第6話 李宝の密計
文字数 3,303文字
戦場としては適度に広く、延岑の全軍を配するにうってつけであり、逆に逄安の大軍を展開できるほどの広大さはない。
「なるほど、言うだけのことはある。だが逄安の陣容は広く展開できないかわりに厚みを増すことになる。その厚さを貫けるほどの
延岑軍の一翼を
李宝の目算では、四分六分、いや三分七分に近い確率で延岑が不利である。
「やはり実行せねばなるまいな」
正面決戦で延岑が勝てればそれに越したことはないが、それが難しいとなれば彼に秘している密計で勝利を得るしかない。
「そうなればなったで、我らが最も利を得ることになるしな」
李宝の密計が成功すれば、逄安が撃ち破られるだけでなく、延岑も大幅に戦力を失うことになるだろう。戦いである以上李宝も無傷というわけにはいかないが、それでも損害は三者の中で最も
このあたり、李宝は延岑に対してさほど罪悪感を覚えていなかった。乱世である以上、最も優先すべきは自身の利であるのは延岑らも変わらないはずである。
「だから延岑よ、まずは自分のために勝ってみせよ」
逄安を自らの力で破ることが李宝の密計を未然に防ぐことになり、それが延岑最大の利益になる。
自分の身はまず自分で守れ。李宝は心中でそう延岑に告げた。
だが延岑は、やはり負けた。
正面から突撃を仕掛け、勢いをもって逄安の軍に相当食い込めたのだが、やはり「厚さ」を突き破ることができなかったのだ。そしてなまじ深くまで食い込んでしまったため、延岑の兵の大半は逄安兵に包み込まれ、圧殺されていった。
「逃げよ! 逃げよ! とにかく逃げよ!」
延岑も、ここまでの危機に迫られるとは考えておらず、組織的な反抗など不可能で、兵におのおのの才覚と武勇で脱出をうながす以外にできることがなかった。そもそも延岑自身が逃げ切れるかわからないほどの大危機である。指揮官自ら剣を左右に振るい、
この突撃に李宝は参加していない。同盟を結び、延岑を主将にしたといっても、もともと違う構造を持つ軍である。無理に行動を共にしても足並みがそろわず、互いの長所を潰し、なにもできないまま敗北してしまう恐れがあった。
それゆえ李宝は予備兵力として後方にあり、延岑が逄安の兵を押し込んだところで、とどめを刺すべく突撃を仕掛ける手はずになっていたのだ。
「そちらが勝とうが負けようが、私が傍観して見殺しにする可能性を考えなかったのだろうか、あの男は」
延岑の豪快さ、あるいは考えのなさに、李宝はあきれる思いだったが、同時に奇妙な魅力を感じてもいた。理屈や理由抜きで男を惚れさせる要素がある男なのだ。これは李宝のように頭が良すぎる男には通じにくい魅力ではあるが、逆に短絡な男たちには有効であろう。そして兵たる男の大多数は、そのような男たちなのである。
「なるほど、これがあの男が何度も再起する理由の一つなのであろうな」
李宝は得心する。
と、その延岑がついに兵を退きはじめた。
これ以上の抗戦は全滅しかないとさすがに自覚したのだろう。だが退却戦こそ最も困難である。それでもなお、と、覚悟を決めたに違いない。
「よし、我らも逃げるぞ。その後は手はずどおりにな」
延岑たちの逃走――すでに潰走に移行しかかっているが――を見た李宝は、部下たちに告げ、同じく敗走を開始した。
だが延岑たちの潰走とは違い、李宝軍のそれは
惨敗であった。
延岑の兵は万余人が戦死し、大半が失われた。
だがそれでもあきらめないのが延岑である。
「可能な限り
延岑は敗残兵を集めるよう部下に指示を出す。どれだけの兵が集まるかわからないが、一定数以上を得られれば、逄安へ雪辱戦を挑めるだろう。仮に継戦不能な人数しか得られなければ、杜陵を捨ててまた新たな根拠地を探さなければならないが、どちらにしても兵は必要なのだ。
そして敗残兵の中には李宝の兵もいて、彼らの主将がどうなったかの情報も持ってきた。
「なんと、李宝が逄安に
延岑は驚き、立腹した。ほとんど戦うことなく逃げ出して降伏するとはどういうつもりなのか。いったい何のための同盟か。
だが同時に延岑は、李宝に予備兵力として残るよう命じ、自兵だけで逄安に挑んで負けたのが自分であることも理解していた。
李宝にしてみれば、何をする間もないままに延岑の潰走に巻き込まれただけで、彼の方こそ自分に文句を言いたいところだろう。
そのような視野を持つあたり、延岑は単純であっても馬鹿ではなかった。
延岑はできるだけ逄安から離れつつ、敗残兵を集めつづける。
逄安の主力は杜陵の一角に陣営を作り、そこで兵を休めているらしいが、延岑への追撃が皆無なわけではない。
だが逄安の目的の第一は杜陵の確保であり、それゆえ延岑追撃は甘いものになった。
それは多くの敗残兵を逃がすことにもつながり、延岑のもとへはかなりの兵が集まってきた。
とはいえ開戦前に比べて大幅に減少していることに変わりはなく、また敗北直後だけに兵の士気は低く、食糧も充分とは言えなかった。
「再戦しても必ず勝てるとは限らぬか」
そんな兵の様子を見て、延岑は深く嘆息する。いかに楽天的な延岑であっても、この状況では簡単に勝機を見いだせない。
「やはり落ち延びねばならぬか…」
このまま
仮に落ち延び先があったとしても、三輔に
延岑は珍しく消沈する思いだった。
そんな延岑のもとへ、思わぬ人物から思わぬ連絡があった。
逄安へ降った李宝である。
「なんだ、降伏を勧めてでも来たのか」
「集めた散卒をもって再度逄安へ攻撃を仕掛けよ。必ずしも勝つ必要はない、しばらく交戦した後に一時後退せよ。私はおぬしが戦っている間に逄安の陣営を占拠する。帰陣した逄安や兵が陣営を失ったことを知れば動揺をまぬがれないであろう。そこへあらためて攻撃を仕掛けるのだ。私も陣営から出撃する。さすれば逄安を
「待て、李宝は逄安に降ったのではないのか。どのような存念でこのようなことを伝えて来る」
使者の言はせかすようであったが、延岑はさすがにいぶかしみ、
その問いに、使者ははっきりと答えた。
「主(李宝)は最初からこのつもりで逄安に
使者の言に、延岑は目をぱちくりとさせた。
「李宝は偽りの降伏をしたというのか」
「はい。主は
使者が言うことを延岑は頭から信じたわけではなく、また万が一と言いながらも李宝が自分が負けると思っていたことに不快さは隠せなかったが、それでも雪辱の機会を逃すことは彼の気質が許さなかった。たとえこれが李宝の罠だったとしても。
「よし、わかった。そういうことならすぐにでも出撃する。おぬしは急ぎ帰陣し、そのこと主に伝えるのだ」
「はっ!」
即断即決は延岑の短所であり長所でもある。今回の決断がどちらに属するものになるかは、結果から判断するしかなかった。