1.逃亡者たち

文字数 12,007文字

 密偵(スパイ)というものは、目的を達成するため非情に徹するものだ。少なくとも、潜入任務の途中で人を助けてなにもかもを台無しにするような馬鹿には務まらない仕事である。そう、いまここで人を助ければ、なにもかもが台無しになるのだ。
 アレンヴァルト・シュナーベル親衛隊大佐の黒いマント姿の背を眺めながら、〈ちとせ〉はあくまで冷徹な親衛隊員の外観を崩さぬままなんども自分にそう言い聞かせていた。シュナーベル大佐の前には、ひとりの少年が立っている。色とりどりの民族衣装を着込み、大地と同じ色の顔のなか、黒く大きな瞳に敵意を滲ませた少年は、一様に黒い制服を着込んだドイツ人たちの中にあってただ一人だけ色彩を保っているかのようであった。
「ふむ。ミラン・トリエスティ。どうしても、〈契約の石〉を渡してはくれないのかな」
 黒い男たちの頭目が、くぐもった声を発しながら少年にゆっくりと歩み寄った。ミランが強く握りしめた手からは、金の鎖で下げられた大振りな青い宝石がちらりと姿を見せている。その宝石こそが、シュナーベル大佐と彼の部下たちの狙う〈契約の石〉であるのだ。
 だが、ミラン・トリエスティは幼い顔を強張らせたまま、ふるふると顔を左右に振るばかりだ。
「〈契約の石〉なんて知らない。これは、俺が母さんから、母さんが婆ちゃんから、婆ちゃんはそのまた母さんからずっと受け継いできた大切なペンデュラムなんだ。誰にも渡しちゃいけないって言われてる」
 震える声でミランが発した言葉は、〈ちとせ〉の脳裏につい先刻見たばかりの光景を強制的に思い起こさせた。それは、少年と同じ極彩色の衣装を着た女が、あざやかな赤い血を割れた脳天から吹き出して事切れる光景だ。──いや、思い出すまでもない。今も、すこし振り向くだけで女の死体は目に入るはずだ。占い小屋に親衛隊員たちが押し入った瞬間、彼女は奥にいる少年に向かって逃げるよう叫び声を上げ、その直後、放たれた銃弾で額を貫かれたのだから。
 そして今、逃げるよう言われた息子にも、母の命を奪ったのと同じ拳銃が向けられている。シュナーベル大佐が、愛用のルガーをミランに向けたのだ。
「〈石〉の価値も知らない劣等民族が! 〈契約の石〉が、振り子(ペンデュラム)だと? それは、お前たちのような汚らわしい種族の、いかがわしい占いの道具などではない!」
 占い小屋に、怒声が響き渡った。このとき大佐の顔が見えていたならば、さぞ怒りに歪んでいたことだろう。だが、〈ちとせ〉は大佐の斜め後ろに立っていたし、仮に彼が大佐の顔を覗き込んだとしてもその面貌を拝むことはかなわなかったはずだ。小屋の中に置かれた様々な道具のなか、丁度大佐の正面には小さな鏡が掛かっている。鏡に映るものは、奇妙な鳥の顔のような革製のマスクを制帽の下に着けた不気味な姿だ。シュナーベル大佐は、ペストマスクと呼ばれる古い疫病医のマスクを常に着用しているのだ。その求めるところと相まって、奇人と呼ぶにふさわしい存在であることに疑いはない。
 仮面越しの怒声はなお続いている。声が発せられるたび狭い占い小屋に草をすりつぶしたような強烈な芳香が漂うのは、ペストマスクの中には古式に従って様々な薬草が詰め込まれているためだ。
「良いか、〈契約の石〉とは、我らアーリア民族の先祖たるアトランティスの民に伝わる、神との契約の証。本来ならば貴様のような劣等民族がこれを持っていること自体が許されることではないのだぞ!」
