第1幕・第7章  治療院

文字数 3,939文字


 地図の書かれたメモを手に僕は半信半疑でタクシーを降りた。目印になっている動物病院の脇には地図通りに路地が存在している。ゆうべ僕は何か勘違いをしていたのだろうか。あの警官のことを思うとまた恐怖が蘇る。急いでその細い路地に入ると、20メートルほど先に建物が見えた。両脇の背の低いブロック塀からはみ出した木々の枝葉が頭上近くまで迫り、まるでそこを通る者を選別しているかのような威圧感を醸している。明け方まで降っていた雨も上がり、見上げればそこには晴天を予感させる空が広がっているのに、目の前の深緑色に湿った葉が、まるで不穏な予言のように視界を遮った。

 その建物はかなり古く、モルタル塗りの外壁は大部分が汚れかカビで黒ずみ、ところどころにヒビが入っている。清潔で安全な街として生まれ変わったこの場所には似つかわしくない建物だ。辺りに点在する古い建物を利用したカフェやショップとも明らかに違う空気感がそこにはあった。入り口の茶色い木製のドアは色あせ、真鍮製と思われるドアノブのつけねのあたりは緑色に変色している。ドアの脇の「中国漢方治療院」と書かれた表札が魔除けのお札のようだった。重そうに見えた木製のドアは思いのほか滑らかに内側に開いた。まるでタイミングよく誰かがドアを引いて僕を招き入れてくれたかのように。建物の内部は外観から受けた印象ほど傷んではおらず、厚みのある木の床材は手入れが行き届いていて高級感さえ感じさせた。窓が少ないせいで外光があまり入らず薄暗かったが、趣味の良い照明器具が優しく辺りを照らしている。置かれているソファやサイドテーブルも、年代物だが上質のものであるのがわかる。《薬局》と書かれた窓口が無ければ自分が何処に居るのかを忘れてしまうところだ。窓口の中では白衣を着たふたりの女性が慌ただしく働いているのが見えた。ひとりは優しそうな顔立ちの中年の女性で、もうひとりはとても若く、黒縁のメガネをかけたやや神経質そうな印象だった。僕はその中年の女性に以前どこかで会ったような気がしたが記憶を辿っている余裕は無かった。ふたりとも僕の存在に気付いていないか、あるいは気にしていないといった感じで作業に集中している。薬局窓口の脇はショウウインドウのようになっていて、漢方薬のパッケージがところ狭しと並び、その隣の《受付・会計》と書かれた窓口のところには、若い女性がキーボードを叩きながら、まるで何かに戦いを挑んでいるかの様な表情でパソコンの画面を睨んでいた。彼女もやはり僕の存在を気にしている風は無い。一瞬自分が透明人間になった気がした。

「あの、すみません」

 僕が声をかけると彼女は画面から目を離して微笑んだ。とても素敵な笑顔だった。人間とは表情でこれほどに印象が変わるものなのだ。

「あ、ええと、大学の・・」

 と言いかけたところでそれを遮った。

「伺っております。あちらの突き当たりの部屋にお入り下さい」

 彼女が指したのは《第1施術室》と書かれたドアだった。僕は不安になった。本当に分かっているのだろうか?治療を受けに来たわけではないのだ。僕が一瞬躊躇していると、それを察したように彼女は、

「大丈夫です。中でお待ちです」

 と言って微笑んだ。やはりとても素敵な笑顔だった。第1施術室のドアも内側に音も無く開いた。この建物は全体の古びた印象からは想像できないくらい、どの部分もしっかりとした建てつけになっているようだ。部屋の中はドアを開ける直前まで僕が想像していた施術室のイメージとは全く異なり、まるで応接室のようだ。受付のあったホールと同様に窓は少なく、床や壁に配された間接照明が自然光の不足を補っている。部屋はかなりの広さがありそうだが、何箇所かに木製の間仕切りが置かれていて全体を見渡すことは出来ない。視界に入る範囲に秘書の姿が無かったので、僕は控えめに「すみません」と声をかけながらゆっくりと奥へ進んだ。奥のほうでドアが閉まるような物音がし、少し遅れてひんやりとした空気が僕の頬を撫でた。風というにはあまりにも弱いその空気の流れは微かに何か古臭い匂いを含んでいた。

「お待たせしてしまったかしら」

 そう言いながら部屋の奥から現れた秘書は、昨日のスーツ姿とは違い、ジーンズにTシャツのラフな服装で、髪は後ろでひとつに縛っている。

「昨日は失礼しました。話の途中であんな風になってしまって。あの後は大丈夫でした?」

「ええ、あ、いえ、実はゆうべ危ない目に遭いまして」

「危ない目・・まあ立ち話もなんですから、どうぞ掛けて下さい。冷たいお茶でいいかしら?」

 服装のせいかもしれないが、彼女の印象はきのう理事長室で会った時とは別人のように柔らかく、表情も話し方も違う。まるでよく似た別人のようだ。僕はそんなことを思いながら黙って頷いて、近くにあった深緑色の布張りのソファに座った。グラスに入れた麦茶をテーブルに置いて向かい側に座った彼女に昨夜の出来事を話すと、

