第12話 公孫述への帰順

文字数 1,758文字

 西方へ去った延岑(えんしん)は、再び漢中(かんちゅう)郡へ戻っていた。
 一度追い落とされた地ではあるが、故郷の次に土地勘があり、人脈もあるのは、やはりこの場所なのだ。
 だが大々的に侵略活動をおこなうわけにはいかない。
 今この地を抑えているのは、(しょく)公孫述(こうそんじゅつ)である。正確には彼に派遣された武将・候丹(こうたん)が郡治(郡庁所在地)である南鄭(なんてい)県を中心に支配権を維持している。延岑が漢中で攻略を(かく)しても、候丹の兵に圧殺されてしまうだろう。今の延岑はそれほどに弱体化している。


 また延岑は、まだ南陽を捨てきれてもいなかった。
 延岑が見捨てた後も、秦豊は岑彭の軍に包囲されているが、何が起こるかわからないのが戦場なのだ。秦豊が小さな好機をつかみ、岑彭に勝利する未来もありえないわけではない。
 そうなれば南陽郡はあらためて混沌に陥り、延岑が帰参する機会も得られるかもしれない。
 もちろん今さら秦豊と同盟を結び直すことなどできないだろうが、それでも混乱に乗じて南陽の城や県の一つや二つ手に入れることは可能であるはずだった。そうなればそれらの城を橋頭保(きょうとうほ)として、新たな勢力を築くこともできるだろう。
 延岑とて人の子である。やはり故郷を手中に収めたいという願望はある。
 またそのような情緒的な理由だけではなく、故郷の方が地の利を得やすいという現実的な理由もあった。
 どちらにせよこの時期の延岑は、群盗のような生活をしつつ、南陽と漢中、二つの要地の様子見に徹していた。


 だが事態はやはり、延岑の望み通りにはいかなかった。
 延岑が漢中に逃げ込んでから約一年四か月後の建武五年(西暦29年)六月、籠城に力尽きた秦豊は劉秀に降伏。洛陽で処刑された。
 これにより延岑の南陽帰還はかなわぬこととなった。
「……いたしかたなしか」
 その報を受けた延岑は、しばらくきつく目を閉じたまま天を仰いだあと、半ば絞り出すように、半ば吹っ切るようにつぶやくと、力強く目を見開き、側近たちに告げた。
公孫述(こうそんじゅつ)(くだ)る」
 それは秦豊が敗北した場合に取るべき方針として、以前から決めていたことだった。
 というより、今の延岑にはこれ以外に取れる方針がなかったのだ。
 今、天下の情勢は徐々に固まりつつあった。中小の勢力は淘汰(とうた)され、いくつかの大勢力に統一されつつあったのだ。
 関東から関西を勢力下に収めつつある劉秀、隴西(ろうせい)(中国北西部)の隗囂(かいごう)益州(えきしゅう)(中国南西部)の公孫述。
 このあたりが今の中華における主要勢力と言えるだろう。
 もちろん他にもまだ彼らに降伏、吸収されていない強力な群雄はいるし、今後彼らが劉秀たちを凌駕(りょうが)しないとは限らない。


 だがあくまでも現時点、延岑は生き残るため、中小の群雄と同盟・合流するような余裕はなかった。
 とすれば隗囂か公孫述を頼るしかないが、隴西は漢中から遠すぎる。
 それに漢中は蜀への入り口であり、同時に関中からの侵略に対する重要な緩衝(かんしょう)地帯・防衛線であった。
 現に今、漢中郡の郡治である南鄭を治めているのは、公孫述の武将、候丹である。
 延岑の降伏先として、公孫述はなにかと都合がよかったのだ。


 公孫述に(くだ)ると決めた延岑が直接話をもちかけたのは、南鄭の候丹だろう。
 彼が最も近い場所にいる公孫述の有力な将なのだから、それが自然である。
 その後、延岑がそのまま南鄭にとどまったのか、それとも公孫述のいる蜀へおもむいたのかはわからない。
 延岑は劉嘉の下で漢中に駐屯していた時間も長いので、そのまま南鄭に配属されたかもしれないが、であるなら候丹の指揮下に入ったのだろうか。延岑の気性から言ってそれは難しいかもしれず、かといって(くだ)ってきたばかりで為人(ひととなり)もよくわからない男を即座に首座に置くとも考えにくい。
 まして延岑は劉嘉に(そむ)き、秦豊を見限って(くだ)ってきた男である。そのような人物にいきなり大兵力を与え、漢中のような重要地帯を任せるなど、まずありえないであろう。
 ゆえに延岑は兵権を一時放棄させられたあと、公孫述に会うため、一度蜀へ向かったのではないか。
 延岑も自兵から切り離されることに不満、そして殺害の不安や恐怖もあったかもしれないが、今自分を殺しても公孫述には何の益もない。まして殺すには自分の将才は公孫述にとって惜しすぎる。
 延岑にはその自負と自信があったがゆえに、おとなしく従って蜀を目指した。

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