8.神の力

文字数 12,876文字

 それは、例えるならば神の殿堂であり、あるいは神の代理人たる王の座する場所であった。
 比喩を用いずに表すならば、光にあふれる広大な空間だ、というのが率直な表現だろう。どのような立地になっているのか、一応は大理石の床と四方を囲む列柱は存在するものの、入ってきたはずの扉の他にあるべき壁はない。だが、それ以上に奇妙なのは、列柱の向こうに見える光景だ。部屋から眺め渡せる景色は星々の瞬く天と広大な地の結ぶ、はるかな光景であるのだ。
 この地上に存在するとも思われぬ雄大な光景を前に、ようやく水の中から開放された者たちは、一様に目を丸く見開き、呆然とするばかりだった。黒衣の親衛隊員らの中には、彼らが追うべき存在であったはずの「ハルト・シュラー親衛隊大尉」とツィゴイネルの少年が混じっているというのに、誰も何のリアクションも起こしはしない。
 事情は、〈ちとせ〉とミランにしても同じことだった。二人は、一応は互いの無事を確認はしたものの、その後は全く見知らぬ光景を前に、ただ辺りを見回す他なくなっている。唐突にここまで周囲の状況が一変してしまった場合、人はいかなる行動も取りえないものなのかもしれなかった。
 だが、誰もがいつまでも呆けているわけではない。
「そうだ、フィーネさまだ。フィーネさまは──」
 真っ先に我に返ったのは、その場で最も小さな少年だった。そう、その場には扉の前で水に飲まれた者はほぼ全員揃っていたが、フィーネとシュナーベルの二人の姿だけはどこにも見当たらなかったのだ。ミランはぐるりとあたりを見回したあと、ぱっと部屋の奥へと向かって駆け出した。彼には、〈石〉の場所を感知する力がある。その方向に振り子を持ったフィーネ・フォン・フェーンブルクが居ることを感じ取ったものだろう。
「おい、下手に動くんじゃない!」
 次に動いたのは、ミランの後を追った〈ちとせ〉だった。
「状況があまりにも不明すぎる、何が起きるかわからないのはわかっているだろう」
 部屋の中央あたりまで来たところで〈ちとせ〉は少年に追いつき、手を伸ばした。その手が少年の肩へと伸び、指先が触れようとした、その時のことだ。
 部屋の床を真横に二分する場所に、横一列に黒い点が並んだ、と思ったのもつかの間のこと。次の瞬間には、その穴から一斉に黒い棒が突き出て、空間を二分する檻となったのだ。丁度それは、〈ちとせ〉が伸ばした手の先と、ミランの体の間に存在した空間でもあった。
「──やあ。丁度いいタイミングで目を覚ましてくれた」
 同時に響き渡ったのは、革の仮面越しに発せられ、くぐもった男の声だった。つまりは、シュナーベルの声だ。一体それまでどこに居たものだろうか? 奇怪な仮面姿の黒衣の男は忽然と檻の向こうに姿を表し、ミラン少年にむけ、友好的な態度で声をかけてみせた。
 檻の向こうの景色には、シュナーベルが現れた他にも変化が起きている。黒い猛禽のような姿の向こうには白い祭壇のような、あるいは操作卓(コンソール)のような直方体が現れ、更にその向こうにはフィーネの姿がある。よく見れば、白い直方体の上には青い光で宙に幾何学模様が浮かんでおり、その光は直方体の一部にはめ込まれたあの〈契約の石〉から放たれたものであることも見て取れた。
「ミラン、おい、駄目だ、そいつに近づくな」
 目の前に出現した檻を揺らし、ワルサーPPKの銃弾をあるだけシュナーベルに向けて撃ち込もうとしながら、〈ちとせ〉が叫んだ。檻の向こうでは、ミランが昂然とフィーネに向けて駆け出していたのだ。だが、黒い檻は微塵も揺らぐことはなく、銃弾はどういうわけか、檻の隙間を通り抜けることすらできず、白い床に落ちるばかりだ。
