2 軍人作家

文字数 6,479文字

2 軍人作家
 文豪は、その前半生においては、非常に19世紀的である。文豪は、1828年、トゥーラ県ヤースナヤ・ポリャーナで、ニコライ・イリイチ・トルストイ伯爵の四男として生まれている。軍人だったニコライが家督を継いだとき、その父イリヤのギャンブル癖などによる浪費によって莫大な借金を抱え、トルストイ家は破産寸前だったが、名門中の名門ボルコンスキー公爵令嬢のマリアとの結婚が事情を好転させる。ヤースナヤ・ポリャーナも、元々は、ボルコンスキー家の領地であり、マリアの持参金の一部である。

 30年8月に母マリアが亡くなり、37年1月、一家でモスクワに転居したものの、6月、父ニコライが脳溢血でこの世を去ってしまう、叔母のアレクサンドラ・オスティン=サーケン夫人が兄弟の後見人になったけれども、41年3月、彼女もまた亡くなる。そこで、兄弟はモスクワから新しい後見人のベラゲーヤ・ユシコーヴァ叔母の住むカザンへと移ることになる。

 文豪は、1844年9月、将来は外交官にという叔母の期待もあって、カザン大学東洋学部アラブ・トルコ語課に入学する。19世紀の欧州の国際政治を支配する原理は「力の均衡」であり、外交官と軍人はその舞台の主役である。しかし、翌年の進級試験に落ち、法学部へ転学したものの、47年4月、中退している。ジャン=ジャック・ルソーの全集を読み耽り、飲む打つ買うを覚え、かの有名な日記がつけ始められるのも、カザン大学法学部に在籍していた頃からである。その後、ヤースナヤ・ポリャーナに戻り、農村改革を試みたけれども失敗し、翌年の10月、逃げるように、モスクワに行き、賭博や暴飲、買春に明け暮れる自堕落な生活に陥ってしまう。49年1月、やり直してみようとペテルブルクへ移り、4月にペテルブルク大学の法学氏の検定試験を受検しが、不合格となり、やむなくヤースナヤ・ポリャーナに帰っている。

 ここまでは多くのロシア作家に見られる悩める青春像、すなわち「余計者」の典型である。西欧の進歩的思想を身につけながら、ロシアの現実を知らないために、その才能を社会のために発揮できず、倦怠と怠惰、猜疑心に苛まされながらも、行動できないでいる人物である。それは近代化を急務にもかかわらず、依然として農奴制が根強く残るロシアの矛盾を最も体現している。しかし、文豪はそういった青白いインテリの苦悩から抜け出す。

 1851年4月、文豪は長兄ニコライに連れられてコーカサスへ発つ。兄の所属するは第20砲兵旅団第4大隊の駐屯地スタロフグラトコフスカヤに、40日の長旅の後、到着し、入隊している。血沸き肉踊る英雄物語としての軍隊生活、ならびにアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンが賛美したコーカサスの雄大な大自然に憧れたからである。

 文豪が宿泊していたのはコサックの村である。15~16世紀頃、モスクワ公国は100以上の民族が共存していた中央アジア一帯へと勢力を拡大し、タタールやカザン、アストラハンなど次々と武力で征服していく。しかし、各地に点在するコサックは遠征するロシア軍に執拗にゲリラ戦を仕掛け、悩ませている。中でも、1670~71年にドン・コサック首領ステンカ・ラージンに率いられた農民反乱が有名であろう。コサックはロシア東南辺境で牧畜・狩猟・漁業・交易・略奪などによって正業を営んでいる。けれども、16~17世紀には、モスクワは手を組んだ方が得策だと方針を転換し、彼らに多くの特権と耕地を与えるようになる。コサックはロシア皇帝に忠誠を誓い、辺境防備の屯田兵として働いている。スタロフグラトコフスカヤのコサック村もそういった拠点の一つである。

 1801年、コーカサス山脈の南側に位置するグルジア王国がロシア帝国に併合される。けれども、山岳地域に住む少数民族はロシア支配に抵抗運動を続ける。特に、チェチェン人は勇猛果敢に戦闘を挑んでくるため、業を煮やしたロシアは彼らを討伐すべく、コーカサス各地に部隊を派遣する。文豪が加わったのは、このチェチェン掃討作戦の軍である。

