第17話 沈水の戦い

文字数 3,734文字

 だが天下統一を目指す劉秀が、一度の敗北ですべてをあきらめるはずもなかった。
 前回の敗北から二年後の建武八年(西暦32)、劉秀は隗囂(かいごう)を討つための兵を再度(はっ)する。
 公孫述も李育(りいく)田弇(でんえん)の二将を援軍として派遣し、その助力もあって隗囂はなんとかもう一度劉秀軍を押し返すことに成功したが、そこで精根尽き果てたか、翌年(建武九・西暦33)病没する。
 隗囂の死後も彼の息子である隗純(かいじゅん)が後を継いで抵抗を続けるが、それはすでに残党でしかなく、翌年(建武十・西暦34)劉秀に降伏。
 これにより中華における相応の規模をもった群雄は、蜀の公孫述のみとなった。


 李育等を隗囂の援軍に送ったことからも見られるように、公孫述も劉秀に圧迫されるままだったわけではない。
 特に建武九年(西暦33)、田戎(でんじゅう)任満(じんまん)程汎(ていはん)に兵を与え、(なん)郡に駐屯していた劉秀の将・馮駿(ふうしゅん)らを撃破し、南郡の半ばを奪取したことは公孫述たちの意気を大きく上げている。


 この間、延岑の名は史書に出てこない。
 おそらくそのまま漢中郡に駐屯しつづけ、征旅には参加できなかったのだろう。司隷(三輔を含む首都圏)と州境を接する漢中は、防衛線として重要であり、そこに公孫述兵が存在すること自体が劉秀への牽制(けんせい)になるのだ。


 ただこの時期、延岑のものだった大司馬(だいしば)の地位は、田戎(でんじゅう)とともに南郡を攻め取った任満(じんまん)のものとなっている。
 その理由は判然としないが、おそらく実質的な降格だったのではないだろうか。
 延岑は公孫述に帰順後、戦いらしい戦いはほとんど経験しておらず、唯一の戦闘といっていい李通(りつう)との会戦にも敗北している。
 またいくら軍事的地位とはいえ、大司馬ともなれば政治的な視野や思考も必要となり、さすがに延岑の気質や能力にはそぐわない職と公孫述達も考え直したのかもしれない。
 漢中を任せるほどの将を無位無官のままで置いておくとは考えにくいので、公孫述からなにがしかの官職を与えられてはいただろうが、それがなにかはわからない。
 それでも延岑は、この処置の後も公孫述へ叛意は見せてはいない。
 不満はあったかもしれないが、もう公孫述に逆らっても亡命する先がないという事情もあろうし、史書になくとも延岑も納得する官位を授けられたのかもしれず、なにより汝寧(じょねい)王の爵位を剥奪されたとの記録はなく、そのことが彼の不満を減じさせる一因だったのは間違いないだろう。


 だが隗囂(かいごう)が滅亡したことにより、公孫述陣営の危機が最大限に高まったことに変わりはない。
 隗純(かいじゅん)降伏の翌年(建武十一・西暦35)、劉秀軍による益州(蜀郡も所属する公孫述支配下の州)への大侵攻が、ついに始まったのだ。


 まず三月閏月、岑彭(しんほう)による(なん)郡攻撃が開始され、荊門(けいもん)()る田戎、任満等を大破。南郡を取り戻すと他の城邑(じょうゆう)も次々に降伏し、その勢いのまま益州へ侵入。長躯して犍為(けんい)郡の武揚(ぶよう)県まで進出。
 田戎は西へ逃走し、江州(こうしゅう)県((えき)()郡の県。現在の重慶)を拠点に防衛態勢を取る。


 岑彭が東から益州へ侵攻する中、北からも劉秀軍は侵入してくる。
 六月、劉秀の将・来歙(らいきゅう)が、公孫述の将・王元と環安を下弁(涼州武都郡の県)において撃破。
 ただしこの後、来歙は環安の放った刺客により暗殺されてしまう。
 このためか涼州からの劉秀軍侵攻は止まったが、公孫述軍が付け入る隙はどこにもなく、彼らが北へ逆撃を仕掛けることは不可能となった。


 そしてついに、延岑に再戦の機会が(おとず)れた。
 延岑は漢中郡に駐屯し、劉秀軍の南下を牽制していたが、東から劉秀(岑彭)の侵入を受けた以上、もうその意味もなくなった。漢中保持に固執(こしつ)して、背後の益州各地や公孫述の本拠地である蜀を攻め落とされては、本末転倒もいいところである。
 そもそも劉秀軍の侵略が現実となった今、公孫述軍に迎撃兵を遊ばせておく余裕はない。
 おそらくこの時期の延岑には、公孫述から漢中放棄と劉秀軍迎撃の命令がすでに発せられていたはずで、事実、彼はこの年の八月、沈水(ちんすい)という川とその近辺に陣を張っていた。
 その延岑と対決するのは、劉秀の将・臧宮(ぞうきゅう)である。
 臧宮は岑彭とともに益州へ侵入してきた将軍で、この時は岑彭と別行動を取り、涪水(ふすい)を通って平曲をめざしている。
 その途中、広漢(こうかん)県の近くに沈水があるのだ(平曲の場所は不明)。