 フィーネとシュナーベルは、ほぼ同じ場所に立っている。フィーネに駆け寄るということは、シュナーベルに近づくということでもある。自ら駆けてくる少年にくちばしのついた奇怪な仮面を向けたまま、シュナーベルは空中に浮かんだ幾何学模様に触れた。どうやらその模様は、何らかの操作系統(オペレーションシステム)として作られているらしい。無数の記号が並んだ外観は、二十一世紀以降の人間であれば、タッチ操作端末の視覚的入力機構(グラフィカルユーザーインターフェイス)に似ている、と感じたかもしれない。実際、つい先程部屋の中央に折りを出現させたのも、シュナーベルたちの姿を隠していたのもその幾何学模様の入力機構を利用したものであったのだ。
 ただし、その機能にはいま現在、制限があるらしい。シュナーベルは一つの記号に触れたが、その記号は震え、
『〈契約〉の履行に必要な権限が不足、実行不能』
 と、権限の不足が告げられた。
「ふむ。どうにも、やはり女王陛下だけでは〈石〉の力を十全に発揮できないようでね。〈石〉に刻まれた契約の求めるところに従って盗人の血も捧げるにも手間がかかる」
 成すすべなく檻の前で膝をついていた〈ちとせ〉が、はっと目を見開いた。シュナーベルがルガーを抜き、ミランに銃口を向けたのだ。
「やめろ」
 と、〈ちとせ〉の掠れた怒声が響くが、それをかき消すように銃声が鳴り響く。白い床に赤い血が飛び散り、遅れて少年の体が転がった。
「っ──痛ってえ……」
 けれど、すぐにミランは苦悶の声を上げ、傷を押さえながらも立ち上がろうとした。血はごく少量であり、少年の体についた傷といえば、転んだときにできた膝の擦り傷と、肩についていた傷が開いた程度のものであったのだ。
 ルガーを握るシュナーベルは、仮面に覆われた首をかしげ、ミランの様子を見やっている。
「うん? 当てたと思ったんだが、しぶといな。そうしがみつきたくなるほど上等な生を送っても居ないだろうに」
 シュナーベルは再度、ルガーを構えて少年に向けた。銃口とミランの額の間には、一メートルほどの距離しか存在していない。再び銃声が、今度は数度続けて鳴り響く。小さいとは言え膝を怪我したミランには、咄嗟に射線から身を躱せるほどの瞬発力は残っていない、はずだった。
 けれど、銃声の残響が消えたあと、ミランは両手で顔をかばう姿勢のまま、先程まで負っていた傷以外には何一つ傷を負っていなかった。それだけではない。少年の体の前には青い炎が膜を作り、放たれた銃弾を焼き尽くし、消し炭に変えていたのだ。
 フィーネに起きたのと全く同じ現象が、ミランの身にも起きていることにしばし、シュナーベルは驚愕していたようだ。だが、すぐに振り返り、白い直方体の向こうに立つフィーネに手を伸ばし、その頸に手をかけた。今度は、炎はフィーネを守ろうとはしない。まるで、〈石〉にとってはミランのほうが優先順位が高いかのような状態だ。
「……そうか、あなたがその少年を助けようとしているのだな。この期に及んで余計なことを──良いか、私は〈契約の石〉の力、太古の祖先らが契約を結んだ超自然の力を使い、この世界に蔓延るあらゆる汚れを浄化し、選ばれた種族だけが生きる美しい世界を作り上げねばならないのだ」
 仮面の奥の顔は、ほんの僅かにも伺うことができない。けれど、もしも今すぐに黒死病を防ぐ古い時代のマスクを剥ぎ取ったならば、シュナーベルの顔は間違いなく憎しみに歪み、狂気すらにじませるものであることがわかっただろう。そう思わせるほどに、仮面越しにくぐもった声は低くこもり、偏執的ななにかを感じさせるものであった。
 対象的に、驚くほどに静かなのは、フィーネ・フォン・フェーンブルクの顔だ。そう言えば、少女はミランが窮地に陥っているときも奇妙なほどに静穏なままであり、なんの反応も示さなかった。恐怖と異常な状況とが相まって、物事への反応が鈍麻しているのだろうか?
