第2幕・第5章  地下

文字数 6,626文字


 あの山の中の病院で理事長に会った翌日、私は彼に言われた通り治療院を訪ねた。事前に連絡を取り自分の名を告げると、電話口の妹さんはすべて承知しているという風に快く応対してくれた。実際に会った彼女は聞いていた年齢よりもだいぶ若く見えた。彼女の顔を見たときとても懐かしい気持ちになったのは、私の母が生きていれば同じくらいの歳だからなのかもしれない。後ろでひとつに束ねた長めの髪には白いものが少し混じってはいるけれど、肌の張りも良く、とても還暦近い女性には見えない。そう言うと彼女は、ありがとうと言って優しく微笑んで、ちょうどお茶をいれて持って来てくれた白衣を着た真面目そうな若い女性に目をやった。

「毎日この娘と仕事をしているからかしら。この娘はね、この診療所で育ったの。父親が余命3か月の宣告をされてここに駆け込んできた。その父親は結果的には亡くなってしまったんだけど、いろいろ事情があって今は一緒に仕事をしているの。あそこにいる彼女とは双子の姉妹よ」

 妹さんの視線の先の窓口には、もうひとりの若い女性がパソコンのモニター画面に向かっている。私は何と言ったらいいか分からず、黙って頷いて白衣の彼女が入れてくれたお茶を一口飲んだ。

「ごめんなさい。そんなことよりご主人の話をしないといけないわね。そのためにここへ来たわけでしょうから」

 妹さんは申し訳なさそうに言った。

「はい、お兄様から伺ったところでは、お父様と連絡が取れなくなって以来、主人もここには姿を見せていないとか」

「そうね、タイミング的にはそうなるわね。それまでは時々顔を見せて私たちを手伝ってくれていたから、パタリと顔を出さなくなるというのは不自然な話なの」

「単刀直入に伺います。主人はここで何をしようとしていたんですか?あなた達と一緒に。彼の目指しているものは大体わかってはいましたが、詳しいことは何も教えてはくれなかった。でも彼の今までの話からかなり危険な活動だというのはわかります。ここはただの治療院ではないということですね」

「あなたのことはご主人から聞いていたわ。とても優秀な人で、高校の先生をなさっていたと。そしてあなたが教師になった目的も」

「優秀なんてとんでもないです。それに結果的には何もできなかった。教育から世の中を変えるという思いは全く実を結ばず、自分の無力さを思い知らされて私は教師を辞めました」

 私は今のこの社会のおかしな部分というのは間違いなく教育が生み出していると思った。私の出身高校の卒業生の多くは東大に進み、上級官僚や政治家や経済界のトップに名を連ねている。高校に入学すると私たちは彼らに倣って国を動かす人材になれと指導され、自分たちは特別に選ばれた人間だと、半ば洗脳のような教育を受ける。そんなことが連綿と受け継がれた結果が、今ある腐敗と茶番に満ちたこの国の姿に他ならない。私はその教育から変えなければならないと思い、その出身校の教師になった。しかし事はそう簡単では無く、10年以上かけても状況は全く動くことは無かった。それはおそらく、私が味わった初めての挫折感だった。

「アプローチは違ってもあなたとご主人は同じことを考えていたということね。世の中を変えるという」

「彼はいつも私を勇気づけてくれました。でも私は思いを貫くことは出来なかった。だから私は彼の活動を手伝わせて欲しいと何度も頼みました。私には学生時代からの知人をはじめとして役人関係や政治家にも結構つてがあって、それを使えばきっと役に立つ情報が手に入れられると。でも彼はその話をいっさい受け付けなかった。もちろんそれは私の身の安全を考えて。だから私はせめて精神的に彼を支えることで自分自身を保とうと思ったんです。でも彼との連絡が途絶えてしまって、私はただ待つことしかできなかった。そして先日、お兄様から連絡をもらったんです」

