文字数 4,046文字

 雨は朝、勝也が出勤してきた頃には上がっていた。
 アパートのある東三国(ひがしみくに)から満員地獄の大阪メトロ御堂筋(みどうすじ)線で淀屋橋(よどやばし)まで来る。地上へ出て中之島(なかのしま)を北へ渡り、ゆるゆると流れる堂島川(どうじまがわ)の流れを見ながら派出所の角を右へ折れ、苛立たしげなエンジン音で溢れる阪神(はんしん)高速の高架を頭上に東へと行く。
 独特の威圧感を感じさせる裁判所の前を過ぎ、やがて鉾流橋(ほこながればし)の北詰にぽつりと立つ石の鳥居をとらえると、勝也はその向かいの古ぼけた五階建ての建物へと入っていくのだった。
 大阪府西天満(にしてんま)警察署、そこが約二年前からの彼の仕事場だった。

 出勤すると彼はまず、一階の右手奥にある拳銃の保管場所へ行って自分の拳銃を受け取る。そして大きな荷物や着替えの必要のある場合はそのまま今度は左手奥のロッカールームへと足を運ぶのだが、今朝はそうはしなかった。あと一週間以内に片付けなければならない大嫌いなデスクワークがたっぷりと残っていたし、おまけに相棒は二十八日までは出勤してこない。彼は時間を無駄にはできなかった。
 それに今日は、昼休みに麗子との約束が入っている。それに少しでも多くの時間を割くためには、早く刑事部屋に上がってデスクに向かわなければならなかった。
 まだ引きずる足を庇いながら階段を上がり、廊下を進んだ勝也は、廊下との壁の仕切りのない刑事課の前まで来ると、腰のあたりまでしかない間仕切り戸を開けて中へ入った。
 同僚に挨拶しながら書類キャビネットとデスクのあいだを通り、自分の席に着いた。ふうっと一息ついて、彼にしてはめずらしくあらたまったキャメルカラーのラム混ウールのジャケットを脱いで椅子の背に掛け、これもまた見馴れないオレンジ色のボタンダウンシャツのポケットからキーホルダーと警察バッジを取りだしてデスクに置いた。
「──鍋島、ちょっとは進んだか?」
 係長の高野(たかの)警部補が声を掛けてきた。
「いいえ、全然」勝也は平然と言って肩をすくめた。
「相変わらず呑気やな、おまえは」
「そうでもないつもりなんですけどね。どうもこういうのが苦手で」
「おまえ……民間に行かんで良かったな」高野は苦笑した。
「でしょうね」と勝也も笑った。「府警も、俺みたいなのには秘書をつけてくれるくらいの予算って残ってないもんですかね」
「課長が聞いたら怒るぞ」
「せやかて、これだけ未処理の報告書が溜まってるってことは、それだけ外であくせくやってるってことの裏付けでしょ?」
「ただ溜めてるだけやろ。他の連中は普段からせっせと書いてるから溜まらへんのや」
「まあね」勝也はにやりと笑って頷いた。
 腕時計を覗くと、九時ちょうどだった。
 早く昼にならへんかな、と思った。

 窓のないシンプルな煉瓦造りの美術館の前で、麗子は木枯らしの中もう二十分も待たされていた。
 襟の広く開いたサーモンピンクのロングジャケットは同種のベルトでウエストを絞り、その裾からオレンジ系の花柄プリントの丈の短いフレアスカートを覗かせていた。見事な脚線美で、足もとは茶色のスエードパンプス。同系色のボックス型のバッグを提げている。コートは着ていなかった。
 緩いウェーヴの髪を肩のあたりまで伸ばし、小さな楕円形の顔を包み込んでいた。
 ブラウン系のメイクを施したシャープな瞳、はっきりと意志を持った眉。バランスの良い高さに伸びた鼻は、整った顔の部品の中でも一番の出来と言えるだろう。そして全体に漂う知性は、大学講師という職業のせいであり、本人が持って生まれた「当たり前の」資質でもあったのだ。
 今後一切戸外での待ち合わせはやめよう、と麗子は痛感した。相手を考えると、最初にそう思いつくべきだった。勝也一人と待ち合わせるのは久しぶりだったので、迂闊にも彼が時間に頓着しない性格なのを忘れてしまっていたのだ。しかも彼は驚くことに携帯電話を持っていない。最悪だった。
 麗子はよほど、橋を渡って西天満署に乗り込んで行ってやろうかと思ったが、彼の職業を考えた場合、連絡もできないほど緊急の仕事が入るのもありうることだったので、我慢してもう少し待つことにした。
 我慢しながら、勝也のやつ、来たらただじゃおかないから、と真剣に思っていた。