 いいや、そうではない。そうではないことは、静かに発せられたフィーネ女王の言葉で、すぐに明らかになった。
「太古の昔に、ひとつの民族が神と契約を結んだ証がこの、青く光る美しい宝石であると。そして、神との契約を手にした民族は離散し、世界に散らばるうちにその血を薄めていき、やがて零落していったと。それが、あなたの信じる神話でしたね」
 シュナーベルは、わずかにフィーネの首にかける力を弱めた。唐突に、自らが古文書を読み解き、その結果をナチズムの神話と融合させて提唱した〈石〉にまつわる神話をフィーネが口にしたのだ。多少なりとも、思うところはあったのだろう。
「そうだ。そして、その太古の種族の末裔こそがアーリア民族であり、我らがゲルマン民族であるのだ。無論、現在のゲルマン民族にも完全な純血を保っているものはおらず、少なからず混血を重ねているはずだが──」
「それは、あなたのお国のどなたかが作った、あなた方の耳に心地よい神話でしょう」
 フィーネは、型通りのナチズムの神話を口にするシュナーベルの言葉を遮り、端的な事実を口にした。
 本来ならば、言うまでもないことだろう。アトランティスに始まる、歴史上存在したあらゆる文明を創りあげながらも劣った種族との混血のために堕落し、消え去っていった優れた種族。その種族の血を最も強く受け継ぐものこそがアーリア人、ゲルマン人であるのだ、とする神話的な歴史観。ローゼンベルクの『二十世紀の神話』に見られるその種の見解は、十九世紀から二十世紀前半にかけて無数に存在したオカルティズムを継ぎ接ぎし、ナチズムの世界観に見合う形に整形した、作り物の歴史、作り物の神話だ。
「そんな神話、そんな歴史は、存在しません。あなたは最初の最初に代入するものをまちがったものだから、導き出す結論も全部間違ってしまっているのだわ」
 仮面の中で、うう、とか、ああ、とか、判別しがたい声が発せられた。だが、その声はくぐもり、意味を成す声にはなっていない。
 フィーネの首に、薄いゴムに覆われた指が食い込んだ。少し力を入れれば、細い首をへし折ることなどは簡単だったろう。
 けれど、そうはならなかった。
 シュナーベルの手に力が加わる、その直前。ペストマスクの眼窩にはめ込まれた丸いガラスに、青い炎が映り込んだ。白い直方体の上に浮かんだ幾何学の入力機構が映り込んだの()()()()。そも、この時点ではすでに、直方体の上には幾何学模様は浮かび上がってはいなかった。なぜならば、その場所には、
「フィーネさまから手を離せ、この鳥頭野郎!」
 と叫ぶミラン少年が飛び乗り、一体いかなる理由によるものか、青い炎を纏った手で、いままさにシュナーベルに殴りかかろうとしているところだったからだ。
 子供とは言え、高所から体重を載せて拳を叩き入れればそれなりの威力は出るものだ。だが、ミランの右ストレートをまともに食らったシュナーベルに入ったダメージは、明らかにそれ以上のものだった。
「ぐ──何だ、熱い、顔が灼ける!」
 ミランの手を焼きはしなかった青い炎は、拳が仮面に触れた瞬間、実態のある炎へと変化したようだった。燃え移った炎は仮面を投げ捨ててもなお消えることはなく、革でできたペストマスクは僅かな時間のうちに消し炭へと変わり果てた。
 それほどの高熱となる炎で、僅かな時間とは言え直接焼かれていたシュナーベルの顔も、無論、無傷というわけには行かない。
「仮面が──クソ、今まで炎が実体になることなどなかったのに」
 拳を受けた顔の右半分を抑えながら、シュナーベルがミランを睨みつけた。手のひらの下の皮膚は赤くただれ、血を吹き出している。目は血走り、憤怒に顔面を歪ませた状態でのことだ。もとが整った容貌であるだけにかえってその表情は恐ろしく、悪鬼のような形相と見えた。
