第1幕・第2章  医師

文字数 6,153文字


 彼は少し丈の足りないグレーのスラックスに白いワイシャツ着て、茶色いカーディガンをはおっていた。ネクタイは無く、やや長めにのびた白髪混じりの髪は清潔そうには見えない。医師というよりは、経営難に苦しむ養護施設の園長といった風貌で、僕の記憶どおりならば、数日前に初めてこの場所で会った時と同じ服装のようだった。

「いいですかお父さん、こういった精神医学というのは他の医療とは基本的に違うのです。血圧がいくつとか、血糖値がどうとか、いわゆる数値ですね、機器ではかれる数値。そういったものが無いのです」

 妻はあいにく風邪で熱を出し同席できなかったので、医師と僕は診察室の机を挟んで向かい合うことになった。

「私たちの診断はすべて臨床によるものなのです。症例のほとんどは脳内の神経伝達物質、セロトニンとかドーパミンとか、ご存じですよね。名前くらいは聞いたことがあると思いますが、いわゆるホルモンですね。これが関係しているわけです。ただこのホルモンと言うのは先ほども言いました通り数値化できません。そこで私たちはこのホルモンの分泌量やそれをやり取りする機能を調整することで症状の原因を探るのです。ホルモンを出やすくしたら状態がこう変化したとか、その反対ならどうなったとか、実際にはもっと複雑な話なのですが、まあ、ざっくり言うとそういうことです」

「それで・・娘は病気なんでしょうか?」

 医師の話が途切れたのを見計らって僕は口を挟んだ。この前ハルが受けたテストのようなものの結果を聴くのが今回のいちばんの目的だった。医師は僕の質問には答えず、机の上のレポート用紙を手にとって余白のページを開いた。

「いいですかお父さん」

 ワイシャツの胸ポケットからボールペンを取り出しながらそう言うと、慣れた様子でペンを走らせた。レポート用紙の縦と横をそれぞれ半分に分けるように直線を引いたことで、紙面がちょうど四分割される形になった。

「縦軸が知能、横軸は感情です。感情、と言うより情緒ですね。そう、情緒の安定の度合いと言えばわかりやすいでしょう。つまりこのグラフの上に行くほど知能が高く、右へ行くほど情緒が安定していると言うことになるのです」

 医師はそう言いながら縦の線の脇に「知」、横線の上に「情」と書いた。次に、縦軸の比較的上のあたりと横軸の中心よりやや左のところを結んだあたりに小さな黒丸を描いた。四分割されたレポート用紙の左上のエリアの右上の部分ということになる。

「娘さんの場合、おそらくこのあたりに居ると考えてください。つまり、知能はかなり高いレベルにありますが、感情面では困難さを抱えているということです。お分かりになりますか?」

 中学生になっても学校での様子に大きな変化は見られなかった。環境を一度リセットする為に自宅から距離のある私立の学校に入れた。同じ小学校からの入学者は無く、人間関係を新たに作る良い機会だったが、以前と変わらず居心地の悪い日々が続き欠席日数も多くなっていた。心配した学校側からの薦めで心療内科を受診することになり、初めに僕と妻が医師と面談し、次にハルの面談が行われ簡単なテストも受けた。知能テストと心理テストの複合的なもので、今後の方針の参考にするという説明だった。

「いいですかお父さん。先ほど娘さんが病気かどうか?とお尋ねになりましたが、まず大前提としてご理解いただきたいのです。繰り返しになりますが、この種の症例には数値化されたデータはありません。今回受けてもらったテスト結果は数値で表示されますが、これはいわゆる医学的データとは意味合いの違うものなのです」

 医師はテスト結果の用紙の数値が書かれた個所をキャップの付いたボールペンの背の部分でなぞりながらそう言った。

「そういう性質のものですから、病気かどうかというボーダーラインというものはそもそも存在しないのです。つまり、その判断は私たち医師に一任されていると言うことです。先ほどの質問にお答えするならば、私がカルテに病名を書いた時点で、娘さんは病気であると言うことになるのです。私の立場でこう言うのもどうかと思いますが、これはとても危険なことです。正直言えば私だって怖いのです。いっそ誰かが数値的なラインを引いてくれたらどんなに良いかと。しかし私はこんな風にも思うのです。そもそも数値というものにどれほどの意味があるのかと。人間の身体はそれぞれに違うのです。数値を基準に正常異常を判定し、さらに病名までつけてしまう。これは医者の怠慢に他ならない。さらに言えば数値が医者の責任逃れの材料にもなってしまう。そもそもおかしな話だと思いませんか?それでは医者は何の為にいるのでしょうか?」

 そこまで一気に話をすると、彼は黙ってしばらく自分の描いたグラフを見つめていた。心を落ち着けようとしているのか、それとも全く関係ないことを考えているのかは僕には判断がつかなかった。そして何事もなかったようにグラフの解説を再開した。