 くぐもった怒声とともに、シュナーベルの握るルガーは何度も振られ、銃口が上下する。指が引き金に掛かった状態でのことだ。何度めかにルガーが振りかぶられたとき、全く脈絡なく銃声が響き渡った。
「うわあ!」
 と、ついにミランの口から悲鳴が上がり、同時に鏡の割れる音も響き渡った。あたりには、血のついた硝子の破片がいくつも飛び散り、投げ出されることとなっている。銃弾はミランの肩口をかすめて背後へと抜け、掛かっていた鏡を砕いたのだった。
 飛び散ったのは、鏡の破片だけではない。占い台の上には、青い石が投げ出されてもいる。ミランが握りしめていたはずのペンデュラム、あるいは〈契約の石〉だ。肩を銃弾に砕かれた痛みのあまりに、ミランはペンデュラムを思わず手放してしまっていたのだ。
 無論、すぐに少年は家宝であり商売道具でもある宝石に手を伸ばした。だが、それよりも手術用のゴム手袋に覆われた手のほうが、ほんの少しだけ動きは早かった。
「ふむ。いかんな、血で汚れてしまった。レルヒマン少佐、消毒を」
 鎖をつまんでかかげられたペンデュラムにはたしかにミランの血が飛び散り、青く透き通った宝石の表面を汚していた。異変が起きたのは、命令を受けたレルヒマン少佐がすかさずアルコールスプレーとコットンで表面を丹念に拭ってシュナーベルに返した、その瞬間のことだ。
「おお、これは──」
 汚れを落とされて一段と透明感を増した〈石〉の奥底に、ゆらりと炎が揺らめくように青い光が立ち上がっていた。光の具合やカットの仕方によるものではない。明らかに、宝石の中で常ならぬ現象が起きている事に間違いはなかった。
「やはり、間違いない。〈石〉が契約者の血筋に戻されて、目を覚まそうとしているのだ。ああ、早く完全に目覚めさせる方法を探らねばならぬ」
 炎が揺らいでいた時間はそう長いものではなく、一瞬で石はただの宝石へと戻ってしまった。だが、それでもシュナーベルは悦びを隠そうとはしない。巨大な烏のような男は、一刻も早く〈石〉について調べたいといわんばかりに、占い小屋の出口へと向かい始めた。
「──かえせ、泥棒! それは俺たちがずっと、ご先祖様から受け継いできたものなんだ──」
 あと少しで小屋を出るというとき、黒衣の背に苦しげな声が投げかけられた。ミランが肩口を抑えながら立ち上がり、シュナーベルに手を伸ばしているのだ。だが、シュナーベルは今しがた自分が撃った少年の方を振り向きもせず、そのまま小屋を出ていった。薄暗い仮面の奥は見えないが、おそらくは恍惚とした表情で長年追い求めてきた成果物を眺めていることは想像に難くない。
 代わりに少年に答えたのは、レルヒマン少佐だった。
「泥棒? それは、お前たちの話だろう」
 レルヒマン少佐は、上官に代わり返答するだけにはとどまらなかった。略奪者に追いすがろうとしている少年を蹴り飛ばすと、磨き抜かれた軍靴でその肩口にできたばかりの傷を踏みにじったのだ。
「お前の薄汚い先祖が一体いつ我らの祖先よりこの〈石〉を盗み取ったかは知らないが、ようやく本来の持ち主の手に戻ったというだけの話だ。──ハルト・シュラー親衛隊大尉!」
 痛みに身をよじり、悲鳴を上げる子供を足蹴にしながら、少佐は下僚の名を呼んだ。
「この劣等民族を始末しろ」
 レルヒマン少佐の青い瞳は、〈ちとせ〉を真っ直ぐに見ている。当たり前だ。ハルト・シュラー親衛隊大尉というのは、〈ちとせ〉がナチスドイツ親衛隊に潜入するに際して名乗っている名と身分なのだから。
 ハルト・シュラー親衛隊大尉は実直かつナチズムに極めて翼賛的な、極めて優秀な親衛隊員である。上官からの信頼も厚く、レルヒマン少佐がミラン・トリエスティを、流浪の民(ツィゴイネル)の少年を射殺するよう命じるのも当然の選択と言えよう。
