第20話 三合三勝・中

文字数 3,985文字

 臧宮(ぞうきゅう)殿軍(しんがり)の兵を見捨てたわけではない。
 彼の予想をはるかに越えて、延岑軍の勢いと攻撃力が凄まじかったのだ。
 それゆえ味方を逃がし終えた臧宮が殿軍を救いに行こうとしたときは、もう彼らは延岑に破砕(はさい)され、踏みにじられている最中だった。
 それでも臧宮は彼らを救いに行こうと考えたが、いま延岑軍に突進していっても、その勢いに抗しきれず、殿軍と同じように蹂躙(じゅうりん)されるだけだろう。それほどに今の延岑軍は強勢だった。
「……すまん!」
 将として有能なだけにその結末を予測できてしまう臧宮は、断腸の思いで逃走する自兵を追った。
 こうなれば一刻も早く軍を再編し、延岑を撃破して殿軍の仇を討つ。これしか殿軍の兵たちの犠牲に報いる(すべ)はなかった。


 臧宮は安全圏と思われるところまで後退すると、そこで急ぎ兵の再編を始めた。
 が、それが半ばしか終わらぬところで延岑軍接近の報を受け、愕然とする。
「もう来ただと!? 延岑め、あやつは自分の兵を殺す気か!」
 用兵の常道からいえば、いかに追撃が有効な状況であっても、多少の休憩や軍の再編は必要であるし、行軍の速度も兵に無理をさせるわけにはいかない。それでは戦場にたどり着いたとて、兵が疲弊(ひへい)して使い物にならなくなる。
 延岑の追撃はその無理を兵に強いている。いや、臧宮の感覚からすれば、

に入る範疇(はんちゅう)の行軍だったのだ。


 だが考えようによっては、これは好機ともいえる。
 前述したようにこの異常な追撃は延岑の兵を疲弊(ひへい)させているであろうし、脱落した兵も少なからずいるはずである。
 臧宮の兵も敗北直後で疲労している上に再編も半ばとあっては、必ずしも十全な戦闘がおこなえるとは限らないが、延岑の無茶によって条件はほぼ五分となった。このまま逃げ続けて背後を撃たれる危険を思えば、ここで迎撃する方がまだ勝機がある。
「再編が完了した部隊から前に出よ。ここで延岑を迎え撃つ!」
 臧宮は配下の指揮官たちへ命令を発した。


 臧宮は優れた将であるし、彼の兵も実戦に鍛えられた精鋭だった。
 それゆえ迎撃のための布陣は、不完全でありながら重厚なものになりつつある。
「よし、これならば」
 そのような自軍の姿にひとまずの安堵と新たな戦意を覚えると、臧宮は延岑がやってくる方角へ目を向ける。
 と、その姿は予想以上に早くあらわれ、臧宮を唖然と、そして愕然とさせた。
 延岑軍の数がまったく減っていなかったのだ。臧宮軍の殿軍(しんがり)と戦い、さらに強行軍で脱落した兵がいるはずであったのに。
 もちろんそのような兵が皆無であるはずもない。だが大部分の兵が生き残り、延岑の指揮に振り落とされることなく従っているのも明らかな事実だった。
「なんという……」
 臧宮は恐怖に近い戦慄(せんりつ)を覚えた。
 臧宮は延岑を侮ってはいなかった。だが彼の真価を知ってもいなかったのだ。
 とはいえこれを責めるのは酷であろう。延岑の将としての真価はこのとき初めて顕現(けんげん)し、おそらく延岑本人すら知らなかったのだから。


 だがどちらにしても、臧宮は延岑の突進を受け止め、(はじ)き返さねばならない。
 彼は怖気(おぞけ)を飲み込むと、それを強い戦意に変えて、兵へ命じた。
「我らを救ってくれた殿軍(しんがり)の姿を思い出せ。一時的とはいえ彼らは延岑を止めてみせたではないか。()の兵は突進以外にできることはない。受け止め、前進を止めさえすれば、あとは我らの思うがままぞ。まずは()の軍を止めることのみにすべての力を集約せよ!」
 猛将である延岑の最大の武器をまず封じる。臧宮はそのことのみに全戦力を叩きつけることを兵に命じた。
 

 延岑は快調すぎる自分にわずかに戸惑っていた。
 心身の調子だけでなく、身にまとう空気も、率いる将兵も、すべてが思いのままに、いやそれ以上に動かせる感覚があるのだ。
 悲観的な者であればここで迷信めいた恐れを感じ、自らに制動(ブレーキ)をかけてしまうこともあるだろうが、そこは楽天家の延岑である。
「これだ。これこそがわしなのだ」
 戸惑いを捨てるとみなぎる闘志に喜躍し、待ち構える臧宮軍に自軍を叩きつけるのみである。
 延岑の喜躍が乗り移ったような彼の兵は、満身に陽性の戦意を込めて、臧宮兵に激突した。


