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 ホテルでの一件以来、勝也はずっと(ふさ)ぎ込んでいた。
 この九年間、自分は麗子の何を見てきたのだろうと思った。初めて言葉を交わしたときから、不思議と気が合い、ありのままの自分を出せる数少ない──いや、正直言うと初めての──女性だった。彼女が何を考えているのかも手に取るように分かったし、いつでも本音をぶつけられて、それで事が済んだ。お互い、相手にとって自分は最高の理解者だという自信があった。
 ところがだ。こうしていったん男と女になってしまうと、たちまちこの有り様なのだ。
 俺はあいつのどこを分かってるって言うんやろう。単純で、飾り気がなくて、気が強くて、でも見てるこっちがしんどくなるくらい自分に厳しくて──そういう女やと思ってた。けど、それはあくまで親友としてのあいつやったんや。女としての麗子は、もっと弱くて、複雑で、とてもやないけど俺には手に負えへん相手なのかも知れん。
 ──やっぱり、あいつには俺では役不足なのかも知れんな。

 そんな鬱ぎがちな勝也を見て、貴志はかなり歯痒い思いをしていた。
 最初のうちは、部外者が何を言っても仕方がないと思っていたし、また言うのも嫌いだったから、その話題には耳を貸さないようにしてやり過ごしていたのだが、あまりにも落ち込んでいる相棒の様子を見ていつまでも知らぬふりをしているのも白々しいと思えてきたのだ。それで何気なく問い質してみたり、あるいは罪のない第三者を装って冷やかしたりしたのだが、何の効果もないのでいよいよ面倒臭くなってきた。
 そこで今度は、仕事のあとに飲みに誘ったり、女の子を何人か調達してパッと騒ごうと持ち掛けたりもしたが、やはり彼は乗ってこなかった。当然と言えば当然か、と貴志は思った。そのくらい、こいつにとって三上麗子は特別なのだろう。それはきっと、二人がこんな関係になる前からずっと変わることがなかったに違いない。貴志にもそれは何となく分かっていた。

 この日も仕事のあと、食事をして帰ろうと言う貴志の誘いを、勝也は力なく断った。
「じゃあどうするんだよ、メシは」貴志は訊いた。
「おまえは好きなとこ食いに行ったらええやないか」
「俺じゃなくておまえだよ」
「家で食うわ」
「だったら俺も行くよ」
「おまえが?」勝也は怪訝そうに貴志に振り返った。「俺に作らせようって言うんか、また」
「ああ。二人だったら、ちゃんと美味いもん作ってくれるんだろ?」
「アホクサ」と勝也は鼻を鳴らして顔を背けた。「何で俺がおまえを食事に招待せなあかんのや」
「いいじゃねえか。ときどき、無性におまえの作った料理が食いたくなるんだよ」
 貴志は我慢強く食い下がった。「何しろ、 近頃の女の子はロクに手料理なんて作らねえんだから」
「……何もないからな。おまえが材料買えよ」
「構わねえよ」
 こうして貴志は勝也のアパートまでついてきた。勝也は渋々食事を作り、二人は黙々とそれを口に運んだ。
「……なあ、いい加減にその無愛想な態度は何とかならねえのかよ?」
 テーブルに片肘を乗せ、気怠そうに箸を動かしている勝也に向かって、貴志は苛立たしげに言った。
「何か。俺におまえの女みたいに振る舞えって言うのか」勝也は顔を上げずに言った。「メシ作ってもらったくせに、説教すんなよ」
「分かってるよ」
「メシ食ってるあいだはお喋りせんとけって、親に言われへんかったか?」
 チッ、と貴志は舌打ちした。
「俺の態度が気に入らんかったら、いつでも帰ってくれよ。ここは俺の部屋なんやから」
「……どうしようもねえな」
 そう言って勝也を睨みつけると、貴志は箸を置いて腕組みした。
「おまえのプライベートに首を突っ込むつもりはねえけどよ──」  
「ああ、突っ込むなよ」
「一緒に仕事してるこっちとしちゃあ鬱陶しいんだよ」
「おまえの鬱陶しさまで、今の俺にはどうでもええよ」
「そうだろうとも。けど、そうやってただ考え込んでばっかいるところを見ると、おまえ自身にもどうしようもねえことなんだろ?」
「まあな」
「だったら、後はあっちに任せろよ。おまえの気持ちは分かってるんだろうしさ」
「……やっぱり、俺なんかではあかんのかな」
「えっ?」
「どうせ安月給の嫌われもんやしな。お巡りなんて」
「それはおまえだけじゃねえだろ」
「ほんまの刑事が映画みたいにカッコイイって、いまどき誰も思てへんもんな。私生活を犠牲にして、人を疑って、コソコソ嗅ぎ回って。それもこれも社会秩序の保全と治安維持のためやと言うのに、市民の皆さんからは煙たがられて」
 勝也は自棄気味に言って溜め息をついた。「巡査部長って言うたって、将来は警視正が約束されてるキャリアでもなければせっせと勉強して上司の機嫌取ってたら出世できる内勤でもないんやし、もしかしたらずっとこのままかも知れんしな」
「だから、それはおまえだけじゃねえだろうが……!」
 貴志は吐き捨てるように言った。「落ち込んで自信をなくすのは勝手だけどな。もっとてめえ自身のことを振り返れよ。だいいち、三上サンが職業で男を選ぶような女だと思ってんのか? だとしたら、おまえは彼女のことを何も知らねえってことだぜ」
 勝也は俯いた。「……そうかも知れん」
「おい鍋島……」
 貴志は呆然と勝也を眺めると、呆れ返って溜め息をついた。


