はじめから使っているよ。あれはそこの」
 と、男は親衛隊員たちの近くに転がった一つの死体を指さした。損傷は激しいが、髪型からしてエイル・フォン・ゾンマーのものだとかろうじて分かる。
「近衛の隊長さんが連中からもぎ取ったものだ。俺はそれを受け取っただけさ」
 そう。エイルは親衛隊員にすがりついたとき、その腰にぶら下がっていた手榴弾をすりとっていたのだ。そして、奪い取った手榴弾は残念ながらその場では使われなかったものの男の手に渡り、いま、とどめを刺しに来たナチを吹き飛ばしたのだった。
「多分、隊長さんはあの場で連中を吹き飛ばしたかったんだろうが、気づかれずに手榴弾を手にするのに時間がかかってな。だが、今ので祭殿側への入り口も塞がれた、結果としちゃあまずまず──」
 男の言葉は、途中で途切れ、咳へと変化した。痰の絡んだような、水気のあるものが喉からこみ上げたときの咳だ。事実、彼の口元は黒く汚れている。それは、青い光の中で黒く見える、赤い鮮血にほかならない。
 慌てて〈ちとせ〉は男の背を支え、介抱をしようとした。だが、男はそれよりも前に〈ちとせ〉の服を掴み、すがるような表情を向けた。
「ゴルトシュタインだ」
「え」
 脈絡のない言葉に、〈ちとせ〉は瞬時に意図を理解できず、ただ目を瞬かせるほかない。
「ユージーン・ゴルトシュタイン。先の大戦では、ヴェルダンでファルケンハイン将軍の下で戦った。この頬の傷を負ったときには鉄十字勲章ももらったんだ」
 ヴェルダン。ファルケンハイン将軍。鉄十字勲章。再度発せられた言葉で無数の単語が繋がり、ようやく〈ちとせ〉の脳内で意味を成し始める。ユージーン・ゴルトシュタインは、第一次世界大戦西部戦線における激戦の一つ、ヴェルダンの戦いのことを言っているのだ。ルントラントは、先の大戦では出兵をしていない。ドイツの将軍であるファルケンハインの下で戦い、鉄十字勲章をもらったとなれば、指し示す事実は一つしかないだろう。
「あなたは、ドイツ人か」
「元、だな。大戦後、軍事顧問としてルントラントに招聘されているうちに本国があのざまになって、そのまま亡命した」
「ああ……」
 ゴルトシュタインと言う名は、ユダヤ系ドイツ人に典型的なものだ。国外に住む民族ドイツ人でユダヤ系のような名を持つものもまれに居るが、わざわざ亡命したと言うからにはそうではないのだろう。ドイツ本国に居たならば、迫害は免れ得ない立場であるのは言うまでもない。
「ここはな、いい国だよ。田舎だし、俺が来るまで騎兵がスナイドル銃をまだ使っていたような国だがな、みんな素朴に暮らしていて、王家を尊敬していて、今日より明日は良い日だろうって思えるような、そんな国なんだ。そこを、よそものが踏みにじって、めちゃくちゃにして良いはずがないんだ」
 〈ちとせ〉の服を掴む手に力が入り、直後、その手に血が掛かった。再びユージーン・ゴルトシュタインが吐血したのだ。今度は、先程の血よりも量が多く、泡が混じっている。再度、〈ちとせ〉は応急キットを取り出して手当をしようとしたが、今度は明確にゴルトシュタインの手が〈ちとせ〉を押し返した。だが、その力はひどく弱い。
「お前がなけなしの良心に従って連中とたもとを分かったのなら、お願いだ、──」
 すべてを言い切らないうちに、ゴルトシュタインの手はぱたりと地面に落ちた。同時に、青い結晶にもたれた体も力を失い、ずるずると倒れ込む。その背が接していた場所にはどす黒い血がこびりつき、座り込んだ足元からは血が辺りに流れ出していたことに、いまさらながら〈ちとせ〉は気がついた。
 しばし、〈ちとせ〉は血溜まりの中に立ち尽くしていた。月光を伝える青い結晶は、手榴弾で崩れてもなおその断面から青い光を放ち続けている。いつしか親衛隊員たちのあげるうめき声も消え去り、青い月光に照らされた静寂のにあっては、古式ばった制服に身を包んだ死体も黒い制服を纏った死体も、血の臭気さえなければ数千年前からそこに存在したかのように遠く見える。唐突に危機もなにもかもが身の回りから去ったために、神経が多少おかしくなっているのかもしれない。
 そう思いながら見回した景色の中でのことだ。
 青く焼き付いた暗闇のなかに、ただ一つ、動くものがあった。それがなにか、など考えるまでもない。
「ミラン。怪我はないか」
