第29話 生活無能力

文字数 3,022文字

 研究所の入り口は地下にある。尖塔が立ち並ぶ寺院の形状をしているのは、なんらかの電波のようなものを効率よく発しているためといわれてはいるが、詳しいことはわかっていなかった。
 慎一は、タクシーの後部座席の窓から見える光景を見て、なんとなくではあるが誰かの墓かもしれないなどと考えた。獅黒ならなにかを知っているのかもしれなかったがわざわざ聞く必要もない。獅黒も話すことはないだろう。彼が自分のことを実は守っていることを、慎一は心の声を読んで知っている。
「余計なお世話だっての、まったく」
 と、慎一は目の前にいない上司に対して毒づくが、その唇の端は上に向いていた。
 タクシー車は、市街地、住宅地、繁華街を抜け、開けた場所に出た。フェンスの向こうでは、広大な空間に、完璧なシンメトリーを保って塔が並んでいる。タクシーの運転手はフェンスに横付けをする形で車を停めた。料金を支払って慎一は車から降り、タクシーがその場から走り去るのを待って、季朽葉――菊池蓮太郎にテレパシーを伝える。
『季朽葉さん、野菜ジュースを持ってきたよ』
『$#&$”!#$』
『だから、人間の言葉で話してってば』
『$%&”#$』
『ちょっと、大丈夫?』
 一向に言葉を話さない菊池に、慎一はいらだったがすぐに異常を察した。すると、突然に豪風が吹き荒れはじめ、塔の目立たないところにある裏口がひらき、すぐににちゃにちゃとした音が、慎一の周囲の暗がりから鳴った。
 そして、慎一の後ろより、ずるりと音を立て一本の黒い触手が伸び、彼の持っている野菜ジュースの段ボール箱を落とした。追って何本も触手があらわれ、段ボールの封を丁寧に取り去り、野菜ジュースのペットボトルを何本も持ち去っていく。頭がおかしくなりそうな光景と音に慎一は眉をしかめた。
 そのとき不意に車が走り去り、ヘッドライトが暗がりを照らし出してしまう。
 そこでは異質の存在がひたすらに野菜ジュースを口に運んでいた。黄色のフードマントの下部では粘液をしたたらせた触手がうぞうぞと蠢いていた。フードからは美しいかんばせが覗いていたが、肉の盛り上がりにも骨にも見える、血管を表面に走らせた白の仮面が青の瞳を覆い隠している。
 そんな狂気の光景を、不幸にも目にしてしまった車の運転手は驚いて急ハンドルを切ってしまい、そのまま電柱にぶつかった。
「あちゃあ……」
 慎一は額に手を当てる。彼は腹をくくり完全に変容してしまっている菊池のそばに寄った。
「ちょっと、野菜ジュースならまだまだあるからさ、落ちついてよ」
「$%&”」
「え? もみじの葉? まさかずっと葉を摂取してないの?」
 仮面を付けた顔がこくこくと頷いた。
「馬鹿だろ、アンタ。……もうだめだ、獅黒さんにオレからアンタの惨状を言っておくからね」
 と、慎一は着ているライダースジャケットの懐から一枚のもみじの葉を取り出す。菊池の細い顎を掴み、野菜ジュースの液体で汚れた唇をこじあけて朱葉を口の奥に押し込んだ。すると菊池のすがたが徐々に人間のものへと戻っていく。完全に元通りになったところで、菊池は激しく咳き込みつつ慎一に対して礼を述べた。
「すまん、助かったよ。元気そうだな、君は」
「そりゃあね、アンタと違ってオレはそれなりに門の仕事をしているからね」
「そう言われるとは心外だ。俺も仕事をしているんだがな」
 慎一はもみじの葉を出した同じポケットから、棒つき飴を取り出して口に含み、床に落ちてしまった獅黒の手紙を拾い上げ、アスファルトのうえで力なく座る菊池に手渡した。菊池はその場で受け取った手紙の封をひらいた。便箋の最初に綴られているのは日本語の文章だ。獅黒らしい、丁寧で慈しみ溢れるもので、菊池の頬は緩みっぱなしであったが、そのうちに便箋の罫線の方向が縦書きから横書きになり、文章も日本語から季朽葉(ハストル)の世界の言葉に変化した。と同時に菊池の顔色が急激に青ざめはじめる。
