文字数 3,294文字

 その朝目が覚めた時、麗子(れいこ)はひどい頭痛に思わず顔をしかめ、ゆうべの出来事を思い出した。

 ラベンダーカラーのローズ柄カバーの掛かった羽毛布団を冷えた肩の上まで引き上げて、麗子は頭の中の岩石が転がらないようにゆっくりと寝返りをうった。ベッド脇のイタリア製のサイドテーブルに置いた時計は十時を回っていた。
 その上の分厚いカーテンを半分だけ引いた窓の外では、スプレーのような細かい雨が庭の常緑樹に滴を作っている。
 雨のクリスマスだった。
 麗子はエジプト壁画の女性のようにはっきりとした二重の切れ長の瞳で、そばの椅子に掛けた白いニットをぼんやりと眺めた。ゆうべ彼女が着ていた服だ。
 眺めながら、ゆうべのことははたして現実だったのだろうかと考えた。

 独りでイヴを祝おうというのは、今月に入ってから決めていたことだった。
 二ヶ月前、彼女が講師として教鞭を執る大学の同僚との恋に結末が訪れた。
 捨てられた形となった彼女は、さんざん落ち込んだ挙げ句にしばらく男はお預けだと決心した。
 彼女は稀に見る美人だったし、次の相手を見つけようと思えばそう苦労は要らないはずだったが、もう二十八歳だったし、クリスマスに独りでいたくないと思うほど幼稚ではなかった。それよりも自分にとって最も大切なものは何かを探し始めようと決心して、イヴの夜、とりあえずはこの芦屋(あしや)の自宅で一人、無謀にもクリスマス料理に挑戦したのだった。(大学卒業以来両親とは離れて暮らしているくせに、彼女は料理というものが大の苦手だった。)
 そして四時間以上掛けて作り上げた料理をいざ食べようとワインの栓を抜いた時、彼女の気を逆撫でするように玄関のベルが鳴ったのだった。
 九時半頃のことだった。

 ドアを開けた麗子の前に現れたのは、めずらしくスーツに身を包んだ学生時代からの親友の鍋島勝也(なべしまかつや)だった。小さな雨の滴を髪や両肩に散りばめ、決して高くない背をさらに縮めて寒そうに立っていた。
「あら、馬子にも衣装ってやつね」
 麗子は面白そうに挨拶がわりの意地悪を言った。そのやり方は、二人が出逢った大学一年の時から少しも変わることはなかった。

 勝也はこの日、麗子の従妹である野々村真澄(ののむらますみ)とイヴを過ごしているはずだった。
 三年前、麗子を通して勝也と知り合った真澄は、以来ずっと彼への一途な気持ちを暖めてきた。それを知った勝也がとうとう、昨日という特別な日に真澄を誘ったのだ。
 真澄が喜ばなかったはずがない。真澄とは子供の頃から姉妹のようにして育ってきた麗子も彼女のそんな気持ちを痛いほど分かっていた。
 しかし同時に勝也の微妙な心の躊躇(ためら)いをも、彼女は充分に知っていた。
 だからこのとき、彼の口から真澄の気持ちに応えなかったのだということを聞かされても、麗子には彼を責めることはできなかった。
 ところが、そのあと勝也が口にした台詞の数々は、この九年間の二人の関係からは、とても考えられないものばかりだったのだ。

「──いや、俺はほんまにアホな男やなぁと思ってさ」
「……今頃なに言ってんのよ」
「可愛くて、素直で、性格も育ちも申し分なくて、何より俺のことあんなに想ってくれてる真澄をついさっき神戸の公園でフッて、その場に一人残してきた。ほんで、その足でタクシーとばしてここへ来て、さっきから俺の話よりメシのことばっかり言うてるおまえに告白しようとしてるんやから」
「なにそれ?」麗子は目を丸くしてぽかんと勝也を見た。
「なあ麗子、俺はおまえのことが──」
「ちょっと待って! それ以上は駄目よ」
「何でや」
「決まってるでしょ。考えたら分かるじゃない」
「俺の好きなんは、真澄やない。おまえのことや」
「ふざけないでよ!」
 麗子は勝也の頬を叩いた。
「あたしがあれほど頼んだじゃない。ちゃんとした答えをしてあげてって」
「ちゃんと答えたよ。その答えがそうなんや」
「それで済むと思ってんの? あの子は、あたしの従妹だって言ったでしょ?」
「せやからどうせえって言うんや? 好きでもないのにつき合えって言うんか? そんなことしたら余計にあいつを傷つけるだけやろ。見合い話を棒に振ることにもなるんやぞ?」
「だからって、どうしてあたしのことを──」
「それはそれや、別のことや!」
「勝也……あんたって男は──」
「せやから言うたやろ。アホなんや。たぶん地球上で一番のな」
「知らないわよ」
「……真澄が、おまえのとこへ行けって」
「あの子が?」
「ああ。おまえやったらええって」
「そんな──」
「とにかく、俺の気持ちはそうなんや。それだけを言いに来たんやから、帰るよ」
 麗子は何も言わなかった。まるで寒さをこらえるように両腕で身体を抱え、勝也に背を向けた。
 そしてドアの閉まる音をその背中で捉えると、また大きく溜め息をついて呟いた。
「……駄目だって言ったのに」