 〈ちとせ〉が眺める景色の中で、ただ一人、ミラン少年だけが生きて動いている。親衛隊員たちを覗き込んで回っているのは、どうやら、彼らが生きているかを確かめているものらしい。
 少年は振り返り、小さくうなずいた。その表情は奇妙なほどに静かで、いかなる感情にもとづくものであるのか、容易には読み取り難い。
「こいつらも、こんなにあっさり死ぬんだな」
「ああ、そりゃあ、至近距離でM24を喰らえば誰でも死ぬよ。おいで、あまり見るもんじゃあない」
 〈ちとせ〉はミランを呼び寄せて歩きはじめ、しかし、数歩進んだところでまた立ち止まった。今度は、呆然と立ち尽くしたわけではない。単純に、行くべき先がわからないのだ。広大な地下空間は、いま見渡せる限りでも明らかに複雑に入り組んでいる。おまけに、ルンテンゼー湖畔の祠から祭殿まではぐるぐると円を描く形で地下へと潜ってきたために、大まかな方向感覚さえつかめないのだ。
 なんの準備もなしに入り込んで生きて出られると思うか、と言ったエイル・フォン・ゾンマーの言葉が、今更ながらに〈ちとせ〉の脳裏に蘇ってきた。そう言った本人は、〈ちとせ〉の後ろで体を引き裂かれ、無残な死体へと変貌している。あのとき見せられた地図を彼女は持ち込んでいるだろうか? ためらいながらも、死体を漁るために〈ちとせ〉が振り向こうとした、その時。
「王宮からルンテンゼーの遺跡へ抜けるのは〝エメラルドの小道”、緑の小石を埋め込んだ鍾乳石をたどればいい」
 空中に書かれた文章を読み上げるように、ミランがひとつづきの言葉を口にした。
「スイスへ出るなら〝十字の小道”、十字を刻んだ鍾乳石をたどった先にある石造りの階段を登って、蓋になっている岩をどければそこはもうルントラントではない。……って、フィーネさまが教えてくれたんだ」
 続く言葉を暗証しながら、ミランは近くの青く光る鍾乳石の根本を覗き込み、指差した。そこには、小さな十字が彫り込まれている。スイスの国旗に使われているのと同じ、ギリシア十字だ。
「そうか。安全な出国ルートというのは、地下鍾乳洞経由でスイスへ脱出するということか」
 スイスは第二次大戦においても中立を貫いた国であり、ルントラントの立地からすればスイスへの脱出が最も手早くドイツ軍から逃れる方法であるのは間違いない。おそらく、ドイツ軍の侵攻とともにすぐさま逃げ出した駐在武官もこのルートをエイル・フォン・ゾンマーから教えられ、スイスへと出国したのだろう。
「よかった、ここから無事に出られるぞ」
 ギリシア十字の刻まれた鍾乳石は、探せば十数メートルほどの間隔ごとに存在していることがすぐにわかった。
「よくフィーネ女王から話を聞いておいてくれたな、これなら、すぐにでも出国して──」
 急激に開けた展望に体すら軽くなったような思いに駆られて三つほどの鍾乳石を続けざまに見つけ、よろこびの中〈ちとせ〉は振り返った。けれど、振り返った先にあったものは、青い光に照らされた暗闇と、反響する自分の声ばかりだった。ミランの姿はというと、幾つもの鍾乳石を隔てた向こうで、〈ちとせ〉の方を見ることもなく別の方向へと歩きだしている。
「おい、ミラン? どうしたんだ。下手に動き回ると危ないぞ」
 慌てて駆け戻りながら声を上げると少年はちらりとこちらを見はしたが、立ち止まることはなく、首を左右に振った。
「いま、フィーネさまが振り子(ペンデュラム)を持ったまま、この洞窟の奥に向かって歩いていってる。たぶん、どこかへ案内させられてるんだと思う」
「ん、それは──そうか、あの〈石〉の場所がわかるのだったな。だが……」
「あの振り子、〈契約の石〉だっけ? そんな言葉聞いたことないけど、さっきの様子を見るに、とんでもない力があるのは確かだろ。そんなもの、あの鳥頭に──ナチどもに好きにさせたら大変なことになる。だから、取り戻しに行こうと思って」
 青い月光を放つ天然の列柱の向こうで、ミランはまるでちょっと忘れ物を取りに行くような調子で洞窟の奥を指さした。フィーネを連れたシュナーベルたちはそちらへと向かっているということだろう。
「それに、フィーネさまがあいつとほんとに結婚させられるとか、絶対嫌だし」
 最後にそう肩をすくめると、少年は再び前を向いて歩き出した。〈ちとせ〉がついてきているかどうかも気にはしていないようだ。いや、もともと、脱出口を教えた時点で〈ちとせ〉の助力を当てにしてなどいないに決まっている。
