第2幕・第7章  気配

文字数 1,403文字


 早朝、私のもとに届いた事件報道。夫との連絡が途絶えてからすでに半年が経とうとしていたけれど、その事件に何らかの形で夫が関わっていることは、彼の今までの話を振り返ってみれば明らかだった。大手製薬会社が開発した新薬の認可をめぐる贈収賄。そこには様々な利権が絡み、大きな額の金銭が動いた。逮捕者は製薬会社の幹部と厚労省の役人に留まらず、臨床データの改ざんの為に複数の大学の研究室に入り込んだ製薬会社の研究員と、それを黙認したと思われる数人の大学教授にも捜査の手が入った。ある大物政治家の関与も噂の域を超えていた。

「ほとんどのことは誰かがシナリオを書いているんだ」

 夫と連絡が取れなくなる前の晩、彼は悔しさと希望が入り混じったような複雑な表情でそう言った。

「善人も悪人も、権力者も一般市民も、金持ちも貧乏人も誰もがその筋書き通りに動かされている。誰かの手のひらの上で踊らされてるだけなんだ。結局のところ、世の中を変えるにはそこにアクセスするしかない。この世界のおおもとみたいな部分にね」

 最後に夫はこう言った。

「もう1歩のところまで来ているんだ」

 その事件はしばらくメディアを騒がせ、数人の逮捕者の立件と大臣の引責辞任で一旦の終息を見たものの、製薬業界への不信感とそこから派生した医療業界と権力側の癒着に世間の関心が向かった。事件の発端となったのが向精神薬だったこともあり、新聞やテレビでも精神疾患の患者への薬の処方などに関する批判的な特集が組まれた。ほとんどのメディアのスポンサーに多くの製薬会社が名を連ね、多数の政治家が医師の団体からの献金を受け取っている現状にあって、その展開は極めて意外な出来事だ。歯車の組み合わせが切り替わり、装置がそれまでと違う動きを始めたようだった。誰かがレバーを引いたのかもしれない。静かに、圧倒的な力をもって。

 そして私の周辺で微細な変化が起こり始める。もちろん、自分の夫が関わったであろう大事件は表面的には終息を見たものの、その余震のようなものが水面下で私のもとに何らかの影響を及ぼすことは十分覚悟していた。だから私はそれがもたらす不穏な気配を恐れることは無く、むしろ喜んで受け入れた。いまだ消息の知れない彼の現在の状態を知るためなら、どんな物事も受け入れる準備はできていたから。

「ここのところ兄と連絡が取れないのよ。携帯は繋がらないし、病院に電話しても何かしらの理由で今は取り継げないみたいな対応でね」

 治療院を訪ねると理事長の妹さんは心配そうに言った。私も連絡を取ろうとしたけれど、長いコール音の後電話に出た男性は、今は検査中のため、ご本人は電話に出られないと説明した。伝言を残して電話を切った後、何とも言えない違和感が残った。あの日訪ねた山の中の病院が幻のように思えた。ねずみ男のようなタクシー運転手もシャム猫のような受付の女性も、実際に存在していたという確信が持てない。この何とも言えない気持ちのざわつきは私に何かを予感させ、そしてその少女が私の前に現れた。人の道から外れていると分かりながら、私が十六歳の家出少女のことを受け入れて彼女に協力しようと決めたのは、彼女のその不思議な魅力に惹かれたことだけが理由ではない。母親に関する妄想的な話の意味は全く理解できなかったけれど、それが私の感じている何かの気配と関係していると直感した。それが私にとって必要なことなのだと。
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