 真澄の家を出た麗子は、大急ぎで勝也のアパートへ向かった。
 真澄の家族と食事をしているあいだも、麗子の心は勝也の元へと飛んでいた。その気持ちは真澄にも分かっていたらしく、食事の後すぐにでも勝也のところへ行くことを勧めてくれた。しかし、何も知らない彼女の家族がもう少しゆっくりしていくようにと麗子を引き留めたので、麗子はそれに応じた。別にいい顔をしたかったのではない。食事をご馳走になっておいて、そのあと逃げるように帰るなんて、彼女の良心が許さなかったのだ。
 腕時計は午後十時を回っていた。電車を降りてタクシー乗り場に向かいながら、麗子はもう少しで勝也に会える喜びで自然と笑顔になっていた。
 玄関のチャイムを鳴らしたところで、麗子は何とか一息つく努力をした。
 胸がいっぱいだった。喉の奥が痛くて、目頭も熱かった。勝也の顔を見たら泣き出してしまうかも知れないと思った。
 しかしすぐに思い直し、それは絶対に駄目だからね、と強く言い聞かせた。彼には涙を見せられない。それだけはしちゃいけない──。
 ドアが開いた。麗子は大きく息を吸って顔を上げた。
「あら……」
「あ──」
 立っていたのは貴志だった。ドアノブを持ったまま、彼は絶句していた。と言うより、麗子のただならぬ気持ちをその表情から読み取り、彼なりに考えを巡らせているようだった。
 ようやく貴志は言った。
「……まずいよな、俺」
「え?」
「うん、やっぱりまずいよ」
 麗子は小さく首を傾げた。「勝也は?」
「煙草を切らしたって言って、買いに出てるんだ」
「そう……」
「……あのバカ、肝心なときに……」
 貴志はそう呟くとノブから手を離し、部屋の中に戻った。
「とにかく上がりなよ。俺はもう帰るからさ」
「え、でもせっかく──」
「いいんだって。メシを食わせてもらっただけだし。これ以上何の用もないんだ」
「あたしなら構わないのよ」
「何言ってんだよ」と貴志は立ち止まって振り返った。「今の今まで、ここであいつがどんなに暗かったか」
「……そうなの」
「吹っ切れたんだな?」貴志は穏やかに訊いた。
「ええ」
「だったら、俺に遠慮は要らねえよ」
「芹沢くん……」
「俺だって、人のラブシーンに立ち会うほど酔狂じゃねえから」
 貴志は言うとにやりと笑った。「自分で()った方がはるかに気分がいいだろ?」
「そうね」と麗子も微笑んだ。
 廊下を進み、リビングに入ったところで、貴志はもう一度言った。
「もう遠慮することなんてないんだぜ。他の誰にもな」
「ええ」と麗子は頷いた。「あたしもやっとそれが分かったの」
「時間が掛かるんだな。頭が良すぎるから、いろんなこと考えちまうんだろ」
「そんなんじゃないわ……そう、いい格好し過ぎてたのよ。自分にも、彼にも……真澄にも」
「そうなんだ」
「そんなときに、彼にまた迷ってしまうようなことを言われて──もちろん彼はそんなつもりじゃなかったのに、それであたしすごく狼狽えて、結果的には彼も傷つけてしまうことに」
「いろいろあるさ」
「あなたにもずいぶん心配かけたんでしょうね」麗子はすまなさそうに言って貴志を見つめた。「ありがとう」
 貴志は黙って肩をすくめた。それから椅子に掛けてあった自分のジャケットを取って羽織ると廊下に出た。
「──俺はあいつとはあんたほど長いつき合いでもないし、刑事やってるときのあいつしか知らねえけど、一つだけ確信してることがあるんだ」
 玄関先で、貴志は言いながら麗子に振り返った。麗子は静かに貴志の言葉を待った。
「俺が今、ここでどうにかお巡りなんかやってられるのは、あいつがいたからだってことさ」