「貴様! 〈契約の石〉に触るんじゃあない、それは、お前が持っていて良いようなものでは無いのだ!」
 顔を手で抑えながら、シュナーベルはなおも手をのばす。ミランは、フィーネの無事を確認すると白い直方体の上に手を伸ばし、〈契約の石〉を手にしようとしているところであった。〈契約の石〉に秘められた力は、太古の優良種族の末裔たるアーリア民族こそが使うにふさわしいと信じるナチスドイツ親衛隊大佐にとっては、ミランの行動は許しがたいものであったのだろう。
 シュナーベルの手が、〈契約の石〉を掴み取った。だがそれよりもミランの手がわずかに早く、〈契約の石〉に触れていた。
 その瞬間のことだ。
 青い宝石から、ミランの体へと青い炎が流れ出した。同時に部屋には青く燃える記号が溢れかえり、記号は白い部屋じゅうにびっしりと整列し、濁流のように流れ始めた。二十世紀後半以降、コンピュータに触れたことのある人間であれば、プログラミングコードとの類似性に思い至ったかもしれない。
「本当に、わからないの?」
 その場の誰にも読むことの出来ない言語が流れる中、静かな言葉が発せられた。呼吸を整えたフィーネが、中断されていた言葉の続きを口にしたのだ。
「ごく普通に考えれば、分かることでしょう。先祖からずっと受け継いできた〈石〉を持っている一族がいるのなら、その一族こそが、正当な〈石〉の持ち主に決まっている」
 記号の濁流が静止した。そして、部屋全体が何度か青と白に点滅をしはじめ、その点滅が次第に早くなり、しまいには点滅とすらわからなくなった頃──
『血中の〈契約〉コードを確認、動作環境、全て正常。■■■■との約定に基づき〈契約〉の履行を開始する』
 厳かな、神の託宣の如き声が響き渡り、広大な部屋の中には巨大な人の姿が浮かび上がっていた。その姿はおおよそ祭殿で一度現れたものと同じだが、明らかにその姿は以前よりはっきりとしている。その場にコンピュータディスプレイでの画像処理についての知識を持つものがいれば、「解像度が高くなった」とでも表現したかもしれない。細部までが観察できるようになったその姿は、祭殿に置かれていた神像とよく似たディティールを持っていた。
 美しい炎の神像は跪き、燃える両手をミランの頬へと伸ばした。炎で形作られていながら、その手はもちろん、少年にとっては肌を焼くことも、肉を焦がすこともない。それどころか、青く燃える手の触れた場所は奇妙なほどに軽く、別の物質に置き換えられていくような感覚さえあった。
「そんな──そんな馬鹿な! 優れた種族とは、アーリア民族のことだ。けしてジプシーども、ツィゴイネルどもなどでは──」
 隣では音程を外した叫び声が響いていたが、ミランの意識はもはやシュナーベルを捉えてはいなかった。それは、その場に居る他の面々にしても同じことだったろう。何しろ、部屋全体がディスプレイであるように、周囲の景色が次第に書き換わっていくのだ。驚くな、という方が無理な話だろう。
 いつしか、部屋の中に居た者たちは全員いつの間にか暗い空間に放り出されていた。その足元には、暗い星空の中に一つの青く巨大な球体が浮かんでいる。それは、アポロ計画が始まっていないどころか、フォン・ブラウン博士がまだロケットを制作にかかってすらいない時代の人間は、誰一人見たことのない光景であるはずだった。
「これは、地球? ──ああ、そうか。俺の先祖は、この光景を見て、地球にやってきた()()と契約を結んだのか」
 だというのに、その光景を見るもののうち、ミランだけは瞬時にその光景の意味を、そして、与えられた権限を理解していた。まるで、炎の神像が持つ知識をすべて流し込まれた、そんな感覚だった。
