第42話 虚像

文字数 3,001文字

 そこで菊池は隣で共に歩く巧を真っ青な目で見つめて、たくましく太い腕で彼の肩を抱き寄せた。
「ちょ、ちょっと、人前ではさすがに! 菊池さん、目立つから」
「恥ずかしがることはないじゃないか。私たちは愛し合っているんだ。愛のまえにはすべてはひれ伏すべきだよ」
 このひとはいつもこうだ、と少し冷えた身体に寄り添って巧は羞恥で頬を染める。
「これからどこへ行きますか」
「そうだなあ、最近暑くなりだしたし、水族館にしようと思ってきたんだが、どうだい?」
「いいですね、俺も賛成です」
「決まりだ」
 二人は歩幅を合わせて歩き出す。市電に乗り、向かうは郊外にある水族館である。目的地に到着したあと、さらにバスに乗って丘のうえにある水族館にたどり着いた。ファンシーさとはかけ離れた、可愛いのか不気味なのかわからないマスコットキャラクターの像を通り越して、二人は館内に入場する。
 館内は暗い。本来は海洋生物を保護するための暗さであったが、すでに地下世界において生きた魚を見られる機会は少なく、水族館にあるこれらはただの演出である。ひらけたロビーのおみやげ店を通り過ぎて、床に描かれた案内に従って奥へと入っていく。まず目に飛び込んできたのは、過去地上においてここらの地域に生息していた魚たちの展示。きらびやかではないものの、生命を感じさせるがっしりとした魚体。ホログラムであるが、館内の体感システムにより、水槽から漏れ出してくる磯の匂いも再現しているために本物そっくりである。
 ほんの数年前まで、ここに展示されている魚たちは食卓にもあがっていたありふれた魚であった。巧は災厄後に海へ赴いていないうえ、地下にある店でも丸ままの魚を置くことは滅多にない。泳いでいる姿は、巧は実物を見ていないのだ。大きな水槽を食い入るように見ていた巧を心配して、菊池は少し背をかがめて、巧の顔に、自分の顔を近づける。
「どうしたんだい?」
「いえ、その。俺たちも一緒だな、って。水槽に閉じ込められて生き延びてる」
「水槽から抜け出すために、私たちは研究をしている。そして、それは君にもできることさ」
 巧は、そんな菊池の慰めに、自分が情けなくなった。彼がいる研究所にインターンシップで働いているものの、できることといえば、役目を終えた実験体の解体作業のみで、とても菊池の役に立っているとは思えない仕事ばかり。それらはたまにまだ息のあるものがいるのだが、厳重に布で巻かれているため、巧が中身を知ることなく処理をすることができている。巧はそれでも腐らずに、一所懸命に仕事をこなした。それらの、言葉にもなっていない不快な悲鳴は巧の精神を削っていったが、そのたびに菊池がしっかりとフォローをしてくれていたので、なんとか心を折らずに仕事をしていられる。
 と、そのとき、巧の連絡端末が鳴った。巧は画面を見る。谷崎からであったが、巧はいまこの場にいる菊池に失礼だろうと考えたのでそのメッセージを見ない。
「すいません、なんだかしんみりしちゃって。それでは菊池さん、先に行きましょう」
 菊池は巧の腰を抱いた。そうして二人は、深淵のように暗い、魚だけが泳いでいる道を進んでいく。南の海にいる生物や、深海生物、また、パネル展示だけではあったものの、変化後の新種生物などの展示を見、二人は水族館の食堂で昼食をとることにした。
 巧は培養シーフードのカレー、菊池はどうやら食欲がないらしく、野菜ジュースのみを頼んでいる。チープな味に舌つづみを打っていると、再度、巧の連絡端末のバイブレーションが鳴った。谷崎しては珍しい連投メッセージに巧は不審に思い、菊池に断りを入れてからチャットアプリを起動した。

 たくみくん、元気?
 すてきな恋人と一緒なんだね。ボクは彼女と
 結婚を意識しはじめたんだよ。あのひとと
 手と手をとりあって、一緒に生きていこうと思ったんだ。

 なんのことはない、ただの惚気。巧の頬は緩んだ。
「どうしたんだい? タクミ。さっきからニヤニヤして」
「いえ、友達がとても幸せそうで。ほら」
 巧はカレーのスプーンを器の端に置いて、菊池の眼前に画面を突き出した。菊池の表情が、一瞬だけ険しくなる。
「まさか、遠回しに私と早く結婚したいといわれるとは思わなかったよ」
 菊池は軽口を言って肩をすくめたが、慌てて巧はそれを否定する。
「その……でも、菊池さんと結婚するとなったら、いろいろ大変そうですね」
 巧は、研究所での普段の彼を思い起こす。何日も風呂に入らない、同じ服を着っぱなし。研究所に居るほかの職員曰く、巧と出会ってまだましになったらしいのだが、それでも巧からしてみれば不摂生であった。研究所の職員たちも彼には呆れかえっているらしい。何人かに尋ねたが、皆無表情で淡々と答えていたためだ。
「……そうだ、タクミ、君は明日私のところで仕事だったが――」
 菊池は指を手前に引く。向かいに座っている巧に近づけという合図だろう。巧はカレー皿を横によけて身を乗り出した。と、菊池は、周りにいる者たちに気づかれぬようにして、巧の耳に一瞬口づけたあと、次のように囁いた。
 ――今夜、可愛い君をこの腕で抱きたいのだが良いかね。
 突然の夜の誘いに巧は驚いて身を引いた。派手に慌てたのでカレー皿に肘がぶつかり、大きな音が響いた。
「き、菊池さん、不意打ちは、駄目です……」
「やはり君は可愛いらしい。……さて、昼食も食べ終わったことだし、先へ行こうか」
 菊池が巧の使っていた皿が乗ったトレイを持ち、立ち上がる。さらりとそのような行動をする彼が、巧は大好きであった。
 次に見たのは人工知能のホログラムイルカのショー。水しぶきを浴びながらも、二人の手はしっかりと繋がれていたので身体は冷めることはない。その後も貴重な生きた魚を触ることができるコーナーなどを体験しつつ、楽しかった時間はあっという間に終わる。郊外から街中まで戻り、バスから降りたとき、巧は菊池に礼を言った。
「今日は本当にありがとうございました」
「おやおや、まだ終わっていないが」
「それはそうですけど、一応ですよ!」
 巧があんまりにも初心な反応を返すので、菊池はくすくすと笑うだけ。ひとしきり笑ったあと、菊池は適当なところに停車していたタクシーを呼んだ。先に巧が乗り込んだあと、次に菊池が車内に入る。連絡先を告げることなく車が発進する。
「もっと近くにおいで」
 菊池は巧の腰を抱いてそばに寄せる。わずかな揺れと、該当の明かりが視界に入っては消えていき、着いたさきは、滅多に使われることのない菊池の自宅であった。ひとり身にしては大きな家で菊池と巧が門に入ると自然と鍵がひらいた。中は普段の菊池から考えられないほどに整っている。
「なんというか、驚きました」
「部屋がきれいだからかい? 私一人では片付けられないから、お手伝いさんを雇っているんだよ。苦手なことはできるだけしないのが一番だ」
 と菊池は言って菊池は巧を、不意に抱きしめる。
「どうする、すぐ、ベッドに行くかい」
「せ、せめて、少し心の準備をさせてください」
「ふふ、そうだね。それじゃあ、さきに湯を浴びてくるといい」
 菊池は巧から身体を話す、そして、奥にある部屋からバスタオルを持ってきて、巧に手渡した。
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