文字数 4,137文字

 四日目。刑事課のデスクに麗子からの電話が掛かってきたのは、午後一時頃のことだった。
 その時勝也は気の荒い恐喝犯のチンピラを捕まえて署に戻ってきたばかりで、男の首根っこを押さえつけて自分の隣に座らせるのに四苦八苦しているところだった。
 電話のベルが五回鳴り響いたところで、勝也は受話器を取った。
「刑事課」
《生きてる?》
 唐突な質問に、勝也は首を傾げて耳をそばだてた。
「……何や、おまえか」
《そうよ。こんなこと訊いてくるの、他に誰だと思ったの?》
「何や」
《何って、約束通り電話したのよ》麗子の声が低くなった。《あんた、構わないって言ったじゃない》
「言うたけど──」
 そこで勝也は、逮捕した男が手錠の掛かったままの両手でデスクの上の物を蹴散らしているのを見て、慌てて止めに入った。
「おい、何してる! やめろ!」
《勝也?》
「ああ、うん」勝也は受話器を耳に当てた。「まさか、ここへ掛けてくるとはな」
《ちゃんと気は遣ってるつもりよ。お昼時だし》
「刑事が決まった時間にメシ食えてるなんて、本気でそう思ってるんか?」
 勝也は呆れたように言った。「おめでたいな」
《だって……》麗子はバツが悪そうだった。《それ以外の時間だと仕事の邪魔になって余計に具合が悪いと思ったのよ。取り込んでることもあるだろうし》
「今がまさにそれや」
 そして勝也はまた男に振り返った。「じっとしてろって言うてるやろ! また殴られたいんか?」
《ちょっと、何よ?》
「こっちの話」
《芹沢くんはいないの?》
「殴られた拍子にどういうわけか奥歯が欠けて、手当てに行ってる」
《やだ──》
 そう言った麗子が顔をしかめているのが、勝也にもよく分かった。
「明日は我が身や」勝也はわざと言った。「まあそんな事情で手が離せへんから、悪いけどまたにしてくれよ」
《ちょっと、そんな切り方ってないでしょ?》
「……忙しいねん」勝也は小さく舌打ちした。
《面倒がってるわね》
「面倒やないけど、ほんまに取り込んでるんや。それくらい分かるやろ?」
《分かったわ。気をつけてよ》
「祈っててくれよ」
 そう言うと勝也は受話器を戻し、態度とは逆に満足げな笑みを浮かべた。

 麗子はその後、西天満署に電話することはやめていた。考えてみれば勝也の言う通りだった。きちんと時間で区切られたスケジュールで動ける職場ではないのだ。そもそもそんな職場の方が数少ないだろう。
 かと言って家に掛けるとなると、彼の場合、皮肉にも帰宅時間だけはたいてい決まっていて、それはいつも深夜だった。いくらお互いに独り暮らしでも、毎晩真夜中に電話で長話をしていられるほど呑気な毎日を送っている訳ではない。
 それよりも何よりも、彼は疲れ切って帰ってきているのだろうと思ったので、麗子は結局それも控えていた。