了解いたしました(ヤヴォール)
 「ハルト・シュラー親衛隊大尉」は眉一つ動かすことなくレルヒマン少佐の命令を拝命し、ベルトに挿したワルサーPPKを少女に向けた。アーリア人らしい、と評される精悍な白皙の顔には、微塵も動揺は浮かんでいない。
 〈ちとせ〉の任務は、シュナーベル率いる特捜隊に潜入し、彼らが目的としている〈契約の石〉を使用方法とともに持ち帰ることだ。いま、〈石〉はシュナーベルの手にある。その使用法までは、まだシュナーベルたちも探りきれていない。だが、多大な信頼を受けるハルト・シュラー大尉ならば、使用方法の研究を見届けた後、難なく〈石〉を奪取することも可能だろう。そう、簡単な話だ。機が訪れるまで、あくまで忠実な親衛隊員ハルト・シュラーとして振る舞えば良いのだから。──
「──どうした、シュラー大尉」
 訝しむ声が、〈ちとせ〉の耳を打った。「ハルト・シュラー」は、ワルサーPPKを構え、その銃口を少年に向けたまま静止していたのだ。銃口の先では、少年ががたがたと震えながらも〈ちとせ〉の顔をじっと見返している。いつのまにか、周囲の親衛隊員たちはシュナーベルに従って外に出ていた。残っているのは、ミランと〈ちとせ〉、それにレルヒマン少佐の三人だけだ。外に出た隊員たちは、ハルト・シュラーと同種の命令を受けているものらしい。散発的に聞こえる銃声は、あたりに響く悲鳴と合わせて考えるに、森の中に隠れ住んでいた他のツィゴイネルたちを撃ち殺している音だろう。彼ら(ナチス)にとって、ツィゴイネル、今でいうところのロマは、「殲滅すべき劣等民族」だ。引き金を引いて当然、ためらうのは怯懦の証──彼らの論理と倫理は、そう判じるはずだ。
「まさか、撃てないというのじゃあないだろうな? 見た目こそ子供の姿だが、駆逐すべき劣等民族だということは分かっているだろう」
 少年の黒い瞳が正面から〈ちとせ〉を睨み、レルヒマン少佐の声が背中から「ハルト・シュラー」を追い詰めている。〈ちとせ〉の理性は、いまは「ハルト・シュラー」として命令に従うべきだと告げている。そうしなければ、折角築き上げてきた信頼が台無しになるだけではない。〈ちとせ〉が帯びた任務も達成が困難になり、下手をすれば「ハルト・シュラー」の正体を露見させる恐れすら存在するのだ。
 銃口は、ミランの眉間へと真っ直ぐに向いている。距離は一メートルも開いていない。引き金を引けば間違いなく命中するだろう。〈ちとせ〉は、右手の人差し指に力を込めようとした。けれど、錆びついて固着したかのように、引き金は動かない。代わりに起きたことといえば、レルヒマン少佐が小さく息を吐いたことだけだった。
「……シュラーくん、正直失望したよ。まさか、小僧一人始末できないとはな。退け」
 軽蔑を隠しもしない声とともに、少佐の背が銃口と少年の間に割って入った。狭い占い小屋にいやに大きく響き渡った金属音は、撃鉄を起こすかすかな音だ。レルヒマン少佐の握るワルサーの銃弾を受け、占い台の前に立つ少年が先刻母親がたどったのと同じ運命をたどるまで、ほんの数秒も猶予はないだろう。
 もはや誰もハルト・シュラーを睨むこともなく、命令を下しもしない。〈ちとせ〉はいま、この場で唯一殺すものと殺されるものの関係から疎外された存在だった。だというのに、彼は自らに生殺与奪の権利が与えられていた時以上に動揺し、その表情を歪ませている。
 そして、ついに銃声が鳴り響いた。