 玄関に出た勝也がドアの取っ手を引いた時、麗子の声が叫んだ。
「待って──!」
 勝也が振り返った。廊下の真ん中に立っていた麗子はぼんやりと言った。
「──九年もの間、気がつかなかったのかしら。あたしたち」
 勝也は彼女を見つめたままドアを閉めた。
「勝也が、あたしを……?」
「うん」
「この前まで、あんなバカなことしてたあたしを、よ」
「ああ」
「あたし、あんたのために何もできないのよ。ちっとも可愛げがないし、世話を焼くのは大嫌いだし、料理だってあのありさま。真澄とは大違いだわ」
「分かってるよ、そんなこと。おまけに今さらそれをどうしようもないってことも」
「それでどうしてあたしなの?」
「俺のこと、全部知ってるやろ。違うか?」
「ええ、そうね」
「俺も、おまえのことならだいたい分かる。理由はそれだけ」
「それだけって──」
「そんなやつ、他に誰がいてる?」
 麗子は首を振った。
「やろ。それでええのとちゃうんか」
「──ええ。それでいいのよね、きっと」
 麗子は小さく笑って頷くと、ゆっくりと廊下を進んだ。勝也もドアから離れて彼女に近づいた。麗子が顔を上げると、目の前にはあまり見たことのない、どこか緊張したような表情の彼がいた。
「また駄目やなんて言うなよ」
 そう言うが早いか、勝也は麗子の頭の後ろに手を回してさっと引き寄せ、キスをした。二人が出逢って九年あまり、実に初めてのことだった。
「……驚かさないでよ」
「昨日今日、知り合ったわけやないんや。勢いでないとできるか」
「そうだけど、何だかやっつけ仕事って感じじゃない? するなら、ちゃんとしてよ」
「え?」
「真澄のこと、神戸に一人残してでもあたしのところに来たんでしょ? だったらちゃんとしなさいよ」
「え……ああ」
 勝也は伏し目がちに頷いた。そして小さく笑った。麗子の腕を取り、静かに抱き寄せるともう一度その唇を合わせた。
 九年間の遅れを取り戻そうとするかのような、長い長いキスだった。
 その間に二人は互いの背中に腕を回してしっかりと抱き合った。
 やがて二人は顔を離し、短く笑った。
「──九年間、気づかなかったんじゃないわ」
 麗子は言った。
「九年かかって長い遠回りをして、それでやっと戻ってきたのよ。本当の居場所に」
 このあと勝也は、四時間掛けて作ったものの酷い出来映えだった麗子の料理の代わりに、残った食材で純和風の家庭料理を作ってくれた。
 そして彼女がそれらを平らげるのを自分は缶ビールを片手につき合ったあと、手際よく後片付けをすると、彼女が今まで見た中で一番と言ってもいいくらい穏やかな笑顔を見せ、「今日はこれで帰るよ」という言葉を残して帰って行ったのだった。

 これが三上麗子の昨日だった。間違いない、確かに現実だ。
 あいつの気持ちを受け入れたんだわ、と麗子は地響きのする頭で考えた。
 九年間も気が付かなかったなんて、お互い間が抜けてるわ。けど、それが現実ってやつなのよ。勝也はあたしのことが好きで、あたしも勝也のことが好きで──
 ……そうよね?
 脳味噌の上に乗っかっている漬け物石が、さらに激しく動き出した。
 それと同時に、忘れてはいけない大事なことを思い出して、今度は胸が痛み始めた。

 現実は、決していいことばかりじゃない。

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