第4幕・第2章  深く降りる  

文字数 4,460文字


夜明け前の大学の構内は静まり返っていた。緩やかな風が池の水の表面を撫でる音すら聞こえてきそうなその静寂を乱さぬよう、ボクは靴底に意識を集中しながら防犯カメラに映らない場所を慎重に選んでそこへ向かう。地下一階駐車場奥の特別車両待機スペースの横にそのドアはある。ドアのレバーに手をかけてみたけど、思っていた通り開くはずは無く、ここから先のプランは何も無い。でも必ず何かが起こるという確信がボクにはあった。《地下共同溝・地下水位調整水槽連絡通路入り口・関係者以外立ち入り禁止》と書かれているそのドアの前にどれくらい立っていたのだろう。ふと後ろに人の気配を感じて振り返ると、ヘルメットを被った作業服姿の人が立っている。背の低い小太りの男で、マスクをしているために顔は良く分からない。

「あなたここに入りたいんでしょう。私が案内してあげるわ」

 そう言われて初めてその作業員が女性だと分かった。しかもそれはあの時ボクを理事長室に案内し、次の日にボクの写真を撮った事務員さんにそっくりだ。

「あの・・事務員さんですよね」

 ボクが戸惑いながらそう言うと、その人はじれったそうに言った。

「事務員?何を言ってるか分からないけど、私は現場一筋30年よ。事務仕事なんて御免だわ。とにかく余計なことは考えなくていいの。あなたはあなたの目的を果たすことだけ考えればいいのよ」

 彼女は作業ズボンのポケットからたくさんのカギが付いたリングを取り出すと、少しの迷いもなくその中から一つを選んでドアノブの下の鍵穴に差し込んだ。重い金属音がした。

「ついて来て」

 彼女がそう言いながら重そうな鉄のドアを押し開けると、ひんやりとした空気がボクたちを包み、ボクが彼女に続いて中に入ると彼女は内側から鍵をかけた。

「かなり深くまで降りるけど大丈夫よね。セキュリティー会社にバレちゃうからエレベーターは使えないの。あなたをあそこに入れるのは規則違反だから」

「あなたはいったい・・」

 と言いかけてやめた。余計なことは考えなくていいんだ。彼女の後に着いて長い通路を進む。ボクのスニーカーがコンクリートの床を踏むざらざらという音と彼女の作業靴の乾いた音が、壁の金属パネルと、細長い蛍光灯が等間隔にはめ込まれた低い天井に反響して不思議な音を生み出す。

「この共同溝は都内では最大規模よ。もちろん長さではもっと長いものはたくさんあるけど、私が言ってるのはキャパシティーのことね。分かる?つまり収容できるものの量って意味。よくある共同溝っていうのは電気やガスや通信の為のケーブルとか、いわゆるライフラインというものが収められているわけ。もちろん水道や下水なんかもね。ここのはそれだけじゃなくて、ごみ収集にも使われてるの。ここはほら、安全で美しい街ってことで、歩道にごみの集積所なんかがあったらちょっとまずいわけね。再開発以降に建てられた公共施設とか集合住宅なんかは、屋内のダストシュートから直接収集システムにつなげることが義務付けられたんだけど、それ以前からあった建物から出たごみは区画ごとに設置された共同のダストシュートを利用して集められてるの。だからこの街ではごみ収集車が道路を走ってるのを見たこと無いでしょ。まあ、同じような仕組みは他のところでも導入されてるし、全てが機械化されてるところもあるのね。風力で吹き飛ばしながら自動で分別して直結した焼却施設まで運ばれる。でもやっぱり無理があるのね。システムのあちこちで不具合が出て停止することがしょっちゅうで、結局効率が悪くなるし、その度に作業員が点検に入る手間だって相当なもんよ。だからここではその教訓から分別と運搬は人間がやるようになってるの。結局のところ普通は地上で行われていることを、地下でやってるってだけね。それにね、その地下通路は警察署と消防署に直結してるの。考えてみて。ごみ収集車や緊急車両が走り回れるような通路を地下に造るってかなりのもんでしょ。あ、そうそう大事なことがもうひとつ。この街の売りのひとつが水害対策でしょ。ほらここは大きな川に挟まれた街だから過去に何度も被害が出てるの。それで造られたのが巨大な地下調整水槽。つまり地下にある大きな貯水池ね。大雨で川の水位が上がるとそこに一旦水を流し込むの。そして水位が下がるのを待って川に戻す。それも大工事だわね。だからこの街の再開発は普通の倍くらいの期間がかかったのね」

 そこまで一気に話すと彼女は歩きながら後ろを振り返った。ボクがついて来ているのを確認するとまた前に向き直って話を続けた。

「でもその地下の貯水池は一度も使われてないのね。幸いといえば幸いだけど、なんていうの、せっかく作ったのにね。まあそんなもんなのかしらね。準備万端整ってるときには何も起こらないくせに、ちょっと気を抜いた時にやられちゃうみたいな。ユーミンのデスティニー。今日に限って安いサンダル履いてたってあるでしょ。あー、あなたの歳じゃ知るわけないわね。ごめんなさいね。まあ何にしてもここの地下にはとんでもないものがいろいろあるってわけよ。だからこの通路もクソ長い。まったく、地下鉄ならひと駅分くらい歩いたわね。でももうすぐよ」