 〈ちとせ〉は、遠ざかる背を見送り、自身は〝十字の小道”を辿りはじめた。いや、辿ろうとした。
 青く光る鍾乳石の影で、〈ちとせ〉は足を止めていた。唐突に、今まで棚上げにしていたすべてのことが脳裏によぎり、足を重くしているかのようだった。思い浮かぶのは、まずは途中で放棄した形となっている密偵(スパイ)としての任務であり、それは今現在の自分の身分が「任務を投げ出した密偵」か「抗命の末に逃亡した親衛隊員」のどちらかであるという実際的な問題と混ざって足元に絡みついていた。その上、さらに彼の足を重くしたのは、先程何かをいいかけて、いい切ることができぬままに死んだ男の姿だった。お前がなけなしの良心に従って連中とたもとを分かったのなら、お願いだ。その先に続く言葉など、決まっている。もう一度良心に従ってくれ、この国を救ってくれ、その他にどう続くというのか。
「──そこまで、関わり合いになれるかよ。そりゃあ目の前の子供を救うぐらいはしたが、国なんてもう僕の手には余る」
 とにかく〈ちとせ〉は〝十字の小道”を進むための言い訳をひねり出そうと必死に考え、先へと進もうとした。実際、その言い訳は数歩ぶん、彼を先に進ませることには成功したようだ。だが、その次にはまた、どうして他の人たちを助けてくれなかったのか、と泣いていた少年の顔が脳裏をよぎり、足を止めさせたところで──
 そう遠くない場所で、ガコン、と何かが作動するような音と、短い悲鳴が聞こえ、〈ちとせ〉は何を考える間もなく走り出していた。方向は、ミランが進んだ先だ。地下には無数の仕掛けがある、と言っていた言葉が今更ながらに蘇る。進む方向がわかったからと言って、そのあたりにある罠を避けられるわけではないのは当たり前の話だ。
 鍾乳石の間を駆け抜けた先に、黒い穴が見えた。四角い蓋が開いてできた、明らかに人工的な落とし穴だ。蓋は閉まっていない。その蓋の端に手をかけて、ミランがどうにか落下を免れているのだ。
「ミラン! 手を離すなよ」
 〈ちとせ〉は手を伸ばし、少年の体を引き上げた。ミランの体重ぶんの負荷がなくなるとともに落とし穴の蓋は再び跳ね上がり、地面の岩肌にすっかり同化してしまった。そこに穴があると知っていなければ、薄暗い中でこれを避けるのは至難の業だろう。
「正しい道を外れると、おそらく罠が張り巡らされているんだ。フィーネ女王たちが通った道を正確に追うことはできるか? 無理そうなら、なるべく人の歩いた痕跡を探して行くほうがいいな。落とし穴ならまだしも、もっと即死性の高い罠が存在するかも──ん、どうした?」
 〈ちとせ〉は首を傾げた。地下の様子について推測する〈ちとせ〉を、ミランが奇妙な生き物でも見るような目で眺めているのだ。
「助けてもらったのは嬉しいけど、おじさん、もうずっと遠くに行ったものだと思ってたからさ」
「それは──いや、考えたんだが、あの〈石〉がどうなったかの顛末までを見届けないと、任務を失敗するにしても報告のしようもないと思ってな」
「そういえばおじさん、スパイなんだっけ。でも任務には失敗してるんだ」
「ああ。どうも、僕には向いていなかったみたいだな」
 〈ちとせ〉は少年と並び、歩き出した。行く先に待っているのは少なくはない部下を引き連れたシュナーベルだというのに、不思議と肩に負っていた重荷を下ろしたような気分が胸の中には広がっていた。
「ああ、そういう細い道はやめておいたほうがいい、罠があったときに致命的になりやすい。なるべくならこういう、広い場所を選ぶほうが挽回が効きやすいはずだ」
 晴れやかな気分のままに、〈ちとせ〉は細い横道へ入っていこうとするミランを止め、同じ方向へ続いているように見える別の洞窟の壁に手をついた。
「いや、フィーネ様の通った道を通ったほうがいいって言うから──うわあ!」
 壁についた手の真下でカチリとなにかのボタンを押したような感覚がしたのと、ミランがなにかに驚いた声を上げたのと、〈ちとせ〉の頭上から、冷たい風が吹き下ろすのとは同時だった。
 数秒後、二人は巨大な丸い岩の転がる先を、必死に逃げる羽目になっていた。
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