 血と脳漿の入り混じった体液が、占い小屋に所狭しと詰め込まれた様々ながらくたに赤い汚れを飛び散らせた。粉々に砕けた鏡の上には、銃を構えた親衛隊員と驚愕に目を見開く少年、そして、砕けた頭から血をほとばしらせながら倒れてゆく親衛隊少佐の姿がバラバラに映っている。
 ミラン・トリエスティが〈ちとせ〉を見た。その目は、先刻までとは違い驚きと疑問に見開かれている。
「……どうして」
 と、少年が口を開こうとした。足元には事切れたレルヒマン親衛隊少佐が倒れ、その向こうには未だ硝煙の上がるワルサーPPKを構えたままの「ハルト・シュラー少佐」が立っている状況でのことだ。少年の反応はごく自然なものと言えよう。
 けれど、疑問の言葉があとに続くことはなかった。〈ちとせ〉が音もなく自らが撃ち殺した男の死体を踏み越え、ミランの口をふさいだのだ。
「静かに。外に聞こえるとまずい、僕の言うことに従ってくれ」
 占い小屋は、木の枠組みと布の天幕で構成された、ほぼテントに近いものだ。別段声を張り上げずとも音が外に丸聞こえであることは、いま外から小屋を焼き払う算段が筒抜けに聞こえていることからもよく分かる。どうやらシュナーベル大佐は、「汚らわしい劣等民族」の死体ごと占い小屋を焼き払って「消毒」を完了させる心づもりであるらしい。
 金髪の大男から耳元で囁くように伝えられる言葉に、ミランは不安げな様子ながらも一つずつ、しっかりと頷いてみせた。
「ありがとう。……うまく行かなかったらそのときはすまない」
 小屋の中には、シュナーベル大佐が置いていった香草の臭いや今しがた漂い始めた血の臭いをも覆い尽くす勢いでガソリンの臭いが漂い始めている。森の中に作られたロマたちの小さな隠れ里の周囲にたっぷりとガソリンを撒いているのだ、とは、〈ちとせ〉が何食わぬ顔で出ていったその周囲の作業を見て初めてわかったことだった。
「お疲れ様です、シュラー親衛隊大尉」
 〈ちとせ〉は、声を掛ける隊員を無視し、シュナーベルの姿を探した。自らの蛮行の証を燃やす作業は部下に任せ、シュナーベルは別のことをしているようだ。嫌でも目立つペストマスク姿は、隊員たちの向こうに停められたメルセデスの近くで見つかった。どうやら運転手と何やら話しているようだ。大方、延焼の恐れがあるから車を離しておくようにとでも言っているのだろう。
「おや、レルヒマン親衛隊少佐どのは怪我をされたのですか。手当をしないと」
 脇目も振らず、メルセデスへと大股に近づいていく〈ちとせ〉に、別の隊員から声がかかった。「ハルト・シュラー」が、黒服の人物に肩を貸しているのを見てのことだろう。〈ちとせ〉はそれにも答えず、救急箱を持って近づく隊員を振り切るように脚を早めた。再度、シュラーの名を呼んでも答えがなかったところで、周囲は異変に気づきだしたらしい。
 だが、すでに〈ちとせ〉は少年をメルセデスの後部座席に放り込んだところだった。オープンタイプのメルセデス・ベンツはこの場合、カージャックを企む者たちにとっては非常に都合のいい乗り物だった。ミランが服の上から着込んでいたレルヒマン少佐の黒服は簡単に脱げ、制帽の下からは長い黒髪が溢れ出たが、もうここまでくれば正体の露見など気にすることではない。
「シュラー親衛隊大尉!? 一体何を」
「おい、小屋の中を見ろ! 死体がある、レルヒマン少佐だ!」
「何だと、それじゃああれは──」
「あの小僧だ、大尉は何を血迷ったんだ!?」
 背後から、喧騒が迫っている。だが、それよりも〈ちとせ〉が運転手の頭部を撃ち抜いて車から引きずり下ろし、鳥頭のマスクに銃を突きつけるほうがはるかに早い。
「動くな!」
