第19話 蓮の花

文字数 3,507文字

 じたばたと巧の手足が動かされるが、怪力の石黒にとっては無駄な抵抗であった。石黒は、首に巻いていたネクタイですばやく巧の自由を奪う。
「ふふ。今すぐしゃぶりつきたいところですが、残念ながら彼と約束しておりますので、手は出しませんよ」
 真紅の瞳が横に動いた。巧は大きな声をあげて彼を起こそうとするが、指先ひとつ動かなかった。胸は上下しているので生きてはいるようだ。石黒は、浅はかな抵抗を行う巧に苛立って、床へと彼を投げ出した。無様に転がり、肋骨に機材がぶつかって、巧は激しくむせかえる。いまだ雷光はチカチカと点滅しているがそれも視界からなくなる。石黒が寝転がる巧に覆い被さったのためである。
「もしかしたら、身体をいじくられるよりも遥かに気持ちがいいかもしれません」
 石黒の指が巧が着ている制服の合わせ目に滑り込んだ。丁寧にボタンが外されて、筋肉の少ない胸に尖った爪が引っかかり、巧は総毛立った。
「触るな! 先生、あんなに熱心に歌の指導をしてくれていたのに、俺たちのことを好きだったんじゃないのかよ! それがこんな、汚らしいことをここでやっていたなんて。まさか、蓮がいなくなったのも先生のせいか!」
「なぜ? 僕はおなかが空いたからここでおやつを食べていただけ。あなただって、休みのときの部活で、ここのすぐそとでお母様の手作り弁当を食べていたではありませんか。……そのなにが汚いのか僕には理解ができません」
 そう、石黒はずっと、花に口付け、花を枯らして空腹を充たしていた。それは対象が植物であったからだ。仮にひとであればこうなるということは巧の頭でも容易に想像がついた。
「まあ、これを見られたからには、あなたの心の輝きごと記憶を消し去ってしまわないと」
 石黒は、巧が身に着ける真っ白なワイシャツを両手で掴み、乱暴に開いた。つつ、と人差し指が、血が巡る薄い皮膚を移動する。そこで信じられぬことが起こった。ずぶりと中指と人差し指が巧の胸に埋まり、結合部は水面のように波打った。巧の額には脂汗が浮いて、苦しい叫びが雷鳴とともにこだまする。
「心を曝け出すのはなかなかに気持ちがいいでしょう? 何が要らないですか? お母さんへの感謝? お父さんへの尊敬? それとも」
「い、いやだ! 出すな!」
「ああ、これがいい。一際輝いている」
 石黒の手が無理やりに引き出され、指のさきで摘みあげられた葉から、橙色の粘液が細く伸びた。石黒はそれを指で救い上げて口へと持っていく。
「『限界を理解しない心』……いいですね、ぞくぞくする。さては巧さん、蓮さんだけじゃなくて、ほかのひとにももっと好かれたいと思っていましたね。なんて贅沢で、なんて恥知らずなのでしょう」
「見るな、見ないでくれ。そんなものを自覚させないでくれ」
 巧は強制的に曝け出された醜い願望を恥じた。蓮との友情も大事であったがもっと欲しいと心の奥底で願っていた。谷崎とも、合唱部の部員たちとも、教室のみんな、果ては学舎全体。若く愚かな欲望が巧のうちから吐き出され、両目から、いつのまにか滝のように涙が流れた。石黒は、巧の顔に己の唇を近づけて、塩辛い哀しみの現れを執拗に舐め取り、嘲笑う。
「……蓮、蓮、助けてくれ。会いたい、会いたいよ、どこに行っちまったんだ」
 それは咄嗟に出てきた巧の本音。石黒は、その言葉に、裂けんばかりに唇の端を吊り上げる。
「彼に会いたいのですね。それがあなたの願いですか」
 泣きじゃくったまま巧必死に首を縦に振る。
「よろしい。その願いを叶えて差し上げましょう。ですが、ここは『祈りの門』ではないし、僕の行動にも制限がありますゆえ、ヒントのみをお教え致します。あなたの学力と家柄があれば、それだけでも願いを叶えられるはずだ」
 石黒は立ち上がった。浮かぶ朱色のひかりが、暗黒の手の中で小さくなっていき、同時に巧の意識が混濁しはじめる。
「まちの中心にある研究所――寺院へ、『何も知らぬ盲目の魔王』が眠る培養槽の玉座へ行きなさい。あなたのキスが彼を目覚めさせることでしょう」
 呪いのような声を耳にしながら、巧は意識を完全に手放す。