「兄も本当はあなたに接触するつもりは無かったの。ご主人が自分の活動にあなたを巻き込みたくないと思っているのを知っていたから。でも父と連絡が取れなくなり、ご主人も姿を見せなくなった。おそらく何かが起こっている。あなたにも察しがついている通り、今ここは診療所としての機能を停止して、ある活動の拠点となっています。そして私達は目指す場所までもうあと一歩と言うところまで来ている。兄はこれ以上、ただ待つという状態で時が過ぎていくことに耐えられなかった。それで僅かな望みをかけてあなたを呼んだのね」

「連絡をもらえて本当に良かったです。でも先ほども言った通り、主人の活動にについて詳しいことは全く知らないんです。お父様のことはもちろんですが、主人のことですらどう見ても私がいちばん分かっていません」

「それは兄も承知の上だったと思います。兄が期待をかけたのはあなたのお父様です」

「私の父?父が何か関係しているということですか?主人たちの活動のことに。それに父は一年前に亡くなっています。いったいどういうことでしょう?」

「私たちはあなたのご主人から、この街の秘密についての話を聞いたの。この街の再開発に乗じてとてつもなく恐ろしいことが計画され実行されているというものだった。ご存知だと思うけど、ご主人は医療と薬品の業界の腐敗を告発しようとしていた。様々な情報源に食い込んでいく中で、たまたま入手した情報からさらに調べていったところにその恐ろしい計画があった。彼も詳しい内容までは分かっていなくて、これから調べると言っていたんだけど・・ただその時に彼はこんなことも言っていたの。あなたのお父様がそのことに関わっているようだと。ご主人にも確証があったわけではないみたい。でも彼は何の根拠もなくそんな重要なことを口に出すような人ではないと思うの。そうでしょう?」

 思ってもみなかった話に私は動揺して言葉を失い、彼女の問いかけに黙って頷くのが精いっぱいだった。

「いやな話だと思うけど、ひとつの可能性として受け止めてほしいの。そしてそれが事実だとしたら、あなたのお父様の残したものの中に何か、今の状況に繋がる何かがあるかもしれない。あくまでも可能性として」

 私は混乱していた。あの病院で会った理事長も、そして今目の前にいる妹さんも、味方だという保証は無い。彼らが私に与えた夫に関する情報もすべてが作り話だということも考えられるし、その得体のしれないこの街の計画も父の話も私を動揺させる為の嘘かもしれない。この人たちの目的が何なのかは見当もつかないけれど、世の中で信用していい人間がごく僅かだということは経験的に私も知っている。しかし今の私には限られた選択肢しかなく、夫に繋がるたった一つの糸を手繰り続ける為には彼らの懐に飛び込むしかない。たとえそれがどんなに危険な場所であっても。

「分かりました。私に出来ることでしたら協力します」

「とても辛いことに出会うかもしれないけど」

「真実がどんなに残酷なものだとしても私はそれが知りたいです」

「ありがとう。私達を信じてくれて。だからと言う訳ではないけど、私もあなたを信じて重要な秘密を打ち明けるわ」

「秘密?」

「父が籠って研究をしている場所と言うのはこの下にあるの。この建物の地下に」

「地下室があるということですか?」

「地下室・・そういう規模のものでは無いの」

 そう言って彼女は自分の足元の床に目を落としてからゆっくりと話を始めた。100年近い時間を遡った地下世界にまつわるとても長い話だった。

 終戦と同時に重要文書のほとんどは廃棄されたか、半永久的に表に出ない場所に保管された。当時ことに携わった人の大半は既にこの世を去り、真実を知る術はごく限られたものになっている。地下に通路や施設の建設が始められたのは江戸時代のこと。有事の際の要人の避難や移動、戦闘物資の移送や人員の移動を秘密裏に行う為のもので、その規模は土木建設技術の進歩と運搬車両の変化によって大きくなり、構造は複雑化していった。大戦が始まる頃には、線路が敷かれ現在の地下鉄のように電車が走るルートまで作られた。この街の北隣にある自衛隊の施設はかつての軍需工場跡地に作られた。その地下通路はこの治療院の真下を通り街の南の高速道路のところまで延び、そこからは現在の高速沿いに進み東側の川の下を潜って都心方面に延びている。かつてどこまでそれが繋がっていたのかは不明だけれど、その間のいくつかの地点で地上に出るための仕組みが作られていた。公的な建物の地下駐車場を経て、その車両のまま一般道へと交わることができる大掛かりなものをはじめとして、地下に繋がる連絡通路を備えた建物がいくつか造られた。