 いや、実際に彼は、炎の神像を全身に受け入れていた。白い部屋が衛星軌道から地球を見下ろした映像に切り替わる間に、少年の体はすっかり炎の神像と融合し、一体化し、その体の全ては炎に置き換わっていたのだ
 ──〈契約〉コード保持者には、■■■■の管理権限が与えられる。適宜■■■■の発展・管理に寄与することを求める。
 声が、ミランに告げた。それとともに、宇宙空間に浮かぶミランの眼前には青い幾何学模様が出現する。先程まではその意味すらできなかったはずの文様に少年の燃える手が触れた瞬間、彼はそれが〈契約〉に基づいて権限を行使するための入力機構(インターフェイス)であることを完全に理解していた。
 ──現在、チュートリアルモード。ここでの操作は現実の■■■■には反映されないので留意せよ。なお、ゲストユーザには操作権限は付与されない。
 ミランの燃える手が右上の文様に触れ、現れた二つの丸いスライドボタンを操作した。すると、少年の周囲に展開されていた景色が一変する。地球が急激に回転し、大陸の一点が拡大され、その中のさらに一点に向けて視点は急降下していった。
 現れたのは、見知らぬ荒野だった。現実の世界で言えば、中東の乾燥地域に近い景色だろう。ただ一つだけ、巨大な星型八面体の青い結晶が、空から降ってきたかのように地面にめり込んで居るところだけが現実的ではない。
 ミランは、迷うことなく入力機構(インターフェイス)の中央に位置するアイコンをタップした。すると、周囲の光景に方眼が重なり、まるでコンピュータグラフィックのような外観に変化する。この状態で空間に描画を行えば、実際の地形、天候もそれに合わせて変形することをミランはすでに知っていた。
 燃える手が空中に線を引き、地の一部を消去した。それは、動作としてはほぼ、画面上に描画を行うのとそう変わらないものだ。だが、実のところその動作は、神の行いとも言うべきものであったのだ。
 ミランが再び中央のアイコンをタップして操作を確定させたとき、空に引かれた線は嵐へと代わり、消去された地には巨大な地割れが出現した。どちらも、実体を持つ人間がその場に居たならば多大な被害が出たことは間違いのないほどの天災だ。
 ミランは燃える手を使い、いくつかの操作を試していった。そのたびに周囲に広がる荒野は割れ、あるいは新たな山を生じさせ、豪雨が大地を削り、あるいは太陽が地を干上がらせてゆく。
 それは、旧約聖書の記述を思わせる光景だった。視点を変えれば操作の対象は地球全体となり、僅かな動作で地球そのものを消し、また出現させることも、あるいは宇宙空間に新たな星を生むことも可能であるのだ。何度か星を消し、星を生み、その上に生命を生み育て、その発展を見、やがて生まれた文明の上に地を覆うほどの洪水を起こしたところで、ミランの手が止まった。自身の意志で止めたわけではない。
「──それだけの権能、それだけの栄光があったのならば──」
 そんな叫び声を上げながら不意にシュナーベルがミランに躍りかかっただ。なぜこの男はこんな無駄なことをするのか? 顔の半分を失った哀れなドイツ人に対してミランが感じるものはもはや、憐憫でしかなかった。
 シュナーベルは激しく咳き込みながら入力機構(インターフェイス)に手を伸ばした。
「この地上をすべてお前たちが王国として治めていたのならば、なぜ、世界を汚濁にまみれさせるに任せた。なぜ、弱い種族を生まれるに任せた。なぜ、私のような──」
 シュナーベルの言葉は、最後まで言い切られることはなかった。咳の発作が言葉をつまらせた上に、使えもしない青く光る文様に触れた瞬間、彼の体が燃え上がっていたのだ。
『〈契約〉は盗人を許さない』