 追いすがろうとする無数の靴音が、一斉に止まった。シュナーベル親衛隊大佐は、事態が飲み込み難い、というようにあたりを見回している。丸い風防硝子のついたペストマスクが、呆けた表情のように見えて何処か滑稽だ。
「親衛隊大佐、ルガーをこちらへ」
「シュラーくん、一体どうしたのかね。子供ひとりを殺すのがそれほど嫌だったのか?」
「黙れ、ルガーを早く」
 シュナーベルは肩をすくめ、渋々、といった体でルガーを差し出した。受け取った拳銃は、即座に〈ちとせ〉によって車の外へ投げ出された。
「そのまま、助手席に座って手を座席の後ろへ。坊や、そこにケーブルが有る、それでこいつの手を縛り上げるんだ」
 後部座席のミランは、言われたとおりに座席の下から牽引用ケーブルを取り出し、シュナーベルの手を縛り上げはじめた。その間も〈ちとせ〉は先刻までの同僚たちに目を配りつつ、親衛隊大佐に銃を突きつけている。
 はっきり言って、〈ちとせ〉に今後の展望があるわけではない。最も手っ取り早いのは正体の露見も何もかも考えず、日本公使館に駆け込んで保護を求めることだろうが、残念ながら日本公使館はドイツの進駐とともにさっさと引き払ってしまっている。ただ、()()()()()()()ものはどうしようもないのだから、この際一番マシな選択をしようとしているだけにすぎない。つまり、この場合は生きてこの場を離れる、ただそれだけが目的だ。
「うん、緩みもない、これで解けないと思うよ」
 ミランが、シュナーベルをしっかりと拘束したことを報告した。
「よし、よくやってくれた」
 すでにエンジンは掛かっている。シュナーベルは、不気味なほどに静かなままだ。奇妙なマスクのために表情が見えないことも相まって、そう見えるのかもしれない。どうやら、少なくともいま生存するという目的だけは達成できそうだ、〈ちとせ〉は内心安堵の息を吐きつつ、車のドアに手をかけた。
「いいか、こちらには人質が居る。この車に攻撃を加えた場合、人質への責任を放棄したものと見做す、意味は────」
 〈ちとせ〉がベンツに乗り込みつつ親衛隊員たちに脅しの言葉を掛けている、その最中のことだった。ぶつん、と何かの破断する音とともに、
「あっ、こいつ、ナイフを!」
 との声が、後部座席より上がった。だが、言葉の意味を理解するよりも、〈ちとせ〉の視界に銀色の刃先がきらめくほうがよほど早かった。
 すんでのところでナイフを避ける事ができたのは、本来の身分である密偵(スパイ)としての訓練の賜であったのか、偽りの身分である親衛隊員としての訓練の成果であったのか。その問いへの答えは判然としない。確かなことは、シュナーベルの手に握られたメスの切っ先に切り裂かれるはずだった〈ちとせ〉の両目はすんでのところで難を逃れ、その代りに大きく仰け反った大男の体はバランスを崩したということだ。
 袖に仕込んでいた医療用メスで窮地を難なく脱したシュナーベルは、その機を逃しはしなかった。運転席に斜めに座り、ドアにもたれかかるような形となった〈ちとせ〉の体の上に、黒く巨大な怪鳥が羽を広げる。黒いマントを翻したシュナーベルが、反逆者の喉元にメスを突き立てようとしているのだ。だが、〈ちとせ〉も簡単に殺されるわけにもいかない。狭いわけではないが大きいわけでもないメルセデス・ベンツの運転席で、二人の男たちはしばしもみ合い、つかみ合う事となった。その間にも、親衛隊員たちはメルセデスに駆け寄り、大佐に加勢をしようとしている。まるで場の空気を煽るようにエンジンの回転音が上がっているのは、もみ合いの中で〈ちとせ〉の足がクラッチペダルとアクセルを思い切り踏み込むことになっているためだ。