 臧宮軍はすでに今日の延岑軍が尋常ではない精強さを持つことを知っている。
 その覚悟があったからこそ、不完全な布陣ながらその突進を一時は押しとどめることができた。
 本来臧宮軍の強さも相当なもので、普段の延岑軍が相手なら、このまま押し返すこともできたかもしれない。
 しかしやはり今日の延岑軍にそれを()すのは不可能だった。
 兵は少しずつ押し戻され、削られてゆく。
「……ッ」
 臧宮の決断は早かった。
 このままでは第一戦の二の舞である。それどころか再編と布陣が完成していない今の自軍では、延岑にすり潰され、全滅すらありえる。
 臧宮は近くにいた副将の一人に鋭く命令を与えた。
「おぬしは再編中の兵を率いて急ぎ後退せよ。近くに川があるのは知っているな。そこに兵を配置・布陣し、迎撃の構えを取れ。わしは延岑を防ぎながらその地をめざす。そこで延岑を迎え撃ち、撃滅する」
 それを聞いた副将は、表情を硬くし蒼ざめた。
 臧宮は「背水の陣」を()こうというのだ。
 戦史的にも有名な布陣だが、これはもともと()むべき戦法である。逃げる場所とてない水辺に布陣することは、兵を精神的に追いつめ、容易に恐慌に(おちい)らせる。その恐怖を戦意に転嫁させ、不利な戦況を逆転することが狙いではあるが、結局は失敗することも多く、いわば一か八かの要素が濃い布陣なのだ。
 それを知るがゆえの副将の表情だったが、彼にしても今の戦況を見れば、そこに賭けるしかないことも理解できる。
「御意にございます。将軍、どうかご無事で」
「当たり前だ。必ずや延岑を討ち果たす」
 副将の言葉にやや不機嫌そうに、しかし力強くうなずくと、臧宮は今度は自分が殿軍(しんがり)を指揮するため、危険な前線へ愛馬を走らせた。副将もそれを見送ることなく、再編中の兵のもとへ向かうと、素早く彼らに命じ、退却を始めた。


 逃げゆく漢兵を遠望した延岑は、(とどろ)くような咆哮(ほうこう)をあげた。
「おのれ逃がすか。前面の敵を急ぎ粉砕せよ。あの逃げる兵を追うのだ!」
 延岑は臧宮兵を一兵たりとも逃がすつもりはなかった。沈水の雪辱を完璧にしたいという思いもあるが、そもそも公孫述陣営に敵に情けをかける余裕などないのだ。可能な限り劉秀軍の兵を減らしておく必要がある。
 それゆえ自らを押しとどめる臧宮軍の前軍――今は殿軍――を破砕するため、延岑軍は圧力を強めた。
 それを受ける臧宮軍はさらに押し込まれてゆくが、今度の殿軍は臧宮が直接指揮を()っている。簡単には崩れなかった。
「長い時間を持ちこたえる必要はない。後退した味方が布陣する時間を稼げればよいのだ。さほどの時はかからぬ。耐えよ! 幾つもの勝利を勝ち取ってきたおぬしらならできる!」
 沈水のときは降伏兵の群れでしかなかった臧宮軍だが、蜀攻略の連戦を()て、今は強力な一体感をかもし出す精兵に生まれ変わっている。その実績が自信となり、相応の実力を発揮する下地となっていた。
 彼らは主将の激励にそのことを思い出し、精気を取り戻すと、喚声とともに再度延岑軍を押しとどめる。
「オオオオーーーッ!」
 臧宮の言うとおり、長くはもたないであろう。だがここでの敗北が未来の勝利につながるなら、兵も全力を振り絞ることができる。
 臧宮もまた、兵と一体となって戦える歴戦の良将だった。


 延岑軍はもともとさほどの大軍ではない。成家の兵は敢死(かんし)の士を(つの)らねばならないほど不足している。
 まして公孫述軍の主軍は皇帝のもので、延岑のそれは別動隊にあたる。当然、主力の公孫述の方へより多くの優秀な兵が割り当てられている。
 それは公孫述が君主だからというだけでなく、彼が戦っているのが漢軍の主力である呉漢軍だからでもあった。
 それでもなお、今の延岑軍は強かった。
 もし臧宮がいま手元にある殿軍(しんがり)だけで延岑を完全に押しとどめようとしていたら、いずれ兵の精根が尽き、先の殿軍と同様無惨に破砕され、踏みにじられていたことだろう。
 時間が限定されていたからこそ耐えられたのである。
 それでもその時間は、臧宮と彼の兵にとって無限の長さに感じられた。
「まだか」
 臧宮は何度か後方を振り返り、副将から「布陣完了」の伝令騎兵がやってくるのを待った。
 それほどに殿軍(しんがり)は急速に削られ、崩壊の気配を強めつつあったのだ。
 そしてその崩壊は、ついに現実のものになりはじめる。
 壁が剥落(はくらく)するように、兵の精気が尽き、こぼれはじめたのだ。
 もう待てなかった。
「全精力を解き放て! 一瞬でよい、延岑を押し戻すのだ!」
 臧宮は全兵に総反攻を命じた。それは延岑を突き崩すためのものではない。ほんの一時でも延岑を押し戻し、撤退の隙をつくるためだった。
 それを理解している臧宮兵は、すでに(しぼ)り尽くしている精力を、防御から攻勢へ強引に転嫁する。
「オオオオーーーーッ!!」
 先ほど以上の喚声とともに、臧宮兵は延岑兵を押し込んだ。
 それは延岑軍全体には波及しなかったが、一部の兵の統制を乱し、部隊編成に混乱を強いる。
 それが返って延岑軍全体の動きを(よど)ませ、停滞させた。
「今だ! 全軍撤退。急げ!」
 それを見て取った臧宮は、これまでにない大声(たいせい)で兵を叱咤(しった)し、それを聞いた臧宮兵は、恐慌(きょうこう)寸前の勢いをもって延岑兵の前面から後方へ向けて撤退――逃亡を始めた。
 その逃亡が潰走(かいそう)に至らなかったのは、臧宮の指揮が最後の理性となって兵を導いたからである。
「おのれ! 追え。逃がすな!」
 兵の足並みが乱れた一瞬の隙を突かれ臧宮兵の逃走を許してしまった延岑だが、それを立て直すと、憤怒の表情とともに兵に追撃を命じる。
 まだ戦いは終わっていない。延岑の有利はまったく揺らいでいなかった。


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