「そのポイントのひとつがこの建物だったと言う訳なの」

 理事長の妹さんと私は治療院のロビーの長椅子に並んで座っていた。椅子自体はかなりの年代物のようで、長い歳月を同じ場所から見守り続けて来た威厳のようなものを醸している。張地はごく最近張り替えられたもので、その若草色の印象通りの生命力に満ちた手触りだった。

「ここはいったいどんな所だったんですか?軍の施設とかにしてはずいぶんこじんまりとしていますね」

「この建物が建てられたのは戦後だいぶ経ってからで、すでに地下通路の軍事目的での使用は行われていなかったから、そういう種類のものではないの。当時ここはね、ある画家がアトリエとして使っていたの。彼にはスポンサーがいたんだけど、その人は何というか、ただ者ではない人物だった」

「ただ者ではない・・」

「そうね。漠然とした言い方になってしまうけど、この国の意思決定がごく少数の限られた人間によって行われているとしたら、そこに極めて近い人物だった。彼は名画の収集家であると同時に若い才能の発掘にとても意欲的で、無名の若い画家をひとりここに住まわせて絵を描かせていたの。その人物は時々様子を見るためにアトリエに通う必要があったわけだけど、何といっても特別な立場の人物だから表立った行動は制限されていた。要するにこの場所に秘密裏に通う為にここに建物を造ったと言う訳。どこかの地点で地下に降りて秘密の通路を使ってこのアトリエに来ていたの」

「その人は地下通路を自由に使える立場にあったということですね。国とか軍が造ったものを。敗戦で間接的にせよ外国に支配されている中にあっても」

「まあ、国家とかそういったものの更に上にいる人物だということね」

「私には想像の及ばない世界ですね」

「私だってそうよ。世界は私たちの知らない所にある大きな仕組みが動かしているのかもしれないわね」

 その若い画家は才能があるにもかかわらず、なかなか世に出られずにいた。彼自身もそんな状況に行き詰まりを感じていたし、スポンサーであるその人物にも焦燥感が芽生えてきていた。普通ならば彼に見切りをつけ新しい才能に乗り換えるところだけれど、どうしてもそういう気になれなかった。それは自分の見込み違いを受け入れられないというプライドのようなものではなく、その若者が絶対に何かを持っているという確信からだった。そしてその確信はある試みによって具現化することになる。

「あなた、絵画には詳しかったわね」

「はい、大学では西洋美術史を専攻していました」

「では、メーヘレンという画家はご存知ね」

「ええ、ハン・ファン・メーヘレン。世界一有名な贋作画家です。特にフェルメールの贋作にまつわる話は歴史的な大事件です」

 メーヘレンは17世紀のオランダの画家フェルメールの贋作を描いたことで世界的に有名になった。もう一人のフェルメールと呼ばれるほどのその贋作技術は当時の美術界を完璧に欺いた。彼はヒトラーのナチスドイツを騙して、自分の作品をフェルメールのものとして売り渡し、結果的にはナチスが奪ったオランダの財産ともいえる多数の絵画を取り戻した。国家の宝と言われたフェルメールの作品をナチスに売り渡したとして反逆罪で逮捕された詐欺師が、一転してオランダの英雄となった瞬間だった。類稀な才能を持ちながら、彼をそこまで贋作に没頭させたものは、自分を否定した美術界の権威への抵抗だった。いや、抵抗というレベルではなく復讐そのものだった。