 シュナーベルが上位を取っていたのはこの際、幸運と言えただろう。部下たちは、上官にあたることを恐れて銃の仕様を控える羽目になったからだ。けれど、だからと言って〈ちとせ〉が有利であるとも言えない。メルセデスの周囲には黒服どもがわらわらと集まってきていて、たとえシュナーベルをどうにかしたところでこの状況から打開が可能であるとも思えないが──
「──おじさん、クラッチお願い!」
 と、唐突に耳元で声がした。ミランの声だ。後部座席に居たはずのミランが体を乗り出し、二人の男の間を縫って手を伸ばしている。その先にあるのは、シフトノブだ。エンジンは高らかに鳴り響いている状態でのことだ。意図するところは明らかだった。
 シフトレバーを操作する音に合わせ、不自由な姿勢の中、〈ちとせ〉はクラッチペダルから足を離した。車体がわずかに揺れたと思ったのもつかの間のこと。十分以上にエンジンをふかしていた黒いメルセデス・ベンツは次の瞬間には一気に加速し、糸杉の森の中を疾走しはじめた。くぐもった悲鳴が後方へと飛んでいったのは、運転席の上で後ろ向きに立つ形となっていたシュナーベルが急加速に絶えきれず、車の後ろに転がり落ちていったことによるものだ。
「ああ、畜生、やっちまった」
 木々の合間を縫い、下草や枯れ葉を轢き潰しながら突き進んでいくメルセデスのハンドルを握ったまま、〈ちとせ〉は呟いた。理性では、少年を撃つべきであると分かっていた。だが、その命令に従うことはできず、のみならず少年を殺そうとする親衛隊員を撃ち殺して、出奔している。これまで偽りの人生を送ってきた時間も、築き上げてきた信頼も、もはや何もかもが台無しだ。無論、このまま本国に帰るわけにも行くまい。そもそも、その手段も何一つ準備していないのだ。──
 黒い車体を操りながら思索にふける〈ちとせ〉を、一つの物音が我に帰らせた。タイヤが枯れ葉を踏む音と鳴り響き続けるエンジン音に混じり、小さな泣き声が聞こえてきたのだ。視線を横にやれば、いつのまにか助手席に収まっていたミランが涙を流し、すすり泣いているところだった。
「どうして」
 と、泣き声の合間に、震える声が上がった。
「どうして、俺だけ助けたんだ。どうして、母さんや、他の人たちを助けてくれなかったんだよ」
 答えを返そうと〈ちとせ〉は口を開きかけたが、言うべき言葉を見つけることはついぞできなかった。何を言っても、少年を助けた理由でさえも、ただ自分の心の弱さを告白することにしかなりそうにはない。
「──すまない」
 結局、口にできたのはその一言だけだった。あとは、森の中に響くのはメルセデスの発する音ばかりとなった。かすかに辺りに漂い始めているガソリンの臭いは、車から漂うものではなく森の奥で撒かれたものが風に乗り、その臭いを辺りにばらまいているものだ。
 同時刻、森の奥では炎が燃え盛っていた。燃えているのは、占い小屋を始め、ロマたちが使う移動式の商店や芝居小屋、それに家代わりの馬車などだ。彼らはナチの侵攻に合わせて、移動のために使っている
 炎を背景に、影絵のごとくに黒服の男たちがうごめいている。奇妙なことに、誰ももう逃亡者を追おうとはしていない。代わりに彼らは黙々と、今しがた自分たちが殺したロマの死体を並べている。しかも、死体はすべて、奇怪な鳥の仮面を被った親衛隊大佐の前に供物を捧げるかのように並べられているのだ。そのさまはさながら、死体を食らう猛禽の前に生贄を差し出す異教の供犠の(くぎ)ようですらある。だが、彼らは一体何をしているというのか?