 七日目。この日麗子は、担当している基礎演習クラスの学生たち五人とともに大阪地方裁判所に来ていた。
 後期試験も終盤にさしかかり、ほとんどの日程を終えた学生たちのうち、五名の有志が集まって裁判を傍聴しようということになった。そして、どうせならまだ知識の浅い自分たちだけで行くよりも、三上先生にも同行してもらって傍聴の経験をより有意義なものにしたいと申し出てきたのだ。麗子もちょうど時間に余裕が出てきた頃だったので、こういう意欲的な申し出は歓迎すべきだと快諾した。そんな過程で今日、数件の裁判が行われるこの地裁にやってきたのだった。
 傍聴した裁判は学生たちの興味を引きそうな、比較的単純な刑事事件だった。空き巣の常習だった被告人がとうとう強盗傷害を犯したと言うもので、家人は全治三週間の大怪我を負わされていた。
 そんな凶悪犯罪を犯したとは思えないような一見物静かで落ち着き払った二十二歳の被告人は、同時にことの重大性にも極めて鈍感だった。
 今日の公判は検察側の尋問で、強面の検察官が彼に厳しい言葉を投げ掛けても、まったく動じる訳でもなく、むしろ気怠そうだった。彼と同年代の学生たちは、その姿に明らかに怖じ気づき、微動だにせず傍聴席に張りついていた。
 傍聴が済んだ後、麗子は学生たちを連れて近所の喫茶店に入り、今の裁判について議論した。そしてこの後はカラオケボックスに流れると言う彼らと別れ、彼女は中之島図書館に立ち寄るために再び裁判所前の通りに戻ってきた。
 正面入口の前を通り掛かったところで、麗子は中から知った人物が出てくるのに出会した。
「──あ」
「あれ」
 彼女に気づいて立ち止まったその人物は、勝也とバディを組む芹沢貴志だった。
「こんにちは」麗子はにこやかに挨拶した。
「どうしたの、こんなとこで」
 貴志は清々しい笑顔で訊いてきた。「ひょっとして西天満署(うち)に用?」
「ううん、ついさっきまで裁判所(ここ)で用があったの。これから図書館にでも行こうと思ってたとこ」
 麗子も笑顔で答えた。「あなたは? やっぱり仕事で?」
「そりゃそうだよ」と貴志は苦笑した。「証言台に立たされてた」
「そうか。そうよね」
 二人は東に向かって歩き出した。
「勝也は一緒じゃないの?」
「別の用件で府警本部まで行ってる」
「へえ。別々ってこともあるんだ」
「ま、何せ人手不足だしさ」
「……そう」
「もう三十分もすりゃ戻って来るんじゃないかな。時間があるなら寄ってく? それとも何か伝言があるんなら伝えとくけど」
「いいえ、あの──」
「遠慮しないで言ってよ。別にねじ曲げるつもりもねえし」
 麗子は貴志を見上げた。「……何も聞いてないの? 勝也から」
「聞くって、何を」
「だから、その──」
「だから何?」
 貴志は不思議そうに首を傾げて麗子の顔を覗き込んできた。
 麗子は俯いて少し思いを巡らせていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「いいの、何でもない」
「言ってくれねえの? そりゃないぜ」貴志は大袈裟に残念がった。
「だって、考えてみたらわざわざあなたに言うことでもないもの。勝也が言わないのも、きっと同じように思ってるからなんだろうし」
「……だったらいいけど」
 貴志はちょっと不満げだった。「何だかあんたまで、ヤツの悪い癖がうつっちまったみてえだな」
「悪い癖って?」
「だってよあいつ、ちょっと前から何だか訳の分からねえことを言いかけちゃすぐに引っ込めたりして、ちっとも要領を得ねえんだ。まるで何か、あとで知れたら気まずいことでも──」
 そこまで言うと貴志ははっとした表情になって麗子に振り返った。
「……あ」
「どうしたの?」
「いや……」
 貴志は戸惑ったように視線を泳がせた。「──うん、やっぱりそうだよ。そう考えりゃ全部辻褄が合う」
「何のこと?」麗子は少し焦れったそうだった。
 貴志は再び麗子に向き直った。そしてその涼しい瞳でじっと彼女を見据えて言った。
「あいつが京都のお嬢さんをフッたのは、あんたが原因なんだな」
「!──────」
「図星なんだ」貴志はふん、と笑った。「で、つき合ってるの」
「……ええ。まあね」
「それって本気なのか?」
「えっ?」麗子は思わず声を上げた。「……どう言う意味?」
「言葉の通りだよ。あいつの気持ちに本気で応えたのかって訊いてるんだ」
「……当たり前でしょ」
「おいおい、そんなに正直でどうすんのさ」
 貴志は呆れたように溜め息をついた。「一呼吸つくところなんざ、いかにも怪しいぜ」
「何よ、変な因縁つけないで」
 麗子はむっとした。むっとしながらも、彼の指摘したように一呼吸ついてしまった自分にたじろいでいた。
「はたして因縁かねぇ」
「そんなこと──」
「たいして本気でもねえのなら、さっさとやめた方がいいな。お嬢さんのことだけじゃなくて、あいつまで傷つけちまうことになるんだから」
「分かってるわ。あなたに言われなくても」
「それなら安心だ。心配で眠れなくなっちまうとこだった」
「らしくないわね。人のことを気に病むなんて」
「ああ、柄にもねえな」貴志はからりと笑った。
「勝也のことが心配なのね」
「──あんたのこともだよ」
 貴志の表情が突然穏やかになった。「

があったから、つい破れかぶれになってるんじゃねえかと思ったんだ」
 貴志は麗子が前の恋に破れたとき、ひどく落ち込んで体調を崩したことを偶然にも知っていた。そしてその時の麗子を元気づけたのも、何を隠そう彼だったのだ。
「あのね──」麗子は深呼吸をした。「あたし、実は──」
「あれ、やめてくれよ。たった今本気だって言ったばかりだぜ」
「でも、前のこともだけど……真澄のこともあるのよ」
「お嬢さんに遠慮は要らねえよ」貴志ははっきりと言い切った。「そんなこと、かえって彼女に失礼だろ」
「ただの友達じゃないのよ。子供の頃、夏休みになったら彼女の家に滞在して、まるで姉妹のように過ごしたんだもの」
「だから?」
「だから……何だかあたし、あのコから勝也を奪ったような気がして──」
「それじゃあまるで、鍋島をその頃のおもちゃと同じように考えてるんじゃねえか」
「そんな……」
「とにかくまあ、俺はあんたと鍋島は結構似合いだと思うぜ。だからこの際、さっさと吹っ切っちまうことを勧めるな。従妹のことも、元カレのことも」
「そうね。分かったわ」
 ここで麗子は気恥ずかしそうに笑った。「それにあたし、勝也のことを大切にしたいっていう気持ちに嘘はないもの」
「九年来の親友としてじゃなく?」
「ええ、違うわ」
「分かった。だったらもう何も言わねえよ」
 貴志はきっぱりと言った。「悪かったな。たった今事情を知っときながら、余計な難癖つけたりして」
「いいのよ。少しは見抜かれてんだもの」
 二人は西天満署の前まで来た。貴志は麗子を見下ろすと言った。
「ほんとにヤツに伝えとくことねえか? 『愛してる』くらいなら言っといてやるぜ」
「いいわよ。自分で言うから」
「そりゃごちそうさま」
 貴志は鼻の頭に皺を寄せると、軽く手を上げて署に戻っていった。


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