 そう述べたのは、燃える神像の声であった。〈契約〉コードを持っていないものが何度も〈契約の石(たんまつ)〉の操作を試みて弾かれれば、最後には保護機能が発動するに決まっている。今から考えれば、はじめから〈石〉を渡していたとしてもそのうちシュナーベルは自滅していたはずなのだ。断末魔の悲鳴を上げ、消し炭へと代わってゆく親衛隊大佐の姿を、ミランは別段の感慨もなく眺めていた。
 そうして、そろそろ飽きてきていたチュートリアルを終わらせようかと思い至ったときのことだった。
「ミラン! ミラン! 駄目だ、こいつらを死なせてはいけない!」
 と叫ぶ〈ちとせ〉の声が耳に飛び込んできた。いや、飛び込んできたのは声だけではない。気づけば、幾つもの炎がミランの視界には映りこんでいた。どうやら部屋の中に残っていたシュナーベルの部下たちの服に火が付き、燃え上がっているもののようだ。
「──駄目だわ、いま彼ら全員にこの場で死なれては、ルントラントへの報復は免れ得ない! ミラン、炎を消してあげて!」
 今度は、フィーネの声がミランの耳を打った。いつの間にか、フィーネはミランの体にしがみつき、その行動を抑えようとしていたのだ。いや、フィーネだけではない。〈ちとせ〉も宙に浮かんだミランの体をどうにかして羽交い締めにしようとしているようだ。一体なぜ、そこまでされているのかミランには理解が及ばなかった。だいたい、ルントラントへの報復が行われるにしても、この〈石〉の力があれば問題にもならないはずだ。そのことはフィーネも〈ちとせ〉も知っているはずなのに、何故今更騒ぎ立てるのか、ミランには理解し難かった。だが、ともかく火を消してやればいいのだろう。そう思って、ミランは火を消すべく目の前の青い文様に手を伸ばした。手を伸ばそうとした。だが、
『〈契約〉は盗人を許さない』
 燃える舌が、ミランの意思に反して声を発した。持ち上げた手も火を消すためではなく、体にまとわりつくフィーネを振り払うため、青い火花を散らしている。体が乗っ取られている。ようやくミランは、状況を理解した。
 燃える神像と融合した少年の手が入力機構(インターフェイス)に触れ、荒野でのチュートリアルを終わらせた。周囲には白い部屋が戻ってきたが、親衛隊員たちが火に巻かれ、ミランの体が言うことを聞かない状態には全く変わりがない。
 白い部屋の中、炎の姿となった少年は白いコンソールの上に浮かんでいる。その燃える手が、ミランの意思とは全く関係はなく列柱に向けて振るわれた途端、列柱の向こうの風景が切り替わった。
 そこに映し出されたのは、世界中で起きている無数の出来事であった。それは、フランスの街を焼くドイツの爆撃機の姿であり、ポーランドで無数のユダヤ人たちを追い立てる親衛隊の姿であり、あるいはインドで圧政にあえぐ民衆、あるいは日の丸の翼の下で燃え上がる重慶の街、あるいはその他、無数に存在する悲劇のありさまにほかならない。
 それらの光景に向けて、青く燃える腕が伸びた。チュートリアルでミランがやったのと同様の操作を、現実に対しても行おうとしている。おそらく今から振るわれるのは、洪水を起こすための身振り(ジェスチャー)だ。個別の悲劇を解決するのではなく、何もかもすべてを押し流そうというのだ。もしかすると、太古の昔に起きた、神話の彼方の大洪水と同じように。
 足元で叫び声を上げているのは炎に巻かれようとしている〈ちとせ〉と、その炎を消そうとしているフィーネだ。ほんの少し、ほんの少しだけでも手を下ろすことができれば彼らを助けることができるというのに、その行動すらミランには自由にはならない。あれだけの破壊と創造を行いうる力を持っていると言うのに、その力はそもそも、自分ではもはや制御すらできないのだ。──
『■■■■の状態を、正常化させる。現在の■■■■には、汚らわしい種族が多すぎる』