 その答えは、シュナーベルが握る〈契約の石〉にありそうだ。無数の供物の上に掲げられて、〈石〉は再び青い炎をともし、のみならず、周囲に光を発し始めているのだ。
「キリスト教以前の古代世界においては、人を生贄に捧げる祭儀というものはごく一般的に行われていたものだ。あの偉大なローマ帝国でも、ハンニバルの脅威に際して奴隷を神に捧げる人身御供の儀式が行われたという。我らアーリア民族の祖先は、偉大なる民族として隷属する民族の処遇をよく知っていたということだ」
 並べられ、積み上げられる死体が邪教の供物であるならば、シュナーベルはその祭司といったところか。彼一流の「説話」においてローマ帝国とアーリア民族の祖先とが直結しているのは歴史的には完全な間違いであるが、ナチの世界観においては一定の根拠のあることである。ローゼンベルクの『二十世紀の神話』でナチズムの神話として採用され、体系化された数々のオカルティックな疑似歴史学説においては、かつて極移動によって北極海に沈んだアトランティスに端を発する高貴な神話的種族が世界に散らばり、人類の文明を勃興させ、発展させてきたことになっているのだ。その説に従えばエジプトの偉大な古代王朝も黄河の辺りに生まれた文明も、あるいは古代ギリシア文明も古代ローマ帝国も、原アーリア人とでも呼ぶべき同じ一つの祖先をもつ民族が作り上げたものということになる。彼らは歴史の流れの中で他の劣悪な人種と交雑し、血を汚し、堕落して消え去っていったが、現存する中で最も原アーリア人の要素を残しているのが他でもないゲルマン民族なのだ。──と、言うのが、ローゼンベルクがまとめ上げたナチズムの神話であり、シュナーベルの言葉もその歴史観によるものであったのだ。
「──そして、生贄の儀式というのは往々にして、人を焼き、煙の形で捧げることが最上の形とされたものだ。ケルト民族のウィッカーマン、アモン人らのモレクへの祭儀などが有名なところだな。──あるいはユダヤ教における燔祭(ホロコースト)もまた、こういった人身御供の形骸を残したものだろう。旧約聖書に記されたイサクの燔祭は、神への供物が人から動物へと移行したことをひとつの物語として伝えたもので間違いあるまいよ」
 小屋を焼く炎はなお一層赤く空を舐め、シュナーベルの手の内にある青い炎もまた、これ以上ないほどに大きく燃え上がっている。熱を伴わない炎が積み上げられた死体へと移り、その身を喰らい始めるのも時間の問題かと思われた。実際に、〈契約の石〉を掴むシュナーベルの手からは、まるでその手を丸ごと飲み込むように青色の火がほとばしりさえしたのだ。
「──さあ! 神よ、原始の力よ! 契約の証はこの手にある! 我こそは失われた民族の末裔、約定を果たすべく神話の彼方よりどうか御身を現し、我らを導きたまえ!」
 シュナーベルは、高らかに祈りを唱えた。青い炎はいまや、辺りをのみこまんとしている。
 だが、その次に起きた光景は、怪鳥のごとき司祭の望むものとは違っていた。
「何故。どうしたというのだ、これだけの生贄では足りないと言うのか」
 一度は大きくなり、生贄を舐め尽くすかと思われた炎は、次の瞬間には勢いを弱めて消え去っていたのだ。それどころか、〈石〉の中の炎すらも消え、黒煙を上げて燃え盛る赤い火に照らされるばかりになっている。積み上がった死体もそのままだ。シュナーベルの言ったとおり、〈石〉に刻まれた契約を履行するには、生贄の数が足りないというのだろうか?それとも、全く別の原因があるものであろうか?