「その人物はメーヘレンに特別な思い入れがあったようね」

「その若い画家に贋作を描かせたということですか?」

「そう、彼が持っている何かをそこに見出したのね。思った通り彼の贋作は完璧だった。もちろんその人物は誰かを騙してそれをお金に換えるようなことはしなかった。もともとそれが目的だったわけでは無いし、そもそも詐欺のようなことをしてお金を得る必要など無かった。彼は有名どころの鑑定家やコレクターに作品を見せて、彼らが見事に騙される姿を見た後は作品をすべて地下のワインセラーに保管したの」

「ワインセラーですか」

「その人物はワインの収集家でもあってね、この地下に大きな貯蔵庫を造ったの。自宅にも巨大なのがあったらしいけど、ここにも数千本のワインが保管されていたらしいわ」

「すごい数ですね。私の想像する地下のワインセラーとだいぶイメージが違います」

「それだけじゃないわ。そのワインを振る舞うパーティ用のホールや、日本非公開の映画なんかを上映する劇場もあった。それから・・」

「ちょっと待ってください。それはここの地下の話ですよね。この建物の下の」

「そうね、無理もないわ。私も実際に見るまでは信じられなかった。この下にあるものは、おそらくあなたの想像をはるかに超えたものなの」

「どうやらそのようですね」

「今から一緒に降りてみましょう。その前にどういう経緯で父がここを診療所として使うことになったか話しておくわ」

 その初老の紳士は、ひと目見ただけでその持っている物の全てが桁違いであることがわかる、そんな風貌の人物だった。同年代の中では長身といえるその体は過不足のない筋肉をまとい、年齢を重ねいくらか余分な脂肪がついてはいるものの、かつては一点の非をうつ個所のないものだったことが伺い知れる。黒に近い濃いグレーの仕立ての良いスーツは、彼が着ることによってその価値を数倍に高めているようだった。短めの髪は半分ほどが白くなり、それより少し白いものの比率が多い髭が口元を覆っている。血色の良い肌は肉体の持つエネルギーをあらわし、柔らかい表情はいかなる状況下でも揺らがない彼の余裕のようなものを物語っていた。

 様々な誹謗中傷や妨害行為に悩みながらも、独自の理念を崩さずに重い病を抱えた人たちを救うために日々戦っているひとりの医師にとって、その人物との出会いは厚い黒雲の切れ目に奇跡的に垣間見えた青空のようだった。その人物は余命宣告を受けたひとり娘の命を救えたなら、医師に対してどのような報酬をも支払う用意があることを伝え、医師は報酬の大小によって他の患者と区別をするつもりの無いことと、患者本人が自分の治療方針を信じて完全に指示に従うことが条件だと伝えた。半年後、その人物の娘は健康を取り戻し治療を終える。医師には多額の現金が支払われたうえ、今後医師の活動に対して向けられるいかなる妨害も瞬時に消し去られることが約束された。そしてその人物はある特別な場所を医師の活動の場として提供した。医師がその場所について受けた説明はとても抽象的なものであり、暗示に満ちていた。

 《高いところから俯瞰して物を見ろと言う人間がいる。成功した実業家の中には高層階に執務の場や居を構える者も多い。それを否定するつもりはないがそれだけでは不十分なのだ。実際に目に映るものというのはこの世界のごく一部にすぎない。本質的なものを見る為には逆に地底に向けて穴を掘って行くような作業が必要になる。もちろん比喩的な意味でだが。そして深く深く穴を掘り進めながら意識は逆方向に、つまりより高く上へと登って行く。大切なのは心の眼で見るということだ。そして穴を掘る場所も重要になる。この世界には穴を掘るべき場所というものがあるのだ》

 医師は診療活動の拠点をその場所に移した。それ以来その紳士は医師の前に姿を現すことは無かったが、約束された通り医師の活動を妨害するような行為はなりを潜めた。時にはその兆候のようなものが見えはしたが、それはいつもほどなく消え去った。医師は提供された場所で活動を続け、やがて代替医療の世界での第一人者になっていった。
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