サタン

文字数 1,962文字

 首に縄を巻き付けたままの男が、地面に倒れている。そのそばには、ひどく土に汚れた服を着た男が立っていた。首筋や、手首は異常に青白く、右手には、シーカの抜き身をぶら下げている。
「死んだ男に何をする」
 バラバはつい口にした。
 その瞬間、匂いが変わった。ゴルゴダの丘の埃臭さは消え、湿り気を帯びた、ゴミと遺体を捨てるヒンノムの谷の独特の臭気が、そこにはあった。
「いつからそこにいる」
 汚れた服の男は、ふり返りもせずに言った。いきなり背後から声をかけられたと言うのに、落ち着き払った声だった。
「いつからでもいい」
 バラバの声には動揺がある。自身、いつからここにいるのか、わからないのだ。眠っている間に運ばれたように、いつのまにか移って来ている。夢を見ているのかもしれないと思った。夢のなかで、これは夢かもしれないと思うような夢を、以前にも見たことがあったから。
「邪魔をするなら、お前も殺すぞ」
「お前も?」
 バラバは、地に伏している若い男を見た。かすかに胸が上下している。まだ、生きていたのだ。
「どうして殺す」
「お前には関係ない」
「放っておいても死ぬだろう」
「うるさい」
 バラバのなかのもう一人の自分が毒づく。愚かなことはするな。関わるな。危なそうなやつだ。黙って立ち去ったほうがいい。自殺しようとした男のことなど、どうでもいい。どうせ、もう、死にかけている。
「目当てはなんだ」
「黙れ」
 男は勃然とふり返った。その顔は死人のように青白いのだった。そうして、目には白目がなく、黒い二つの虚があった。口は裂けたように大きく、かすかに覗く舌先は二つに割れていた。
「サタン……」
 バラバは恐怖のあまり後ずさった。
 男は、シーカを振り上げると、ふたたび身体の向きを変えて、膝を突きながら、若い男の胸へと突き刺した。硬い音がし、剣先が弾かれたのが、バラバにもわかった。
「おのれ、神め」
 男は肩を震わしながら、天を仰いで咆哮した。
「一人子を殺し、満ちる寸前の器を干しただけでは飽き足らず、守り手まで置いたか。だが、同じ手は二度と通用せんぞ。人の子の血を絶やし、次こそは必ず、器を溢れさせてみせよう。簡単なことだ。貴様の創造した人間というやつらは、堕落せずにはいられぬ存在なのだからな。楽しみに待っているがいい」
 男は呵々と笑うと、バラバにむかって、シーカを持ちあげた。血を失いすぎたことと、男への恐怖とで、バラバの足は釘付けにされたように動かなかった。
 シーカが振り降ろされる。だが、それが、バラバに落ちてくることはなかった。シーカは、男自身の首を裂いていた。血が噴きあがる。それでも、男は動きを止めず、自身の腹にもシーカを突き刺し、横にひいた。男の身体が、前のめりに倒れる。
 バラバは呆然とし、しばらくの間、動けなかった。やっとのことで、身をよじると、男の死体を避けて、若い男のもとまで行った。つんのめるように膝をつく。
「おい」
 首から縄を外してやり、幾度も揺さぶったが、若い男は気づかない。バラバは悩んだ末、若い男の身体を、イエスが十字架を負ったように肩に乗せた。ふらつく身体では支えるのがやっとだった。
 血まみれのシーカを拾い、腰紐に吊るす。再び襲われたときには役に立つかもしれない。なんとか、最初の一歩を踏みだす。それから、次の一歩を。そして、這うように歩きだした。
 懸命に歩を進めながら、俺は何をしているのだとくり返し自問した。自殺しようとした男のことなど、どうでもいいではないか。サタンの仲間が、今にもまた、襲ってくるかもしれないというのに。
 なぜ、サタンは、この男を殺そうとしたのか。サタンが天を仰いで叫んだ言葉の意味はなんなのか。
 そして、俺はどうしてしまったのか。ついさっきまで、ゴルゴダにいたはずの俺が、どうしてヒンノムにいるのか。
 頭がおかしくなりそうだった。背負っている男を捨てて、熱心党の仲間のもとへ帰り、一日、死んだように眠りたかった。
 しかし、なにかに突き動かされるように、バラバは、男を離さなかった。
 十字架で死んだイエスの姿が脳裏に浮かんだ。あれは俺だ、とバラバは思った。今、十字架の上で死んでいるのは、俺だ。
 ピラトの官邸の庭で、群衆がバラバをと叫んだとき、バラバを見つめたあのイエスの目。あれは恨みでも、妬みでも、羨望でも無かった。まるで、母親が、悪い夢から目覚めた子どもを慰めるような。
 岩に足をとられ、バラバは一スタディオンも行かぬうちに転倒した。目の前は真っ暗で、鼓動がうるさいほどだった。
 あのラビは、この若い男よりもずっと重い十字架を背負わされて歩いた。そう思いながら、バラバは這って進んだが、ついには力尽き、気を失った。
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