 そう言う彼女の肩越しに鉄のドアが見えて来た。《地下共同溝入り口・関係者以外立入禁止》と書かれたそのドアの前で立ち止まると、

「ここがその共同溝の入り口よ。でも残念だわね。私たちの目的はここじゃないわよね。まあ、あなたも分かってるでしょうけどね」

 そう言ってボクを見た。ボクが小さく頷くと、彼女は満足そうに大きく頷いた。

「さあ行くわよ。あとひと駅分」

 そう言って共同溝入り口の前から横に延びた通路を急ぎ足で歩き出した。床も壁も照明も今までの通路と同じだけど、違うのはいくつもの分かれ道があることだった。何の表示も無いその分かれ道を、彼女は少しの迷いもなく選び何度も曲がった。曲がる度に湿度が少し変わった気がした。ボクは帰り道に備えて右、左と曲がった数を記憶し、ちょうど10回目を左に曲がったところで突然そのドアは現れた。《地下水位調整水槽入り口・関係者以外立ち入り禁止》と書かれた下にいくつか注意事項のようなものが見えたけど、ボクがそれを読む間もなく彼女はまた手際よく鍵を取り出してドアを開けた。目の前に広がった風景にボクは一瞬息をのむ。その巨大な筒状の空間は、いつか遊園地のアトラクションで観た宇宙ステーションの内部の映像を思い出させた。

「凄いでしょ。あなた高所恐怖症とかじゃないわよね。だったらあの手すりのとこまで行って下を覗いてみて」

 ボクは5メートルほど前方の頑丈そうな鉄製の手すりまで行って下を覗き込んだ。足がすくみ、頭の芯の辺りに微かな痺れが走る。たしか宇宙ステーションではドジな操縦士か何かのせいで、ボクたちの乗った宇宙船がこんな果てしの無い巨大な穴の中に落下してしまったんだった。

「凄いでしょ。ここは第一縦抗っていうのよ。直径30メートル、深さは100メートル。あの自由の女神がスッポリ入る。地下工事の時にまずこのバカでかい竪穴を掘ってね、工事に使う機械なんかを降ろすわけよ。ほら、トンネルとか掘るのに使うやつ。あんなのを入れるんだから、この穴だってこれくらいないとね。それで工事が全部終わったら蓋をしちゃうってわけ。この上は駅前の公園よ。真ん中に芝生の広場があるでしょ。上で遊んでる人たちはまさか自分の足の下にこんなのがあるとは思わないでしょうね。もちろん秘密ってわけじゃないけど、誰もそんなこと気にしてないってことよ。良くも悪くもね」

 そう言うと彼女は上の方を見上げたまま少し何かを考えていた。うるさいくらいにしゃべり続けていたせいか、僅かな沈黙がとても長い時間に思えた。

「さて、私が案内できるのはここまでよ。さっきも言ったけどそのエレベーターは使えないの」

 そう言って彼女が目をやった先には、作業員や機材を運ぶ為の大きめのエレベーターがあり、脇にある操作パネルの何か所かにオレンジ色の明かりが点いていた。

「だからあの階段を使うしかないわね。かなりスリリングな階段だけど、高所恐怖症でなければ大丈夫。まあ今まで誰かが落っこちたなんて話も無いから安心して」

 そう言うと彼女は巨大な筒状空間の壁面に沿ってつづら折りのように取り付けられた金属製の階段を指した。空間全体のスケールとの比較でそれはとても貧弱なものに見える。

「あ、それからね、あなたのお父さんがもうすぐこの街に来るわよ」

「お父さんが?あの時の写真ですね・・事務員さんが撮った」

「写真?何のことか分からないけど余計なことは気にしないの。あなたにあなたの目的があるように、お父さんにだって目的があるの。大丈夫よ。私がうまくやっとくから」

 そう言うと彼女はまるでダンスのターンのように後ろに向き直り、さっき入ったドアの向こうに姿を消した。その軽やかで素早い動きに少し驚いていたボクはふと我に返り、こんな場所でひとりになったことに急に不安な気持ちになった。ボクはこれからどうすればいいのだろう?彼女は、自分の目的を果たすことだけを考えろと言った。今はその言葉に従うしかない。そう、かなり深くまで降りるんだ。

 その階段は離れた場所から見た時の印象をはるかに超えてスリリングだった。踏み板も手摺りも頑丈な金属製で、たとえ小さな子供でも決してすり抜ける危険のない狭い間隔の柵がボクの胸の高さくらいまで脇をカバーしている。しかも小さな物でも落下させることが無いように階段全体が目の細かい網のようなもので覆われていて、自分で柵を乗り越えない限り落ちることは絶対にない。でもだからと言って恐怖が消えるわけでもない。頭の芯の痺れは後頭部の不快な冷たさに代わり、心臓が時々不規則に動いた。ボクは左手でしっかりと手すりを掴み、一段一段を踏みしめながら階段を下りた。途中で何度か足を止めて頭上を見上げ、首から上だけを柵から外に出して下の方に目をやった。その足がすくむような思い切った行為の甲斐もなく、自分がどれくらいこの巨大な筒の底に近づいているのかは分からなかった。ボクはペースを上げて一気に下まで降りることにした。自分が今いる場所も落ちる恐怖も、そしてこれから向かう未知の場所への漠然とした不安も、すべて意識から遠ざけボクは自分の足元に集中した。何度か足がもつれそうになり、ボクは足元を見るのをやめ、今度は2メートルくらい前方の空気を見ながらテンポ良く足を進めることにした。歌でも口ずさもうとしたけど、何のメロディも思い浮かばない。そしてやがて自分を取り巻く空気の温度が変わるのを感じる。それは深い海の底で温度の違う二つの海流が交わるような、急激で激しくしかも滑らか変化だ。その交わりはほんのひと時ボクを混乱させたけど、次の瞬間には柔らかな流れとなってボクを運ぶ。それは優しい陽だまりの中でのうたた寝のような時間だった。
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