第13話 公孫述との対面
文字数 3,100文字
蜀郡は益州 の中心である。この地は天然の要害であり、また温暖さゆえに農業も盛んで、その他の産業、経済も活発であり、なにより戦乱から隔絶した地域であることが、その豊かさを享受する大きな要因となっていた。
蜀のこの特徴は時代を経ても基本的に変わることがなく、それゆえこの地を拠点に自立する者は歴史上幾人も存在する。
有名なところでは、この時代から約二百年後の三国時代に蜀漢 の劉備 が、さらに後の五胡 十六国 、五代 十国 などの分裂時代にも成漢 ・前蜀 ・後蜀 などの国があり、そしてこの時代のこの時期、この地に盤踞 しているのが公孫述なのであった。
公孫述は名家の出身で、父親は前漢で重職に就 き、彼自身も能吏 として名を馳 せていた。
公孫述の出身地は蜀ではないが、王莽の時代、蜀郡太守の任に就 いており、その縁でこの地を根拠地にしているのである。
彼は劉秀と同じ年に皇帝を自称し即位しており、彼の帝国は歴史上「成家」と呼ばれていた。
成家の名は、蜀 郡の郡治 であり帝都でもある成都 から来ているが、延岑もこの地を訪れたのは初めてだったろう。そして気温も湿度も高く、緑にあふれ、温順で豊饒 な土地柄に驚いたかもしれない。
「話には聞いていたが、これほどとは……」
延岑の故郷である南陽も、三輔を中心とする関中も、豊かであることに変わりはないが、この地に比べると索漠 とした印象を拭 うことはできない。まるで異国である。
「これほどの土地があれば、関中を征することも夢ではないぞ」
戦いの日々を過ごしてきた延岑はごく自然にそのように考え、喜悦しながら公孫述に謁見 した。
「よく来てくれた。おぬしが十万の赤眉 を撃破した延叔牙 か。おぬしのような名将が我が王朝へ帰順してくれるとは、朕 (皇帝の一人称)も心から嬉しく、頼もしく思うぞ」
「は……」
延岑は柄にもなく上がっていた。
なにしろ彼はこれまで貴人とほとんど会ったことがなかったのだ。
更始帝 は皇帝といっても完全な庶民出身で、しかも天子 (皇帝の別称)らしさはかけらもない傀儡 帝である。強いていえば劉嘉 が最もそれらしかったかもしれないが、あの男も為人 が穏 やかというだけで、出自は更始帝と大差ない。
だが公孫述は違った。皇族というわけではないが、父は郡の高官になるほどの男であり、公孫述自身も蜀郡太守 (蜀郡長官)の重職を務めた経験がある。そのせいか生まれながらにして他人に尊崇 され、人の上に立つのを自然なこととして育ってきており、それゆえのおおらかさと気品とが、至尊の地位にあって不自然さを感じさせていなかったのだ。
「皇帝らしい男だ」
というのが延岑の公孫述に対する第一印象でもあった。延岑の――あるいは一般に想起される皇帝の印象 と合致する雰囲気を持っているのが公孫述なのである。
庶民が皇帝の前に立てば緊張するのは当たり前で、そして延岑は、まごうことなき庶民上がりだった。
「おぬしの話をいろいろ聞きたいとは思うのだが、朕も多忙でな。だがおぬしが我が国へ来てくれると聞き、すでに用意しているものがある。まずそれだけは受け取ってくれ」
自分に対して今の延岑のような反応をする者には慣れているのだろう。公孫述は気にとめた風もなく近侍 に目配せすると、延岑の前に二つの印綬 を示した。
「これは……」
「おぬしを大司馬 に任じ、汝寧王 に封じる。これはその印 だ」
延岑は雷神に撃たれたような衝撃を受けた。負の衝撃ではなくその逆である。
大司馬とは、いわば国防長官で、その国の軍事部門最高責任者にあたり、大司徒 ・大司空 と並ぶ最高位・三公 の一つでもあった。
さらに汝寧王への冊封 である。
延岑は武安王 を自称するほど立身出世に関心があった。
だが武安王はどこまでいっても自称であり、極端なところ、市井 の庶民が勝手に王を名乗っているのと変わりはない。
またここまでの敗勢を思えば、延岑とて自身の王号 が虚 しいものであると自覚せざるを得ず、ここのところはほとんど自称してもいなかったのだ。
だが今回は違う。
