ヒンノムの谷

文字数 3,040文字

 やがて、寒さは消え、汗ばみはじめていた。糞の門から城外へとでる。しばらく、ふらふらとさまよい歩くうち、すれ違う人もなくなっていた。
 ひどい悪臭が漂い、いつのまにか、ヒンノムの谷の近くまで来ていたことを知った。樹木が疎らに生えた荒れ地で、エルサレムのゴミのほとんどがここに運ばれ、或いは焼かれ、或いは放置される場所だった。十字架につけられた罪人の遺体が打ち捨てられ、鳥の啄みに任されるのもここだった。
 バラバは疲れ果て、岩に腰をおろした。昨日、散々打ち据えられた傷が、今も痛むことに、ここに来てようやく気づいた。
 ふと、物音がして見上げると、険しい斜面の上、唯一、その一本だけが桃色の花をつけている大木の影に、若い男が立っているのがわかった。男は、バラバに気づいていないようだった。
 手には縄を握っていた。首を吊ろうとしているのだ。
「おい」
 バラバは叫んだ。しかし、そのときにはもう、男は首に縄をかけて、急峻な斜面へと身を投げていた。バラバは走った。
 斜面の高さは、バラバの五人分ほどもある。幾らか緩やかなところを見つけて登っていった。無数の岩石が、手がかり、足がかりとなったが、ときに、それらは脆くもくずれ、土砂と一緒に流れてくるのだった。幾度も落ちかかりながら、なんとか上までたどり着いた。
 しかし、縄を切る刃物を持っていない。とっさに縄に飛びついた。大人二人分の重さがかかっても、枝は大きくしなるばかりで、折れなかった。両足をバタつかせると、やっと、こらえ切れなくなった枝が軋んで、真っ二つになった。
 バラバと男の体は、岩石の散らばる斜面を弾むように落ちていった。土埃がもうもうと立ち込める。その瞬間、バラバの肩に、焼けるような痛みが生じた。呻きながら、地面を転がった。痛みはまもなく消えたが、土埃が喉に入って、激しく咳きこんだ。
 しばらくしてやっと落ち着くと、バラバはよろよろと立ち上がって、男を見下ろした。若く、きれいな男だった。
 突然、視界が赤く染まる。頭から流れた血が、目に入ったことがわかった。バラバは目を擦り、傷口を押さえながら、男の肩を蹴った。
「おい」
 男はぴくりともしなかった。首には蛇のように綱が巻き付いたままで、赤黒い痕が見えていた。
 このときになって、バラバはなぜ、自分がこの男を救おうとしたのかと、不思議に思った。自ら死を選ぼうとする弱い人間のことなど放っておけばよかった。なぜ、とっさに救おうとしたのか。
 生温い血が、指の間からぽたぽたとこぼれ落ち、乾いた地面を濡らした。
「くそ」
 お陰で、この有り様だと、バラバは腹を立てた。あの高さから落ちれば、こうなることはわかっていたはずだ。或いは、死んでいたかもしれない。
「おい」
 もう一度、蹴ったが、男は身じろぎ一つしない。縄に体重がかかってから、バラバが上にたどり着くまでにだいぶ時間が要ったから、死んでしまったのかもしれなかった。
 嫌な気分だった。救おうとなどせず、さっさとこの場を離れるべきだった。
 ふいに回転するような目眩を覚え、バラバは片膝をついた。そのとき、城内のほうから、どよめきのようなものが聞こえた気がした。
 茨の冠を被らされた痩せたラビが、よろめきながら十字架を担いで歩く姿が、ぼんやりと目に映っていた。再び、激しい目眩に襲われ、バラバはもう片方の膝もつくと、両手で頭を押さえた。
 なんだ、これは。
 ラビの周囲を大勢が取り巻いて、囃し立てている。罵るものもいれば、苦しそうな顔をしたものもいる。泣いているものも。ラビがついに倒れると、ローマの兵士が小突いて急き立てた。
 次第に、その光景はありありとバラバの眼前に広がった。群衆の声が、耳を圧した。