 ……そして、夢を見た。彼の隣には茶トラの子猫が行儀良く座っていて、すぐそばには特撮番組のおもちゃとフィギュアが乱雑に置かれていた。右手にはヒーローが、左手には、醜い姿をした怪人が持たれている。怪人の種類は四種類で、どれも、人間の形に、動物や機械や、よくわからないものが幾つも付いていた。しばらくリビングで人形遊びをしていた巧であったが、ダイニングテーブルのうえに置かれた電話が鳴り、おもちゃを投げ出して、母親が電話を取るのをじっと見た。
「おとーさん?」
 母親は口だけを動かして、ちょっとまってねと父親との会話を進めたが、最初は笑顔だったものの表情がどんどん暗くなっていき、静かに通信を切った。母親は、持っていた電話をテーブルの上に置いてしゃがんで、巧と視線を合わせて言う。
「お父さんね、お仕事が忙しくて帰られないって」
 幼い巧は頬を膨らませる。今日は巧の誕生日で、本来なら定時で帰宅できるはずだった。
「おとーさん、どうして帰ってこないの。今日はぼくの誕生日だよ」
「わがままを言わないの」
「やだ! お父さんキライ! お母さんもキライ! チャコ! 行くよ」
 涙を拭いながら走っていく幼い子に、チャコと呼ばれた子猫がついていく。巧の手には、さきほど遊んでいたヒーローと怪人のオモチャが持たれていた。巧は、そのまま家の二階にある寝室に入った。布団のなかに潜り込んで、人形たちを中で並べると、掛け布団の隙間から猫もやってくる。人形たちとチャコはこのころの巧にとって唯一の友であった。富裕層ではあったものの、父親は仕事で家に滅多に帰宅できず、そのせいで父無し子として他の子からからかわれていたためであった。
 布団のなかで猫と友に丸まり、幼い巧はこんなことを思う。――ヒーローと怪人が、ぼくとともだちになって、ぼくを守ってくれればいいのに。そんな願いを感じ取るように猫は巧の涙を舐める。
「ごめん、チャコもだよ。チャコも友達だよ」
 ……そんな幼い日の思い出が、徐々に白んでゆき、低二重音声の女性言葉が巧の聴覚を刺激して、巧は完全に覚醒する。
「巧くん、巧くん! 起きて!」
「あれ、怪人?」
「な……! 馬鹿!」
 寝ぼけた巧の頭に谷崎の鉄拳が落ちる。巧は痛みで飛び起き、キョロキョロと首を動かして周囲を確認する。巧が眠っていた場所は楽器倉庫ではなかった。彼は音楽室の机のうえに突っ伏して眠りについていたようだった。
「谷崎、先生は?」
「ああ、中島先生なら、そこの楽器倉庫を片付けたあとに職員室に戻ったわ」
 巧は中島という名前に違和感を覚える。
「合唱部の顧問、か? そんな名前じゃなかったような。え、っと。あれ、石、石……」
「何を言っているの。この学校に石が付く苗字の先生は居ないわ。それに、蓮くんが転校しちゃったからって、学級の掃除をサボって、こんなところでいじけてたなんてあなた最低よ。さあ起きて」
 谷崎の喉元から伸びる触手が巧の首を絞め上げ、巧は息が出来なくなり暴れる。
「やめろ、やめろって。行くよ、行くから」
 触手が首を解放し、谷崎は巧から離れて音楽室の扉を開いた。窓から差し込む光が谷崎の焦げ茶の影を透かし、巧は言い知れぬ閉塞感と悲しみを感じて沈黙する。口を噤んだ巧を谷崎は不思議そうな顔で見た。
「どうしたの? ……ああ、さては、試験の結果が悪かったな。そういえばそろそろ進路決定の時期だものね、私はどうするかなあ。巧くんは、どうするの」
「俺か、俺は」
 あの寺院へ行くのです――。
「俺は進学する。一番階級が高い教育機関へ」
「それじゃ、地下に戻るんだ。でも、なにも進学先はそこだけじゃないでしょう。地上でも学力の高い学校はあるよ」
「いや、俺は、あの研究所に行くしかないんだ」
 谷崎は、握り締められた巧の手に持たれている毛糸のキーホルダーに気が付いて、思い出したように呟いた。
「そういえば、蓮の花は極楽に咲く花らしいわ」
「おまえはここが極楽に思えるのか」
「いいえ、地獄よ。それも中途半端な。……それでも私は、地獄で生きる人の姿は美しいと思う。まるで泥のなかから茎を伸ばして咲く蓮のようにね」
 そう言う谷崎の瞳は、巧を真っ直ぐと捉えるが、巧はどうしてか目を合わせることができず、ふいに逸らした視線のさきには寺院があって、雲が漂う青空を貫いていた。
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