ゴルゴダ

文字数 2,665文字

 いつの間にか、天は暗くなっていた。強い風が吹き、バラバはふらつく身体を低くしていた。頭の傷から流れる血は、まだ止まらなかった。
「おい。お前が本当にメシアなら、自分で自分を救い、俺達のことも救ってみせたらどうだ」
 今にも泣きそうな声で、左の十字架につけられた中年の男が叫ぶ。その声は風に千切れ、強くなったり弱くなったりした。
 ゴルゴダの丘には今、三つの十字架が立てられ、真ん中にはナザレのイエスが、その両側には強盗、殺人の罪を犯したものが、つけられていた。本当なら真ん中には、あのラビではなく、自分がつけられていたのかもしれないと思うと、バラバは胃の腑が重苦しくなるのを覚えた。
 ついさっきまで、真夏のような太陽が、高々と掲げられた十字架をかっと照らしていた。それが、厚い雲に隠され、今はどこにあるのかさえ、わからない。
 石畳を歩くとき、汗で濡れていたイエス身体は、すっかり乾いている。もう汗さえも流れないのだ。
 イエスの十字架の頭上には、罪状を書いた板が打ちつけられていたが、そこには、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」とあった。
 十字架の足もとで、女たちが泣いている。老いた女は、イエスの母親かもしれない。ナザレのイエスには、大勢弟子がいたはずだが、それらしい人物はほとんど見当たらなかった。
「黙れ」
 逆側の十字架にいる若い男が叫んだ。
「お前は、神を恐れないのか。俺達は当然だ。ただ、自分のしたことにふさわしい罰を受けているのだからな。しかし、この方は、何も悪いことをしていないのだぞ」
 それから、若い男は、項垂れたイエスの顔を覗き込むようにして言った。
「主よ、どうか御国においでになるときには、私を思いだしてください」
 この若い男は、どこかでイエスの説教を聞いたことがあったのかもしれない。イエスは苦しそうな声で答えた。
「言っておこう。今日、やがて時が満ちるとき、あなたは、私と共に楽園にいる」
 ピラトの官邸の庭で会ってから、バラバははじめて、イエスの声を聞いた。いつか、ガリラヤ湖の畔で聞いたのとおなじ柔らかな声だった。
「なにが楽園だ」
 処刑を見物していた、豪奢な服を着たサンヘドリンの男が叫んだ。
「神殿を倒し、三日で建てる者よ。神の子なら、自分を救ったらどうだ。さあ、十字架から降りて来い」
「他人は救ったのに、自分は救えない。なんとも情けないイスラエルの王だ」
「神の子ならば、すぐにでも救ってもらえるはずだがな」
 嘲笑がそこかしこで起こった。
 ふいに、イエスが叫んだ。悲痛な声だった。
「わが神、わが神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 バラバは身震いしながら、それを聞いた。それが、ダビデ王の言葉だと知っていたからだ。そして、王の言葉は、次のように続くのだ。

 王権は主にあり、主は国々を治められます。
 命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
 わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。

 なぜ、見捨てたのかという、恨み言のような言葉は、神への賛美と一体なのだった。続けて、イエスが「終わった」とつぶやくと、その首はがくりと垂れた。命が尽きたのだということが、バラバにもわかった。十字架に縋っていた女たちが、一際、高く泣いた。
 そのときである。ベヒーモスが唸るような音が辺りに満ち、地面が身震いするように震えたかと思うと、次第に、とても立っていられないほどの激しい揺れとなった。怯えた声を漏らしながら、見物人たちが地に伏せる。バラバもそうした。地面に亀裂が走り、それが神殿の方角へと走っていった。城壁のそばにあった巨大な岩が、亀裂に呑まれて真っ二つになる。
 揺れは、しばらく収まらなかった。人々の顔が、恐れに支配されはじめ、次第に青白くなっていく。
 やっとのことで、揺れが収まると、見物人の大半が逃げるように帰っていった。その多くは、来たときとは全く違う顔をしていた。サドカイ派も、パリサイ派も、そうだった。幾度も十字架をふり返りながら、足早に去っていく人々の顔には、恐怖の色があった。
 彼らと入れ替わりに、数人の兵士たちがやってきた。隊長の命で、イエスの両隣の罪人の脛が、ハンマーで叩き折られる。そうすることによって、身体を支えることが出来なくし、窒息させるのである。明日は安息日で、罪人を十字架につけたままにはしておけないから、死期を早めたのだろう。
 兵士は、イエスの脛も折ろうとしたが、十字架の下の老いた女が言った。
「もう死んでいます」
「確認しなくてはな」
 隊長が顎をしゃくって、槍を持った兵士が進みでる。顔に、深い皺を刻んだ男だった。
「獅子と呼ばれた男が、かつての部下に顎で使われるとは可哀想に」
 バラバの背後で、老人が言っていた。
 兵士は、イエスの脇を刺そうとするが、なかなか槍先が定まらなかった。
「ここだ」
 隊長に槍を支えられて、やっと刺した。イエスはぴくりともせず、その傷口からは血と水とが流れた。
 老いた兵卒はしきりに頭をふり、目をこすった。
「ロンギヌス、何をしている」
「申し訳ございません。目に血が」
 若い隊長は軽蔑するように兵卒を眺め、踵を返していった。
 老兵は、そのあとについていこうともせず、ただ、ぼんやりと、いつまでも十字架の上に目をやっていた。
 しゃがんだきりでいたバラバは、そのときになって、やっと立ちあがった。すぐそばにイエスの十字架があり、縦木は血で濡れていた。目を背けると、バラバは丘をゆっくりと下りはじめた。なぜ、自分は、この男を追ってきたのか。ひょっとしたら、自身こそが、十字架を背負ってここに来るはずだったからなのか。
 あの男は、本当にメシアだったのだろうか。メシアだったから、最後の瞬間、神の怒りによって、地があんなにも激しく揺れたのだろうか。そんなはずはなかった。もし、本当にメシアなら、あれほど簡単に死ぬはずがない。見物人が囃し立てたように、自分で自分を救うこともできたはずだ。
 ヒンノムの谷の近くで、首を吊ろうとした男のことを、バラバは思いだした。あの男はどうしただろう。やっぱり、死んでしまったか。その瞬間、バラバは再度目眩を覚えた。
 また、だ。
 再び、バラバの眼前には、ここではない場所の光景が映っていた。
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