 緩やかな坂になった橋を勝也が歩いてきた。ジャケットのポケットに両手を突っ込み、寒そうに肩を縮めて俯いている。深いグリーンに細いラインの入ったマフラーをジャケットの中に引っかけていた。
 そして、まだ右足を引きずっているその姿を見たとき、麗子は少し胸が熱くなるのを感じた。彼を見てそんな風になるのは、このときが初めてだった。
 橋を渡り切ったところの横断歩道の前で勝也は立ち止まった。顔を上げ、向かい側の舗道に立っている麗子を見つけると微かに口許を緩めた。
 丸い二重の目は少し反抗的で、その上の頑固そうな眉と良く釣り合っていた。
 筋の通った鼻と堅く閉じた唇がいかにもきかん気が強そうに見える。
 子供の頃のやんちゃぶりがまだ抜けきっていないようで、165cmの身長も手伝って、とてもではないが二日前に二十九歳になったようには見えなかった。
 信号が青になるのを確認すると、勝也はまるで急ぐ様子もなくゆっくりと渡ってきた。何も言わずにただじっと麗子を見つめ、五メートルほど手前まで来て徐々に歩調を落とす。やがて立ち止まるとわざとらしく左腕の袖口を引き上げ、腕時計を覗いて「あれま」と言って麗子を見た。
「何があれま、よ」
 麗子はむっとして腕を組んだ。「なにその時計? お菓子のおまけ?」
「今さら怒るなよ」勝也は平然と言った。
 麗子は溜め息をついた。しかしそこで突然、自分たちがただの友達でなくなり始めていることを思い出し、顔が赤くなるのを感じて俯いた。
「で……どうする?」
 勝也も同じ気持ちなのか、忙しそうにあたりを見回しながら言った。
「淀屋橋か、北浜(きたはま)か」
梅田(うめだ)にしない?」
 麗子は勝也から視線を外したままで言った。「少し歩きたいから。あんたのその足には悪いけど」
「ええよ」
 二人はゆっくりと歩き始めた。横断歩道を渡り、中央公会堂のそばを通って河沿いの道を西へ向かった。
 二人は自然と遠慮がちに離れて並んだ。これまでにもこうして並んで歩くことは何度もあったが、気持ちの上では明らかに今までとは違っていた。 
 お互い、何を言ったらいいのか、まるで考えあぐねていた。
「……びっくりしたわ」
 ようやく麗子が口を開いた。
「そうやろな」
「いつからなの?」
 勝也は小さく首を傾げ、足下を見て溜め息をついた。
「分からん」
「頼りないのね」
「気がついたのはおとといや。真澄には分かってたらしいけど」
「まったく──呆れちゃうわ」麗子は首を振った。「あんただけじゃなくて、自分にも」
「おまえとのことは、昔からいろんなやつに言われてたけど──自分では絶対にないと思てたからな」
「そうよね。あんたの彼女は学校が違ってたし、普段学内で一緒にいる女子って言えばあたしだったから」
 麗子は言うとすっと穏やかな表情を浮かべた。「お互い、あまりにも近すぎたのね」
「そうやな」
「兄妹みたいに思ってたわ。一人っ子で、きょうだいってものがどんなのかも知らないくせに」
 麗子は懐かしそうな目をした。「……そう。知り合ってまだ間もない頃から、あんたが何を考えてるのか、顔を見ただけですぐに分かった。その時々で、あんたの気持ちや言いたいことを──自分と同じくらい理解してたわ。だから、あたしたちはきっと兄妹として生まれてくるはずだったんじゃないかなんて思うようになって。一度そんな風に思うと、もう女としての感情はどこかへ追いやっちゃったのね」
「安住できると思たんや」勝也は言った。「俺にはそういう相手が必要やから」
「そうよね。それもよく分かるわ」と麗子は笑った。「さすがにその相手があたしだとは思いつかなかったけど」
「せやから真澄の気持ちを考えたとき、あいつに対しては何の不足もなかったのに、どうしても応えることができひんかった」
「真澄だって、あたしと同じくらい長くあんたとつき合ってればそうなるとは思うけど」
「そうかな」と勝也は首を捻った。「あいつとももう三年やぞ」
「まあね。時間でもないってわけね」
 そこへ、正面から自転車に乗った制服警官が少し蛇行しながらこちらへ向かって近づいてきた。
「あ、巡査部長」
 警官は勝也を確認したらしく、ペダルを漕ぐスピードを上げた。
「……ちっ」勝也は小さく舌打ちした。
 二十代前半のその警官は、二人の前まで来るとペダルから片足を下ろして止まり、勝也に向かって軽く敬礼した。
「巡査部長、確か今日は宿直明けではないですよね?」
「……ええから、行ってくれ」
「はあ……」
 警官は言うと勝也の隣にいる麗子に視線を移し、驚いたように何度も瞬きした。明らかに麗子の美しさに目を奪われているのが分かった。そして勝也に振り返ると、(この人は?)と目で問い掛けた。
「ああ、重要参考人」勝也は平然と言った。
「ええ? 嘘でしょ?」
「ほんまや。結婚詐欺の常習犯。俺も今、口説かれてたとこ」
「あんたを騙したところで、いったいいくらの儲けになるってわけ?」
 麗子はむっとして勝也を睨むと、警官に向き直ってにっこり微笑んだ。
「ねえ?」
「え、ええ……」警官はでれっと笑った。
「ええから、行ってくれよ。俺は昼休みなんやから」
 勝也は面白くなさそうだった。
「あ、はい、じゃあ──」
 警官はまた敬礼すると、麗子に振り返って愛想良く一礼し、再び自転車を漕いで去っていった。
「巡査部長だって」
 麗子はからかうような眼差しで勝也を眺めた。
「そうや」
「やっぱり警察官なのね」
「なに言うてんねん、今頃」
「じゃあ、何か事件があったら呼び出されるってこと?」
「まあな」勝也は言うと麗子を見た。「不思議か?」
「不思議って言うか──」麗子はゆっくりと言うと何か思いついたように笑って首を振った。「そう、それこそ詐欺みたい」
「かもなぁ」
 勝也もまんざらでもなさそうに笑った。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み