「このグラフの右上のエリア。つまり、知能が高く、情緒も安定している。おそらくどなたにもひとりくらいは思い当たる人がいるのではないでしょうか。こういうタイプの子が。ここにいる人たちは一見何の問題も無さそうに見えます。それはそうですね。成績が良くて周囲との関係も上手く築けるわけですから、先生にも一目置かれリーダーシップも発揮できる。しかし人間はそう簡単ではないのです。我々の分野の研究でも、いま一番の課題は実はこういうタイプの人たちなのです。ここにいる人たち。特にこの部分の人」

 医師はグラフの右上のエリアに大きな丸を書き、次にいちばん右上の隅の方に小さな丸を書いた。

「特にこの部分の人が問題なのです。長年の調査の結果ですが、この人たち、この一見何の問題も無さそうな人たち、というよりは他人も羨むような、将来を期待されるような人たちは、かなりの確率で将来的にひどい結果に至っているのです。例えばですが、犯罪者、自殺、薬物依存といった、どう見てもよい人生とは言い難いものなのです。しかも不思議なことに皆40歳を過ぎたあたりから人生がおかしくなり始めているという共通点があるのですが、このあたりの原因はまだ分かっていないのです」

 それはそれで興味深い話ではあったが、今の僕にとってはどうでもよかった。

「娘はこれからどうなって行くんでしょうか?」

「もちろん、娘さんのような方にはケアが必要です。本人が苦しんでいるわけですし、親御さんにとっても辛いことです。それでこうしてご相談に来られている訳ですから。私としても出来るかぎりのことをさせて頂きます」

 医師は少しの間うつむいて何かを考えているようだったが、やがて僕の目を見て言った。

「抽象的な言い方で申し訳ないのですが、世の中にある問題というのは、問題に気づいた時点でそれほど深刻ではなくなるのです。人間は欠陥だらけですが、同時に人の知恵は偉大です。私たちが本当に恐れるべきものは、一見すると問題がなさそうに見える物の中にあるのです。私はそう思います」

 なぜか分からないが、医師のその言葉が心に残った。それはハルについてではなく、僕自身に向けられたメッセージのように思えて仕方なかった。それ以降ハルは定期的に医師の元へ通い、ただ話をしゲームをして遊んだ。次に僕が医師を訪ねたのはハルが夏休みに入る少し前だった。今回は妻も一緒だった。

「娘には驚かされることがよくあるんです。不思議な体験というか」

 ボクがそう切り出すと、医師は研究者としての好奇心が何かを感じ取ったかのように目を輝かせた。

「とにかく耳がいいんです。聞えるはずの無いような小さい音が聞こえるようで、かなり離れた場所でドアが開く音とか、ほんの少しだけ出ている水道の音とか。私たちの声も信じられない距離で聞こえているみたいで、うかつに内緒の話もできないと言う感じです」

「なるほど、まあこれは私たち全てに言えることなのですが、人間の聴覚というのは実にうまくできていまして、自分に必要のない音を自然にシャットアウトしていると言われています。逆に言えば必要なものに対してはとても敏感になるということなのです。たとえば私たちもレストランで食事をしていて、隣の席の会話が気になって自分たちの話に集中できないことがあります。逆にどんなに周りが騒がしくても全く気にならないという場合もある。これは音量の問題では無く、私たちが無意識に耳に入って来た情報を選別しているということなのです。そういう意味では私たちは耳ではなく脳で聞いているとも言えるのです。そして確かに娘さんのようなタイプの人は五感がとても敏感です。聴覚について言えば、隣のクラスで授業をしている先生の声が聞えてしまって、自分のクラスの授業に集中出来ないというケースもあるのです。隣の先生の話の方が興味深かったのか、あるいはもっと複雑な構造なのかもしれませんが。臭覚も味覚も敏感ですから食事にも苦労している方が多い」

 妻は、その通りですと言うように頷いて、娘の食事に関する苦労話をいくつかしたが、医師はそれほど興味なさそうに小さく頷いただけで話の続きに戻った。

「この感覚の敏感さは特殊な能力だと言えますが、ただそれは本人にとって決して嬉しいことでは無いのです。聞こえなくてもいい音や声が聞えるというのは、常にある種の緊張感の中に居るようなもので、精神的な負担が大きいのです。にもかかわらず、学校では注意散漫だとして責められる。食事に関してはただの我儘だとされ、教師たちは無理にでも食べさせようとする。アレルギーなどの体質的な要因には大袈裟なくらいに神経質になっている学校も、こうした脳の機能による個性を全く認めようとはしないのです。実にひどい話です」

 医師は、本当にうんざりだというように小さく首を横に振った。

「その敏感さというのはこれから変わっていくんでしょうか?」

 口をはさめそうなタイミングを見て僕はそう尋ねた。僕たちにとっては今後のことがとにかく気懸りなのだ。

「個人差があるとしか言えないのです。聴覚に関しては普通に近づく場合が多いと言われていますが、置かれた状況や精神状態によっては、一時的に極度に敏感さが増すという報告もあります」

