バラバを

文字数 4,276文字

 かすかに差し込んでくる光のなかに、埃が舞っていた。外から大勢の声が聞こえてくる。それは荒々しさを感じさせる声音だった。
 男の胸に、期待が疼いた。種無しパンの祝いに集まった人々が、圧制者の横暴に対し、ついに拳を振り上げたのかもしれない。
 男は幾度も殴られて傷んだ身体をわずかに動かすと、牢獄の岩壁に沿うようにして立ちあがった。人々がなにを叫んでいるのか、耳をそばだてるが、声は激しい雨音のようで、言葉としては聞き取れないのだった。
 いつのまにか、牢番が二人、男の前に立っていた。
「出ろ」
 鍵を開けて、身体の大きなほうの獄吏が怒鳴った。昨夜、男を幾度も壁に叩きつけた獄吏だった。男は、そのときの痛みを思い出し、身体を固くしながら睨んだ。
「さっさとしろ」
 引きずり出され、小突かれながら暗い廊下を歩いていった。
 人々の声が、次第に大きくなる。男は必死に、その声を聞こうとする。なにを言っている。彼らは何を興奮している。勝利したのだろうか。総督のピラトを倒し、牢に入れられている人々を解放するようにと要求したのかもしれない。しかし、並んでいる牢の奥から、歩いていく男を窺う目は幾つもある。どうして、自分だけが。
 石段を上がり、重い扉を潜って、しばらく歩くと外に出た。光が、男の目を射た。ピラトが官邸としている城塞の庭だった。漸く、人々の声は、言葉となって耳に届いた。これまで幾度も命の取り合いをしてきた男が、思わず足をすくめるほど苛烈な言葉が吹き荒れていた。
「十字架につけろ」
「その男を殺せ」
「カエサルに反逆するものを、総督は許すのか」
「神の冒涜者を殺せ」
 耳を圧する人々の声が、雷鳴のように迫ってくる。三百近い群衆だった。そして、人々の前には、ピラトがいた。
 男は思わず、その白い首を見た。今、シーカの抜き身を握っていたら、人々と兵士とを掻き分けて、斬りかかっていただろう。残虐なユダヤ総督。聖なるエルサレムに軍旗を掲げ、人々が神殿のために収めた金を使いこんで、抗議のために集まった人々を大勢殺した。過ぎ越しの祭りの折、幾人ものガリラヤ人を聖所で殺したことさえあった。
 群衆の前にはもう一人、男の知っている痩せたラビがいる。
 総督ピラトの前に、ラビとならぶようにして、男は置かれた。狂ったように叫ぶ人々が、目と鼻の先にいる。ローマの兵士たちが必死に抑えようとしているが、今にも暴動が起きそうだった。
 これはなんなのだ、と男は思った。圧制者との戦いではないのか。圧制者の手先であるユダヤ総督のピラトは今、明らかに人々の怒りの矛先にはいなかった。
 人々の一部は、男も知った顔だった。熱心党の同志である。しかし、その人々の誰も、男のほうを見ていなかった。痩せたラビを見て、声を荒げ、拳を突き上げている。
「私には、この男に罪を見出すことができない」
 ピラトは叫んだ。怒鳴り声に近かった。そうしないと、興奮した人々に届かないのだ。
「十字架につけるなら、この男ではないか。四人を殺した男だ。そのうち、一人は子どもだった。この男を処刑すべきではないのか」
 ピラトの指が、男を指した。
 しかし、群衆の声は揺らぎもしない。ピラトの言葉など、まるで大樹に吹きつけるそよ風のようだった。
「では、もう一度、聞こう。過越の祭の慣習に従い、私は囚人の一人を釈放しようと思う。釈放すべきは、ユダヤ人の王だというこの痩せた男か、それとも、四人を殺したこの男か」
 群衆は叫んだ。
「バラバを」
「バラバを」
「バラバを」
 ピラトが苦渋に満ちた顔で顎を動かすと、兵士が人々の中へとバラバを押しだした。人々のうちの幾人かが、バラバの身体に触れたが、それきりだった。群衆の関心は、バラバになど無いのだった。
「それでは、このラビはどうする? お前たちの王は?」
 群衆は叫んだ。
「十字架につけろ」
「我々の王は皇帝だけだ」
 ピラトは苦笑した。普段、民衆の誰一人として、皇帝こそが我々の王などと言っていないことをわかっているからだった。
「この者に、死罪に値するような罪は見つからなかったぞ。それでも、十字架につけろと言うのか」
 十字架につけろという人々の叫びはやまなかった。ピラトは、兵士に水の入った桶を持ってこさせると、手を洗いながら叫んだ。
「いいか。この男の血について、私には責任がない」
 それから、怒鳴るように兵士らに命じた。
「ユダヤ人の王を、十字架につけよ」
 このとき、バラバははじめて、ラビと目が合った。確か、ナザレのイエスといった。ガリラヤ湖畔の丘で見たことがある。彼の話を聞こうと、大勢が集まっていて、バラバも興味を引かれたのだった。
 そこに、一人の女もいた。人々の輪の一番外で話を聞いていたバラバは、灌木に隠れて、一生懸命に耳を傾けている女に気づいたのだった。
 バラバは、その女をよく知っていた。幼い頃、おなじ村で、隣に住んでいた女だった。ときどき、いちじくの菓子をくれる、優しくて美しい女だった。
 あるとき、悪霊に憑かれ、女の美しい顔は醜く崩れた。手足の指は欠け、まもなく、村から追い出されていった。バラバは悲しい気持ちで、村から離れていく、その女の後ろ姿を見送ったのだった。
 村人たちは口々に言った。あの女は、神への信仰が薄かったのだ。だから、悪霊になど憑かれたのだ。そして、幼いバラバにも言った。ああいう連中には、決して触れてはいけない。触れれば、おなじように悪霊に憑かれるからと。
 女は、人の滅多に近づくことのない谷の洞窟で、髪を剃り、人では無いもののように、欠けた手足で地面を這い、暮らしていると聞いた。
 女は今、日の照るガリラヤ湖の畔で、必死になって耳を傾けている。バラバもまた、女を気にかけながらも、このラビの説教に惹きつけられていた。
 これまで、幾人ものラビの話を聞いたが、そのような説教を一度として聞いたことが無かったからだ。
 このラビは、人々にこう語りかけていた。