「そうですか、とにかく大事に至らなくてよかったです。でもこれできのう私が言ったことの意味が分かってもらえたかしら?」

 彼女は驚いた様子も無く、僕の思いを察するかのようにそう言った。

「ええ、まあそうですね。そしていったいここは何なんですか?普通の治療院とは思えません。この部屋だってどう見ても施術室のはずは無いし。白衣の女性たちは忙しそうにしていたけど患者らしい人は全く見当たらなくて、どこをとっても不自然としか言えない。それにあなただって、どう見たってここの関係者のようにしか見えない」

「それはそうね。外部の人間が冷蔵庫から麦茶を出したりしないわよね」

 彼女はテーブルの上のグラスを見ながら楽しそうな表情を浮かべた。やはりきのう理事長室で監視について語っていた彼女とは別人にしか見えない。グラスの中の氷が微かな音を立てた。

「この治療院と大学とは深い繋がりがあるの。その関係で私もここに出入りしている。まあ私にとっては第2の職場みたいなものね。それにね、私の夫もここの関係者なの」

「あなたのご主人?ご主人はお医者さんか何かなんですか?」

「いえ、彼は製薬会社の研究員なんだけど、実は夫は3か月ほど前から行方が分からなくなってるの。まったく連絡もなく、もちろん会社にも行っていない。一応休職扱いにはしてくれているけど」

 深刻な問題であるはずなのに、彼女の言葉にも表情にもそれが感じられず、僕はどう反応していいか分からなかった。

「そうなんだ。警察には届けたの?」

 彼女に合わせて僕の話し方も打ち解けた感じになる。

「いいえ、無駄よ。それはあなたも知ってるでしょ。そこであなたにお願いがあるの。夫を捜すためにあなたの力を借りたいの」

「僕に?ご主人を心配する気持ちは痛いほどわかるよ。娘を探してる僕にとっては他人事とは思えない。でも昨日も言ったけど、僕はただ娘を探しに来ただけなんだ。今日ここに来たのもあなたから娘の話を聞くためで、申し訳ないけど他人のことを心配している余裕はないんだ」

「それはじゅうぶん理解しています。でももし、娘さんのことと私の夫の失踪に関連性があるとしたらどうかしら。そしてあなた自身もそれに関わっているとしたら」

「どういうこと?言っている意味が良く分からない。そもそも娘はどうしてあなたのところに来たんでしょう?あなたはどこまで娘のことを・・」

「不思議だと思わない?あなたが若い頃に暮らしていた街に、家出をした娘さんがやって来た。ここには何かしらの意味があると思うのが普通でしょ」

 彼女の言う通り、僕だってただの偶然とは思っていない。この街で撮られたハルの写真を見た時、書置きにあった『助けなければいけない人』というのが僕と無関係であるはずは無いと思った。この街と娘を結びつけるものは僕という人間しか無いのだから。そしておそらく、この秘書はそれが誰なのかを知っている。今までの彼女の態度から僕はそう確信した。

「もちろんさ。娘が残した書置きには、助けなくてはいけない人がいると書いてあった。でもそれが誰なのかいくら考えても思い当たらない。そろそろ教えてくれないかな。あなたは娘がこの街に来た目的を知っているんでしょう?娘があなたを訪ねたということは、その誰かというのをあなたは・・まさかそれがあなたのご主人だとでも?それでさっき関連があると?」

 彼女は小さく首を振った。

「そうではありません。あなたの言う通り、私は彼女が誰を助ける為にここに来たのかを知っていますが、それは私の夫ではない。おそらくあなたは混乱すると思うけど、結論から言えば、娘さんの言うその人は彼女のお母さん、つまりあなたの奥さまです」

「僕の妻?どういうことです?妻は今自宅にいて・・」

「ですから、昨日も言ったはずです。長い話になると」

 彼女の言った通り僕はとても混乱した。彼女の言っていることの意味は分からなかったが、昨夜の警官のこともあり、全くのでたらめとも思えなかった。いずれにしてもハルの行方に関していちばん情報を持っているのが、いま目の前にいる彼女であるのは確かだ。

「分かりました。その話というのを聞かせてください」

「もちろんです。その為に来てもらったんですから。ただ、弱みにつけ込むわけではありませんが、さっきの私の夫の話、協力してもらえますか?」

「もし僕に出来ることがあるのならば」

 彼女は満足そうに小さく頷いた。

「2か月ほど前、夫の消息を知る手掛かりになるような事件がありました。それを機に状況が一気に動き出しそうな気配を私は感じていた。ちょうどそんな時です。娘さんが私の前に現れたのは」

 そう言って彼女はグラスのお茶をひとくち飲んだ。
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