一地方政権とはいえ、皇帝から正式に賜与 された正式な王位である。
公孫述の帝位も自称ではあるが、延岑とは格も実力も違う。
一大勢力として中華全土に一目 も二目も置かれている「皇帝」なのだ。
「武安王」とは格も実も別物である。
「感謝いたします、陛下」
まさか敗残の身である自分がここまで厚遇されるとは。
低頭したままの延岑は、これまでにない強い歓 びに打ち震えた。それは他者から自分の人生を認められたような喜びも含まれていたかもしれない。
そんな延岑に鷹揚 にうなずくと、公孫述は退室した。
さて、だが、公孫述が純粋に延岑の能力を高く評価し厚遇したかと言えば、そこまで単純な美談で片づけられない事情もあった。
延岑が歴戦で、将としても一定以上の能力を持ち合わせていることは確かだが、いきなり一国の軍事部門のすべてを任せられるほどかといえば、それほどではなかった。
それなのになぜ、といえば、実は公孫述の臣下には、特筆するほど有能な将軍がいなかったのだ。
もちろん無能というわけではないのだが、いささか小粒な者が多く、なにより中原(中華の中心地域)における実戦経験の乏しさが公孫述を不安にさせる。
守りやすくも攻め上がりにくい蜀という地にはこのような弊害もあるのだ。
これではたとえ才能ある将がいたとしても、実力をあらわすことも実績を示すことも難しく、畢竟 、主君から絶対の信頼を得ることも難しくなってしまう。
そんな彼らに比べ、延岑には実力にともなう実績があり、中でも逄安 率いる十余万の赤眉軍を撃滅せしめた戦績は、大きな輝きをもって認知されていた。寡 をもって衆を討つ(少数で多数に勝つ)、あるいは弱が強を撃破する華々しい勝利は、実力以上の印象を他者に与えるものなのだ。
また、蜀郡と同じ益州に属する漢中郡を本拠地とし、三輔 を暴れまわった延岑の評判は、公孫述たち成家の人間の耳に入りやすい。
つまり成家での延岑は、自分が思っているほどの評価を受けていたわけではないが、それでも充分に評価され期待されている、という立ち位置で歓迎されていたのだ。
だがこれは、ある意味お互い様と言えたかもしれない。
これほどの厚遇に対し延岑も真実感謝と感激を覚えていたのだが、公孫述に心服してはいなかったのだから。
これは「心服できなかった」という方がより正確かもしれない。
延岑自身無自覚ながら、彼の心魂 は自らの力で立つことを希求していた。
要するに誰かの下につくことそれ自体が嫌なのである。
今の自分の状況ではそれも仕方ないとあきらめ納得もしているのだが、心の底にわだかまる本能的な不本意さはどうしようもなかった。
延岑が公孫述に心服しきれない理由はそれだけではない。
これは互いの生い立ちと気質に原因があった。
公孫述は教養があり上層階級で生まれ育ってきた。その彼から見て延岑は粗野に過ぎた。
あからさまに見下すことはないがそれでも公孫述の本質的な部分が、文化の香りのしない延岑を自分とは違う異質な男と感じてしまうところはあったろう。公孫述のそのような感情を、延岑も無意識に感じ取っていたのかもしれない。
また延岑自身も、悪感情からではないにしても公孫述を別世界の存在として感じていたかもしれず、二人は人種として心から交感しあえる間柄ではなかったのだ。
だがこれはどちらも無自覚であったり、自覚があっても薄いものであったため、二人とも表面的には何の問題もなく、君臣として相応の厚い信頼をもってこれからの難局に立ち向かってゆくことになったのである。
蜀のこの特徴は時代を経ても基本的に変わることがなく、それゆえこの地を拠点に自立する者は歴史上幾人も存在する。
有名なところでは、この時代から約二百年後の三国時代に
公孫述は名家の出身で、父親は前漢で重職に
公孫述の出身地は蜀ではないが、王莽の時代、蜀郡太守の任に
彼は劉秀と同じ年に皇帝を自称し即位しており、彼の帝国は歴史上「成家」と呼ばれていた。
成家の名は、
「話には聞いていたが、これほどとは……」
延岑の故郷である南陽も、三輔を中心とする関中も、豊かであることに変わりはないが、この地に比べると
「これほどの土地があれば、関中を征することも夢ではないぞ」