 呼び出し音を七回聞いたところで、勝也は受話器を戻した。
 ピーという電子音がボックスに鳴り響いて小銭が返ってきた。ゆっくりと取り出し、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
 そしてドアに背を付けると、天井を仰いで長い息を吐いた。
 まあええか、と勝也は思った。電話が繋がったところで、まずは何を言えばいいのか分からなかったし、またこじれてしまう恐れだってあるのだから。
 いや、本当は全然良くないのだと勝也は思い直した。それでも、何を言うべきなのかがはっきりしない限り、電話という手段は避けるべきなのだとまた考えを変えた。
「親友のままが一番か──」
 思わず口をついて出た独り言に、勝也は顔をしかめて舌打ちした。 
 ──何を弱気なこと言うてるんや。俺はあいつやないとあかんくせに。九年間遠回りして来たんやから、今さらここで焦ってどうする。
 扉を開け、人通りのない舗道に出た勝也は、貴志がいるはずのアパートへと歩き始めた。

 ドアを開けて玄関を入ったところで、勝也は足下に黒のハイヒールを見つけた。
 すぐに麗子だと分かった。同時に、貴志の靴がなくなっていることにも気づいた。
 勝也はヒールを見つめたまま、ゆっくりと大きく肩で息をした。ブルゾンのポケットに突っ込んだ右手で、中のセブンスターを握り締めた。
 顔を上げると、廊下の奥の戸口に麗子が立っていた。
「芹沢は?」勝也は分かりきったことを訊いた。
「帰ったわ」
「……そらそうやな」
「晩ご飯のお返しに、明日のお昼は奢るからって」
「ああ」
「その代わり、朝の聞き込みには一時間遅れて行くからって」
「ええ?」
「……それは

代わりだって」
 勝也は頷き、部屋に上がった。
 麗子が小さく鼻をすする音が聞こえた。見ると、その頼りなさげな瞳を潤ませて、鼻の頭も赤かった。自分に逢って胸がいっぱいなんだな、と彼には分かった。そして彼女をまっすぐに見つめて、彼はゆっくりと廊下を進んだ。
「……おまえの家に電話を掛けたよ。今」
「そう」
「この前、あんなことがあったのに、それでもやっぱり俺はおまえがええんやな」
 麗子は俯いた。「ごめんね」
 勝也は首を振った。「でもケータイにまで掛ける勇気はなかった」
 うん、と麗子は小刻みに頷いた。勝也は彼女の前まで来ると、ふうっと長く一息ついた。
「それでこうしておまえがここにいてくれて、心底ほっとしてる」
 麗子は引き込まれるように勝也の肩に顔を埋めた。勝也は黙ってその背中を抱いた。
「──真澄があたしに言ったわ。髪も、目も、声も仕草も、勝也の全部が好きなんだって」
「そうか」
「カッコ悪くたっていい、ボロボロになってもいいから、あんたに受け止めてもらいたいって」
「うん」
「でも、それでもあんたは彼女じゃ駄目なんだって。あたしじゃないと駄目なんだって、そう言ったのよ、あのコ」
「ああ」と勝也は辛そうに目を閉じた。「その通りや」
「それを聞いたとき、いったいあたしはどうなんだろうって思ったわ。気持ちを大事にしたいなんて言いながら、実際は頭の中であれこれ考えてるだけでまるで空回りして。何を馬鹿なことやってるんだろうって……」
 麗子は声を詰まらせたが、大きく深呼吸してさらに続けた。
「その途端、あんたに逢いたいと思ったの。あんたに逢って、あたしもあんたじゃないと駄目なんだってことを伝えて──」
 勝也は腕に力を入れた。その拍子に怪我をした脇腹が突っ張ったようになって少し痛みを感じたが、そんなことはどうでもいいと思った。
 麗子が顔を上げた。その瞳は濡れていて、今にも涙が湧きだしそうになっていた。彼女のそんな表情を見たのは、勝也はこれが初めてだった。十八の時から知っている女性の涙を、二十八歳の今初めて目の当たりにしようとしているのだ。これが、彼が九年の間にも知ることのなかった、弱さと言う彼女の最後の一面だった。
 だけどやっぱり泣いてくれるなよ、俺はダメなんだと恐れにも似た気持ちを抱きながら、勝也はゆっくりと顔を傾けて麗子にキスをした。
 今夜はここで終わらないのだと、希望に満ちた確信を持って。


                              ──終わり──




 ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係はありません。




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