 自らの舌が発した言葉に、ミランは自らの肌が総毛立つような感覚を覚えた。それまで気にもならなかったはずの、床の上で煙を上げるシュナーベルの死体から発せられる独特の臭気が、嫌に鼻につく。
「────そんな理由で」
 列柱の外に映し出される風景に向けて払われようとする手が、静止した。燃える喉から発せられたのは、遠い神託のような声ではなく、少年の声だ。
「そんな理由で、こんな力を使って言い訳がないだろう!」
 遠い世界に向けて振るわれようとした手がゆっくりと握り込まれ、やがて、拳が振り下ろされた。途端、広い室内には一斉に水が降り注ぎ、炎を一斉に鎮火させてゆく。
 そして、燃える腕が宙を薙いだ。列柱の外に展開されていた光景がもとの遥かな空間へと戻るとともに、室内に溜まった水も一体どのような原理であるのか、床の外へと排出されていく。
 消えたものは、物理的な炎だけではなかった。ミランの体の炎もまた全て消え去り、少年はすっかり元の肉体へと戻って白いコンソールの上に落下していたのだ。では、あの神像はどうしたかといえば──
()()、■■■■保全の義務を放棄するつもりか』
 ミランの眼前に、青い炎が迫った。神像が燃える体を折り、コンソールの上に膝をついたミランを覗き込んだのだ。ただし、今までとは違い、神像の炎はミランに熱を伝え、肌をじりじりと焦がそうとしている。〈契約〉違反を侵したものの運命は盗人と同じだ、とでも言いたげな様子だ。
『お前の祖先も、同じ間違いを犯した。同じことを繰り返すのか』
 炎の息が辺りの大気を灼き、少年の呼吸すらもままならなくさせる。それでもミランは息を吸い、まだ脳内に残っている神像のもたらした知識と自らの感覚とを照合させ、言うべき言葉を探し当てた。
「あんたは、世界中の人間を汚らわしい種族だと呼んだけれど──そこで死んでるやつは、俺のことをまさにそう呼んだ」
 ミランは、コンソールの脇でくすぶるシュナーベルの死体を指差した。神像は、黙って話を聞いている。自らの経験によらない知識を使い、自分の考えを話すというのは、存外に体力を使うものであるらしい。あるいは、目の前の炎の神像が注いだ知識の残滓を使っているためかもしれない。一言を話すたびに、ミランは自身の脳内が焼かれ、平衡感覚がなくなるような感覚に襲われたが、それでも言うべきことを言い切るべく、炎の像を見つめ続けた。
「人間をなにかの基準で測り、正誤判定を下すことを、俺は管理保全だとは考えない。そも、この■■■■に意思を持った何者かの保全が必要であるとも思えない」
『〈契約〉は継続されねばならない。〈契約〉コード保持者がそれを放棄するならば、他の適任者を探さねばならぬ』
「それは──」
 それは、まずい。あれだけの力が、今この世界でそれを欲するようなものに渡ればとんでもないことになる。ミランは反論しようとした。だが、息をつごうとした喉は灼熱の大気に焼かれ、声を出すどころではない。
「──では、■■■■のありかたに沿ったシステムの改修と、主要機能の凍結を要求します」
 代わって、りんとした声が響き渡った。誰の声か、など考えるまでもない。フィーネだ。フィーネが、ミランに変わり神像に意見を述べているのだ。
 巨大な神像が、ゆっくりとフィーネの方へと向き直った。部屋中に降り注いでいた水をかぶって濡れていたフィーネの服から湯気が上がったのは、神像の体から発せられる熱で一気に水分が蒸発したものだろう。
「あなたがかつて〈契約〉を行ってから、人類は歴史を重ね、あり方を変え続けています。ならば、管理のあり方もそれに沿って変化すべきです」
 炎の神像は、ルントラントの幼い女王のすぐ眼前に迫っている。けれど、その熱が和らかなものになっているようなのは気の所為であったろうか?