戦いの日々を過ごしてきた延岑はごく自然にそのように考え、喜悦しながら公孫述に
「よく来てくれた。おぬしが十万の
「は……」
延岑は柄にもなく上がっていた。
なにしろ彼はこれまで貴人とほとんど会ったことがなかったのだ。
だが公孫述は違った。皇族というわけではないが、父は郡の高官になるほどの男であり、公孫述自身も蜀郡
「皇帝らしい男だ」
というのが延岑の公孫述に対する第一印象でもあった。延岑の――あるいは一般に想起される皇帝の
庶民が皇帝の前に立てば緊張するのは当たり前で、そして延岑は、まごうことなき庶民上がりだった。
「おぬしの話をいろいろ聞きたいとは思うのだが、朕も多忙でな。だがおぬしが我が国へ来てくれると聞き、すでに用意しているものがある。まずそれだけは受け取ってくれ」
自分に対して今の延岑のような反応をする者には慣れているのだろう。公孫述は気にとめた風もなく
「これは……」
「おぬしを
延岑は雷神に撃たれたような衝撃を受けた。負の衝撃ではなくその逆である。
大司馬とは、いわば国防長官で、その国の軍事部門最高責任者にあたり、
さらに汝寧王への
延岑は
だが武安王はどこまでいっても自称であり、極端なところ、
またここまでの敗勢を思えば、延岑とて自身の
だが今回は違う。
一地方政権とはいえ、皇帝から正式に
公孫述の帝位も自称ではあるが、延岑とは格も実力も違う。
一大勢力として中華全土に
「武安王」とは格も実も別物である。
「感謝いたします、陛下」
まさか敗残の身である自分がここまで厚遇されるとは。
低頭したままの延岑は、これまでにない強い
そんな延岑に
さて、だが、公孫述が純粋に延岑の能力を高く評価し厚遇したかと言えば、そこまで単純な美談で片づけられない事情もあった。
延岑が歴戦で、将としても一定以上の能力を持ち合わせていることは確かだが、いきなり一国の軍事部門のすべてを任せられるほどかといえば、それほどではなかった。
それなのになぜ、といえば、実は公孫述の臣下には、特筆するほど有能な将軍がいなかったのだ。
もちろん無能というわけではないのだが、いささか小粒な者が多く、なにより中原(中華の中心地域)における実戦経験の乏しさが公孫述を不安にさせる。
守りやすくも攻め上がりにくい蜀という地にはこのような弊害もあるのだ。
これではたとえ才能ある将がいたとしても、実力をあらわすことも実績を示すことも難しく、
そんな彼らに比べ、延岑には実力にともなう実績があり、中でも
また、蜀郡と同じ益州に属する漢中郡を本拠地とし、
つまり成家での延岑は、自分が思っているほどの評価を受けていたわけではないが、それでも充分に評価され期待されている、という立ち位置で歓迎されていたのだ。
だがこれは、ある意味お互い様と言えたかもしれない。
これほどの厚遇に対し延岑も真実感謝と感激を覚えていたのだが、公孫述に心服してはいなかったのだから。
これは「心服できなかった」という方がより正確かもしれない。
延岑自身無自覚ながら、彼の
要するに誰かの下につくことそれ自体が嫌なのである。
今の自分の状況ではそれも仕方ないとあきらめ納得もしているのだが、心の底にわだかまる本能的な不本意さはどうしようもなかった。
延岑が公孫述に心服しきれない理由はそれだけではない。
これは互いの生い立ちと気質に原因があった。
公孫述は教養があり上層階級で生まれ育ってきた。その彼から見て延岑は粗野に過ぎた。
あからさまに見下すことはないがそれでも公孫述の本質的な部分が、文化の香りのしない延岑を自分とは違う異質な男と感じてしまうところはあったろう。公孫述のそのような感情を、延岑も無意識に感じ取っていたのかもしれない。
また延岑自身も、悪感情からではないにしても公孫述を別世界の存在として感じていたかもしれず、二人は人種として心から交感しあえる間柄ではなかったのだ。
だがこれはどちらも無自覚であったり、自覚があっても薄いものであったため、二人とも表面的には何の問題もなく、君臣として相応の厚い信頼をもってこれからの難局に立ち向かってゆくことになったのである。