 心の貧しい人々は、幸いである。天の国は、その人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。

 バラバもこのとき、間違いなく、心の貧しいものだった。常に、胸のうちには鬱々としたものがあった。
 ユダヤの王であるはずのヘロデ・アンティパスは、まるで犬のように圧制者であるローマに尻尾を振っていた。大祭司であるカイアファも同様で、ピラトに人々が収めてきた神殿の金を使われても知らぬふりなのだった。異邦人たちが、我が物顔で振る舞っていた。そうして、連中に媚態を示す人間ばかりが潤っていた。
 もし、あのラビの言うことが本当なのだとしたらと、バラバは思った。天の国が、心の貧しいもののためにあるのだとしたら。もし、悲しむ人たちが、そこで慰められるのだとしたら。
 聴衆の一人が、女のすすり泣きに気づき、悲鳴をあげた。不浄なものが近くにいることを知った若い女だった。近くにいた人々は、飛ぶ鳥のように女から遠ざかった。
 ただ、一人だけが、その女に近づいていく。あのラビだった。
 女は指の欠けた手で、抵抗するように鈴を鳴らした。人々が不浄な自分に近づかないようにと、悪霊に憑かれた人々が鳴らす鈴だった。ラビは構わずに近づいていく。女はほとんど怯えるように鈴を振っていた。その肩が大きく揺れている。恐れのあまり、泣いているのだった。
 ラビは、女の前に膝をつくと、女の肩を抱いた。
「あなたまで汚れてしまいます。私は汚れたものです」
 女は泣きながら言った。
「以前のように愛をもって暮らしなさい。あなたの信仰が、あなたを救ったのだ」
 人々からは、どよめきが起こった。
 女の顔が、無論バラバが齢を重ねたとおなじだけ皺を刻んではいたが、以前のように美しいものに戻っていた。女はその美しい顔で、涙を流しながら、五指のある両手をいつまでも眺めるのだった。
「くだらねえ」
 隣にいたおなじ熱心党員が吐き捨てた。
「奇術に決まっている」
「奇術?」
「知らないか。サマリアには、それで稼いでいるシモンという男がいるらしい」
 男は、バラバの背を叩いて促した。
「行こう」
 バラバは離れ難く、言った。
「しかし、もし、あの男が本当にメシアだったら」
「俺は昨日も、たまたま、奴の話を聞いた。なんと言っていたと思う。敵を愛せと。右の頬を打たれたら、左の頬を出せ。下着をとられたら、上着もくれてやれと。お前も知っているだろう。メシアは、ダビデのように強い男のはずだ。あんな弱い男ではない。さあ、行こう」
「本当にそんなことを言ったのか」
「ああ、そうだ」
 強く促され、バラバは幾度もふり返りながら、丘を降りていった。
 群衆の興奮が一際、大きくなった。ナザレのイエスは、十字架を担がされようとしていた。これから、自身が殺されるための十字架を運ぶのだ。
 バラバは人々の興奮に押し出されるように、ピラトの官邸をでた。入口のところにいた小さな男に尋ねた。
「あいつは何をしたのだ」
 興奮に酔った男は、訊かれたことに気づかなかった。バラバは肩を揺すって、重ねてきいた。
「あいつは何をしたのだ」
「神殿を壊し、三日で立て直すと言ったらしい」
「それだけか」
「知らんよ」
 男は怒ったように、バラバの手を払った。
 ひどく寒い。気温のせいではないはずだった。他に寒そうにしている者は誰もいないのだ。いつまでも、そこに留まっていたくはなかった。とにかく、遠くへ去りたかった。あのラビを、これ以上見たくはなかった。熱心党の仲間のもとに行こうと歩きだしたが、小石を踏んで、前のめりになった。
 そのとき、官邸を出てきた群衆に押し流されそうになり、逃れるために別の道をとった。神殿の西の道を、南へと進んだ。途中からは走っていた。過ぎ越しの祭りのために集まった十万以上の人々で、道はごった返していた。バラバは、人々をかき分けていった。
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