「先生、聴覚についてはもっと驚くことがあるんです。これはもう聴覚というより超能力かと思ってしまうほどですが」

「超能力ですか?」

 医師は興味深そうに少し身を乗り出した。

「超能力というのは言い過ぎかもしれませんが、異常にカンがいいというか、例えば娘が学校に行っている時に私たち夫婦で何か話をするとします。そうですねぇ、家族旅行のこととかを。もちろん娘には聞えるはずは無いんです。いくら耳が良くてもさすがにそれは無理ですよね。するとその日の夕食の時に娘が突然家族旅行について話し出すんです。もう妻と顔を見合わせて言葉も出ない。そういうのが度々あって、何処かに盗聴器でもあるんじゃないかと真剣に話してるんです。そんなことってあるんでしょうか?」

 医師は少しの間黙ったまま何かを思い返すように中空を見ていたが、やがて腕時計に目をやった後で僕達を見た。

「おふたりは潜在意識という言葉はご存じですね。無意識と言い換えてもいいですが、要するに自分では気付いていなくとも感じていることや思っていること、あるいは憶えていることだったりします。そしてそれは実際の判断や行動にも大きく影響している」

 僕と妻は小さく頷いた。

「やや学問的な話になりますが、この無意識について研究していたのがフロイトという心理学者です。そしてこのフロイトの弟子がユングという人。このユングの学説がなかなか面白いのです。それは、人間はこの無意識のレベルで他人と繋がっているというもので、彼はこれを集合的無意識と呼んでいるのです。つまり、人間は意識のレベルでは会話もしていないし会ってすらいない人、極端なことを言えば、地球の裏側で生活している見ず知らずの他人とでも、潜在意識のレベルで交流しているというわけなのです。一見信じ難い話のように思いますが、そう考えると説明のつくことがたくさんあるのです。連絡をしようと思った相手からそのタイミングで電話がかかって来る。初めて来た場所なのにいたるところに見覚えがある。そんな体験は大なり小なりどなたにもあります。先ほどの娘さんの超能力的な話も決して珍しいことではないのです。ユングはそれをシンクロニシティと呼んでいます。意味のある偶然というような意味でしょうか。そしてさらに彼はこう言っています。その集合的無意識は時間さえ超えたものだと。お分かりになりますか?つまり、遥か昔に生きていた人と今を生きる私たちが潜在意識において繋がっている。まあこうなるともうスピリチュアルな世界です」

 そう言って医師は小さく笑った。そして何か複雑な感情が含まれた表情のまま小さく息を吐いてから話を続けた。

「そうです。これはもはや魂の話なのです。医師である私がこういうことを言うのはどうかと思いますが、この潜在意識の研究は突き詰めていくとそういう領域に入ってしまうことがあるのです。私の父は物理学者でしたが、ある時を境にそちらに傾倒していきました。魂は時間も空間もない世界で互いに関わり合いながら永遠を生きる。同じ故郷を持った魂たちはグループを作り、時には物質的な世界で出会い別れすれ違い、そして故郷に帰る。それを繰り返しながら魂は自らを成長させ、究極的な存在を目指す。父はよくそんな話をしていました。そんな風に考えるとほとんどのことは説明がついてしまうのです。私達が人生の中で対面する苦難や障害が魂の成長のための課題であるとすれば、誰もが必ず死に行くと知りながら、人は何故わざわざこの世に生まれるのかという究極の疑問にさえ容易に答えられてしまうのです。もし同じ問いに科学的な立場で答えるとすれば、私たちひとりひとりの人間は、この物質世界を永続させるためのひとつの要素であるとしか言えない。はたしてどちらの答えが私たちに生きる活力を与えてくれるのか」

 医師はしばらく黙った。僕たちも言うべきことが見つからなかった。

「話が本題からそれてしまいました。これは医師の愚痴として聞き流していただいて結構です。私はあくまでも医師として、科学的な根拠に基づいたものを真実と考えているのです。そのうえで確実に言えることは、娘さんのようなタイプの人は全ての感覚において敏感なのです。もし仮にユングの言う、その時間も空間も超えた集合的無意識というものが存在するとしたら、おそらくそこから彼女が感じ取るものは、我々普通の人間とは比べ物ならないものなのです。それは私たちの想像を遥かに超えた世界なのです」

 僕は少しハルが羨ましく思えた。彼女の苦悩はもちろん理解していたつもりだし、何もしてあげられない自分を歯がゆく思ってもいたが、僕のように特術すべきことの無い人生を歩み、50歳になるというのに何者にも成れていない人間にとってみれば、その特殊性に憧れのようなものを抱いてしまうのも正直な気持ちだった。
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