 そんな菊池の様子を見て、慎一はなぜ獅黒がそんな凝ったことを行ったのかを理解する。つまりは慎一に内容を見られたときの保険である。
 恐怖の手紙をすべて読み終えて菊池はがっくりと肩を落とした。
「シンイチ、俺、死ぬかも。参った。テレビ局からコマーシャル撮影の依頼が山のようにきているのに」
「もともと首を飛ばされて死んでるでしょ。そもそもなんで俳優業をしてるんだよ。一度オレが衣装を見繕ってTV出演をしたせい? いい加減にしなよ」
 事実を言われてぐうの音も出ない菊池。慎一は呆れ、そして菊池を放置してその場から去ろうとするが、菊池は慎一を呼び止める。
「すまん、しばらく湯浴みをしていないんだが、君の家に風呂釜はあるかい」
 うげ、とカエルを潰したような声が、慎一の喉から鳴った。
「オレんちを汚されるのは困るよ。……研究所にシャワー室くらいあるんでしょ?」
「まあな。面倒なものでつい。仕方が無い、では俺は塔に戻るとしよう」
 菊池は立ち上がる。白衣の裾が野菜ジュースで緑色に染まっているのも気にもしないで、ぽつぽつと街灯が光る夜道を、彼は歩いて行く。
 二人は自然と別れた。しかし、菊池と反対方向に歩いていた慎一は途中で立ち止まって、バツが悪そうに頭をバリバリと掻いた。
「ああもう!」
 振り返り、慎一は数メートル先の菊池のもとへ走った。高い位置にある肩を掴んだところ、ぬるりとした感触に驚いて慎一は思わず手を引っ込める。手と肩とあいだには粘ついた何かが糸を引いていた。
「ぎゃあ!」
「ああ、すまん。本来の姿になると分泌液がでるんだ。気にしないでくれ」
「無理!」
 といいつつ慎一は、嫌な感触を我慢して菊池の腕を引っ張っていくが、徒歩で帰宅をしようにもここから家までは遠かった。菊池のこんな状態ではタクシーすら呼べない。
「シンイチ、すこし我慢をしてくれれば、すぐに家につくことができるぞ」
「どうせ(ろく)でもないことでしょ」
「察しがいいな。では少々目を瞑っていてくれ」
 慎一は観念して目を瞑る。すると、慎一の身体はぬるぬるした数本の触手につかまれ、持ち上げられて大地から足が離れた。菊池の触手は身体を落とさないようにあらゆるところに侵入しており、慎一はその気持ち悪さに吐きそうになる。
「ん? そうか、シンイチはこれが嫌なんだな。ヨウスケはこれで触られると途端に身を震わせて――」
 聞きたくない情報を耳にしてしまったので慎一は耳にしたそれを忘れることに努めた。
 彼らはしばらく風を切り空を飛ぶ感覚に身を任せる。すぐに足がふたたび地についた。慎一が瞼をひらいたそこには見慣れた自宅があり、横に立っている菊池の姿もひとのものである。やや菊池と距離をとりながら、慎一は自宅の扉の鍵を開けた。絶やさないようにしている芳香剤の香りが不快な汐の臭いに浸食されていく。
 慎一は玄関に立ち尽くしている菊池を即座にバスルームへと行かせた。服を脱がす間も与えずに、広めのバスタブに大きな身体を押し込んでシャワーの栓を全開にした。水浸しの菊池のうえからボディソープをぶちまけて、スポンジでゴシゴシとでたらめに擦っていくが泡すら立たない。いったいどれくらい風呂に入っていないのかと慎一は戦慄する。
「オレは、陽介さんとアンタが仲直りしてほしいんだよ! この強情っ張り!」
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