 シュナーベルの問に答えるように、〈石〉が震えはじめた。振動はやがて音へと変わり、音はひとつの声へと変わってゆく。
『──〈契約〉コードを含む血液、および必要な環境が確認されず。〈契約〉を履行する権限が不足』
 天空より呼びかけるような、遥か高みより託宣を下すかのような声で、〈石〉は契約の履行の不許可を告げた。伸ばした腕の先に残る青炎の残滓に照らされて、表情の変わるはずのない怪鳥の仮面にはまるで、怒りの形相かのような影が落ちている。
「……場所はともかく、私でも、あるいはこの場にいる他のどの親衛隊員でも、契約の履行者としては不適格だと言うのか。それとも──」
 揺らめく青い種火が、再び震えた。
『なお、〈契約〉は盗人を許さない』
 声が新たな託宣を告げるや、シュナーベルの仮面にはめ込まれた硝子の目が、青い炎を映して揺れた。
「あの小僧だ! 不当に〈石〉を所有し続けた一族の末裔たる奴の血を捧げねば、神の怒りは贖われぬのだ!」
 くぐもった怒声が辺りに響き、その残響の消えぬうちに無数のエンジン音が暗い森にとどろき渡った。シュナーベルの命令を受けた親衛隊員たちが、遅まきながら逃亡者を追いはじめたのだ。エンジンの音は煙とともに風に乗り、追われるものたちに追跡者の存在を知らしめることにもなる。
 遠いエンジンの唸りを聞きながら、〈契約の石〉の託宣によって追われる身となった少年は、不安げにハンドルを握る男を見上げた。
「ああ、分かってる」
 ほどなく、ベンツは林道の真ん中に停車した。エンジン音はまだ遠いが、追いつかれるまでそう時間があるわけでもない。
「このまま道なりに森を抜ければ、こちらの居場所は容易に知れることとなる。ここからは森の中を歩くことになるが、我慢してくれ。ええと、地図は……このあたりにあったはずだが……」
 〈ちとせ〉は運転席近くに放り出していたはずの地図を探しはじめた。だが、暗い中でのことだ。懐中電灯を片手に車の中を探し回るも、すぐには見つからない。そうしているうちにもエンジン音は次第に近づいてきており、思わず〈ちとせ〉が悪態をついたときのことだ。
「こっち。人に見つからない道、知ってるよ」
 黒服の袖を引き、ミランが暗がりの中、音もなく走り出した。考えてみれば当たり前の話だ。ミランや彼の仲間たちはルントラント王国が占領されてからこちら、この森の中に隠れ住んでいた。その地理については、〈ちとせ〉や他の親衛隊員たちよりもよほど詳しいはずなのだ。
 森の中は暗く、月明かりも届かないほどだ。そんな中を、少年と黒服の男は二人、一言も交わすこともなく駆け抜けてゆく。移動を続けていた追手の乗るバイクのエンジン音はやがて、放置したベンツの辺りで停止した。周辺を同じく徒歩で捜索に掛かったのだろう。だが、確たる道をたどっていく二人と、周辺をくまなく捜索する必要のある追手とでは格段に移動の速度が違う。今度こそ、逃亡者たちは今夜の命を拾うことができたようだ。
 遠く、赤い炎は燃え上がり、森の中になお一層黒黒と影を投げかけている。炎の前に立つシュナーベルの足元からも、不気味な仮面をうつしとった影が森の中に落ち、黒い大鴉が羽根を広げんとしているかのようだ。
「馬鹿な下士官のせいで、計画に遅れが出るとは。──だが、それもそう長くはあるまい」
 くぐもった声は、火の爆ぜる音に混じり闇の中へと溶け込み、森に広がる張り詰めた空気に一滴の緊張を添えた。赤い炎は勢いを落とすことなく、夜空に浮かぶ月すらも焦がすかのようであった。
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