 このとき延岑に与えられた兵は大軍だったが、臧宮の兵も五万を数え、相応の大兵を(ゆう)していた。
 だがこの五万の兵はほとんどが降伏してきたばかりで心服には程遠い状態だった。
 加えて臧宮軍は食糧も不足しており、敵地ゆえ補給のあてもほとんどない。
 そのため臧宮は撤退も考えるが、降兵ばかりの味方にいつ裏切られるかわかったものではないためそれもままならず、また周囲の群邑も劉秀と公孫述のどちらに(くみ)するかをこの戦いで決めようと静観しており、援軍を期待することもできない。
 このように臧宮は、大軍を(よう)してはいても、手をこまねいていれば自壊してしまいかねない状態にあり、追いつめられているのは攻撃側である彼の方だったのだ。


 延岑が臧宮軍の内情をここまで(くわ)しく知っていたとは思えないが、しかし自軍の有利は確信しており、それは完全な事実であった。
 それゆえ延岑の懸念は臧宮の進退だけであった。この状況では撤退も充分ありえるのだが、それでは延岑が武勲を立てる機会を奪われてしまう。
「攻めて来いよ。逃げるなよ」
 延岑は顔も知らぬ敵将へ不敵に笑ってみせるが、とはいえ臧宮が逃げたら逃げたで自分たちが彼らを背後から討つだけである。伏兵にさえ気をつければ、追撃戦ほど勝ちを得やすい戦いもない。
 ゆえに臧宮がどう動こうと自分の有利は変わらない。どうせなら正面から戦って叩き伏せてやりたいだけである。
 延岑は、まだ到着しない臧宮軍を待ちながら、自らの戦意を抑えることが一番の仕事という状態にあったのだ。


 だが劉秀に引き立てられ、岑彭から別動隊による単独行を任されるだけあって、臧宮は非凡な将だった。
 沈着であり豪胆でありながら、味方すら巻き込む詐術(さじゅつ)をおこなう大胆さも持っており、今回もその大胆さが状況を打開した。
 このとき、劉秀から岑彭への補給に七百匹の馬が運ばれてくると知った臧宮は、制(皇帝の命令)を偽ってそれを横奪し騎兵を増強すると、日中、強行軍で戦場へ接近。夜、多数の旗幟(はたのぼり)を立て大軍を偽装し、まだ薄暗い払暁(ふつぎょう)、山に潜ませた兵に一斉(いっせい)鼓躁(こそう)(太鼓を激しく叩き、大声をあげる)させ、延岑軍へ総攻撃をかけたのだ。


「なんだ!?」
 延岑は臧宮軍の到着はまだしばらく先――それどころか到着もせず撤退する可能性も考えていたため、山をどよもすような激しい(つつみ)の音や怒号にも似た大声に叩き起こされ、他の兵同様幕舎(ばくしゃ)から飛び出した。
 と、薄明(はくめい)の中に見えるおびただしい数の旗幟(はたのぼり)に、すでに臧宮が到着して攻撃をしかけてきたことを知り、仰天する。
「いつの間に!」
 延岑はよくも悪くも戦場そのものでの戦いを得意とする将で、諜報活動や情報戦を軽視している面がある。
 そのため臧宮が手詰まりと見ると、彼への偵察を(おこた)ってしまったのだ。


 その驚きもさめやらぬ中、臧宮軍に騎兵が多数存在するとの報告が届き、延岑をさらに混乱させる。
 中国の気候は大雑把に言って、北は乾燥、南は湿潤である。
 そのため北では騎兵戦や歩兵戦、南では水戦(舟戦)が発達していた。湿地帯が多い南方では騎兵の機動力を活かせる土地が少ないからである。
 またそれだけに北の方が馬を産する土地が多く、南は少なかった。劉秀が補給として岑彭へ軍馬を送っていたのもそれが理由である。
 それゆえ延岑も臧宮軍に馬は少ないと考えていたのだが、実際は予想以上の騎兵が自軍を攻め立てているという。
「まさか漢の援軍まで到着しているのか」
 現状から延岑はそのように「誤解」し、また無理に叩き起こされたばかりのせいか、さらなる誤解が生まれてゆく。
「とすればあの旗幟(はたのぼり)の数も得心がゆく。あれほどの大軍が押し寄せてきたらひとたまりもないぞ」
 臧宮が薄明の払暁(ふつぎょう)に奇襲をおこなったのは、守る兵が最も油断する時刻だからではあるが、同時に延岑や彼の兵にそのような誤断をさせる狙いもあった。
 薄暗い早朝では、敵の正確な数など(はか)りようもない。


 臧宮に仕掛けられた誤解と誤断に延岑は恐震したが、すぐ我に返る。
 彼は将であり、兵を鼓舞し、指揮し、この状況を打開する義務があるのだ。
 が、一瞬とはいえ将である延岑が恐れ震えるほどである。
 兵は延岑以上に恐怖し、そして立ち直ることができなかった。
「ひいいいい!」
 臧宮兵が鼓躁(こそう)する以上の悲鳴が山中に響き渡る。
 延岑が立て直す間もなく、彼の兵は潰乱(かいらん)し、潰走(かいそう)を始めた。


 臧宮は敗走する敵兵を容赦なく撃ち、延岑軍を大破した。
 首を斬られ溺死する者万余人。
 降伏する者も十万を数え、「これがために沈水の流れが(血で赤黒く)濁る」と史書に記されるほどの大勝であった。
 

 だがその敗死者の中に延岑はいない。
 彼は逃げに逃げ、成都(せいと)(成家帝国の首都)へたどり着くことに成功していた。
「おのれ……」
 敗残の泥土(でいど)にまみれた延岑は背後を振り返り、巨大な敗北感とそれを上回る復讐心と敵愾(てきがい)心に燃えながら、成都の門をくぐった。

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