 バラバは息を飲んだ。
 目と鼻の先に、ナザレのイエスがいた。群衆の人いきれも、体臭も感じた。幾人もがぶつかってきて、バラバはよろめいた。
 いつからか、確かにそこにいるのだった。
「ユダヤの王が通るぞ」
 誰かが嘲るように叫んだ。そこかしこで笑声があがった。
「道を開けろ」
 ナザレのイエスは頭から血を流し、服の背にも幾筋も細い血が滲んでいた。鞭を打たれた痕なのだ。
 兵士に追い立てられるままに、ナザレのイエスは一歩、一歩と進んでいく。血と混じった汗が、顎髭の先から滴り落ちる。
 サドカイ派の連中が、満足そうに眺めている。パリサイ派の連中もいた。幾人かの女は泣いていて、苦しそうに目を伏せる男たちもいた。罵り、唾を吐きかけようとするものたちもいる。一番多いのは、祭りの余興を楽しむように、笑いながらついて歩く連中である。
「可哀想に、弟子に裏切られたとさ」
 見物人が話していた。
「偽預言者を早々に見限ったか。奴の弟子にも賢しいものがいたのだな」
「イスカリオテのユダという商人が、銀貨三十枚で売ったらしい」
「さすがは商人。如才ない」
 笑声が起こる。
 ラビの歩いていく通りには、様々な感情が錯綜していた。嘲りと、哀れみと、悲しみと、苦しみと、笑いと、怒りと、侮りと。
 イエスが足を止め、肩で息をした。
「おい、ここで休まれたら、迷惑だ」
 男が怒鳴って、イエスの肩を突いた。バラバも顔を知っている靴を作ることを生業にしている男だった。
「すぐに、十字架の上で、のんびりと休めるじゃないか。こんなところで、道草することもあるまい」
 まわりで聞いていた人々が笑うと、男は調子に乗って、イエスを蹴る真似さえした。イエスは憐れむような目で、男のことをじっと見つめた。
 バラバは、イエスのあとについて歩いた。囃し立てながらゆく連中のなかを泳ぐようにして。頭からは血が流れて止まらなかった。時折、目が霞んだ。
 なんとか歩き続けていたイエスが、ついに倒れて動かなくなる。兵士たちが殴りつけるが、喘ぐように息をするばかりだった。そばにいると、その苦しげな息遣いが、はっきりと耳に届くのだった。
 このイエスという男は、ここまでされるほどの、いったいなにをしたのか。バラバにはわからなかった。バラバには、ガリラヤ湖の畔で話していたときの穏やかな印象しかなかった。
 一人の女が駆け寄って、イエスの前に膝をついた。気づいて、イエスは、わずかに顔をあげた。埃と血と汗に汚れ、美しさの欠片すらもない顔だった。女は涙をこぼしながら、被っていたベールをとると、イエスの血と混じり合った汗をそっと拭った。
「女、余計なことをするな」
 兵士が、女を群衆の中へと引き戻した。群衆はたちまち、それを飲みこんだ。
「おい、お前が担いでやれ」
 兵士は女の代わりに、群衆のなかから、一人の男を引き出す。黒い肌の男で、背は小さいが、逞しい身体をしていた。男は戸惑っていたが、強く促されると、イエスの十字架を背負った。
 男は憐憫の目で、イエスを見つめた。やがて、イエスはよろめきながら立ち上がり、男の隣を十字架の半分を担いで歩きだした。
 バラバは、イエスのすぐ後ろを歩きながら、どうして立ち上がったのかと心の中で、まるで罵るように言った。兵士に殴られようと、蹴られようと、そのまま寝ていたほうが楽だったろう。その場で殺されてしまったほうが、どんなに楽だったかしれない。それなのに、どうして立ちあがったのか。どうして、歩くのか。
 バラバもまた、重い足を引きずって、どうしてかイエスの後をついていった。
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