 フィーネを覗き込んでいた炎の神像が、ゆっくりと部屋を見回した。そうして、一番はじめに目をつけた物に手を伸ばし、その体へと冷たい炎を流し込もうとした。
「うわあ! 良くわからないがちょっと(ぼか)ァ頭の中がかなり偏ってるというか、いやだからって言ってこの部屋の他の大人ども全員かなり物凄く偏ってるんでサンプルには向かないというか」
 冷たい炎に巻かれかけた〈ちとせ〉は、慌てて炎を払おうとしながら、神像に自らと、ついでに後ろに転がっている親衛隊員たちのサンプルとしての不適格を必死に説明し始めた。シュナーベルの部下の生き残りまでもが〈ちとせ〉の言葉に必死で頷き、二十億人ぐらい居るだとか人権思想が発生してだとか、人類の現状を口々に説明しようとしているのだから、よほどのことだ。
「ですから、地球人類二十億人ちょい、一度全部調べ……見たほうが良いんじゃないかなって、僕ァそう思いますね、はい」
 〈ちとせ〉の訴えを受け入れたのか、あるいは親衛隊員たちの必死な様子が通じたものか、否か。
 ややあって、神像は自身の体を大きく揺らがせた。巨人の体をなしていた炎がゆらぎ、球体へとその身を変えたかと思った次の瞬間。
 冷たく青い炎が弾け、部屋中の人々の体を通り抜け、列柱の外にまでも広がった。
『──なるほど。社会の発展に伴う高度な抽象的概念の発生、及びそれに伴う人の意識の変化。──理解した』
 神託の如き声が、託宣を告げるように厳かに、部屋に響き渡った。
『〈契約〉コード保持者に確認する、システム改修の許可を』
 白いコンソールの上に倒れ込んでいたミランは、是も非もなくこくこくと頷いた。承認の意思を示すには、それで十分だったらしい。
『これより、システム改修、および改修のための情報収集を開始する。情報収集終了までは、〈契約〉は暫定的に休止モードに入る』
 そして、炎は風にかき消されるようにその姿を消していった。残された者たちはと言えば、唐突な幕切れに呆け、あたりを見回す他にはどうしようもない。 
 どこか散漫とした空気の中、そのうちに、ああ、と声を上げたのはミランだった。
「ああ、畜生、せめて一瞬でも自由になったらルントラントの周りにでかい山かなんか作ったのにな。そうしたら、いま国内に居るドイツの奴らだけでも叩き出せばあとは攻められずに住むのに」
 でも、そんな暇なかったもんなあ、と、心底悔しがるミランを前にしても、誰も今の有様を忘れたのか、と責めたり、あるいは笑ったりするものはいなかった。なにしろ時は一九四〇年、ナチスドイツは今まさにフランスを攻め落として連合軍をドーヴァーに追い詰め、その短い歴史の絶頂を極めようとしている頃のことである。人類史レベルの規模の問題を解決したところで、ルントラントが、このあともナチ占領下に置かれるという問題は解決されていないのだ。周りが山に囲まれたら物流が死にますし空爆されたら終わりですから、と別方向の問題で後悔を相殺しようとするフィーネの言葉も、いまのミランには慰めにならないらしい。その場の誰も、少年を慰めるすべを見いだせずにいる中、
「……あー。その辺については、僕に少しばかり考えがある」
 と、〈ちとせ〉が改まった声を出した。
「ただ、そのためには少々協力が必要なんだが……ときに君たち、最上級者の指揮下に入る気はあるか?」
 〈ちとせ〉がそう問いかけた相手は、無論、満身創痍の親衛隊員たちである。彼らにとっては未だ、目の前に立つ金髪の大男は「逃亡中のハルト・シュラー親衛隊大尉」であり、そして、シュナーベルやその側近が死んだ今となっては、ルントラントに駐在する親衛隊の中での最上級者ということになる。
 火傷の痕を大理石の床に当てて冷やしていたホップ中尉が、座ったままでシュラー大尉に向け、敬礼をしてみせた。続いて残る者たちも、同じくその場で敬礼をする。なにぶん、国防軍やその他の軍ではなく親衛隊でのことである。ローマ式、いわゆるナチ式の敬礼であったためにどうにも座ったままでは格好がつかないのはご愛嬌、と言ったところだろう。
 〈ちとせ〉は敬礼に対して答礼で応えると、部屋の奥に立つ女王の方を向き、跪いた。
「ということで、女王陛下。ここは少々僕に任せてもらえませんか。ひとつ、上手い手があります」
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