 駐屯は、状況の変化に応じて、移動する。到着して一ヶ月後に、ニコライがスタールイ・ユルト防衛に転属になったため、文豪も同行することになる。入隊したとじゃいえ、まだ正式採用ではなく、階級もない一兵卒である。文豪は、最初こそは我慢していたものの、すぐに堪えきれなくなり、トランプからチェス、ビリヤードなどありとあらゆるギャンブルに手を出し、さらに、暴飲と女遊びも再開している。ただ、以前と違い、空いた時間を見つけては、意欲的に読書や執筆に勤しんでいる。日記やエッセーだけでなく、小説にもとり組み始めている。

 文豪は戦闘にも参加し、チェチェン人の村を襲撃した際、ほとんど虐殺に等しいことまで行っている。野蛮で無益ではないかと戦争に疑問を持ちながらも、いざ始まると、カーッとなって、ロバート・デ・ニーロが演じた『ディア・ハンター』のマイケルのように、狂ったように銃を乱射し、家々に火をつけて回っている。ただ、それによって文豪は兄や部隊の先輩たちから軍人として認められている。

 一兵士として襲撃などにも参加していたが、翌51年1月、士官候補生試験を受け、第4砲兵中隊4級下士官として正式に配属される。52年に、文豪はペテルブルクで発行されていた『現代人』誌に『幼年時代』を投稿し、9月号に掲載され、作家としてデビューする。ロシア文壇ではこの無名の作家への賛辞が沸き上がっていたが、文豪は戦闘で九死に一生を得たり、捕虜になりかけたりするなどそれを十分に知る由もない。53年、軍事行動に対して疑問を感じ、また作家に専念するために、退役願いを提出するが、ちょうどそのとき、ロシアとトルコの間でクリミア戦争が勃発し、当然、受理されることはない。

 16世紀以降、フランス王が聖地エルサレムの管理権を保有していたが、フランス革命時に、ロシアの支持を背景にギリシア正教会がそれを獲得する。けれども、ナポレオン3世がオスマン・トルコに要求し、管理権を再度フランスへと戻している。ロシア皇帝にコライ2性はこれに不満を募らせ、トルコ領内のギリシア正教徒保護を口実に、トルコへ宣戦布告し、クリミア戦争が開戦する。54年3月に、英仏、さらに55年1月にはサルディニアがトルコ側に立って参戦している。

 文豪は、54年1月、少尉補に昇進し、ドナウ川方面軍へ異動となる。7月、仲間が戦っているのに、こんなところで呑気にしていられないとクリミア方面軍への転属願を提出し、11月、セヴァスト-ポリの第14旅団第3軽砲兵中隊に配属される。そこはセヴァストーポリの後方を固める後援部隊だったが、翌年の4月、最前線の第4稜堡に異動となっている。

 セヴァストーポリはクリミア半島にある国会最大の軍港である。しかし、海軍力に勝る英仏は,54年9月、トルコ軍をも含め6万の大軍をクリミア半島に上陸させ,セヴァストーポリ要塞の奪取がこの戦争の結果を決めると陸海から包囲する作戦を採る。他方、ロシアはセヴァスト=ポリの港口に自艦を沈め、敵艦隊の侵入を阻むと共に,要塞の防備を強化して陣地船に備えている。11カ月に亘って続けられた包囲戦は過酷さを極め、11万8,000名の戦死者を数えている。英国の看護士フローレンス・ナイチンゲールは弊社病院の衛生状態を改善し、「クリミアの天使」と賞賛されている。彼女の活躍に刺激を受けたスイスの銀行家アンリー・デュナンは、後に、国際赤十字運動を提唱することになる。55年8月25日、マラーホフ高地が連合国の手に落ち、事実上クリミア戦争の勝敗はつく。ロシア軍は要塞を自ら爆破、艦隊も沈め、北へ撤退する。産業革命をいち早く経験し、産業の近代化を達成した英国と比較して、帝政ロシアの後進性が露呈した結果に終わっている。

 文豪は、戦闘の合間に、セヴァストーポチ攻防戦の模様を三部作の小説にして『現代人』で連載している。55年6月に公表された一作目『一二月のセヴァストーポリ』が大評判を巻き起こす。この戦記文学に感動したアレクサンドル2世は、広く読まれるために、フランス語に翻訳するようにと命じ、『ル・ノール(Le Nord)』誌に仏訳が掲載されている。
 その文豪は、炎上するセヴァストーポリの稜堡に上がるトリコロールを目にして、「何のために戦ってきたのか」と男泣きしている。11月、戦闘終結と共に、クリミアからペテルブルクへ行く。56年11月最終階級中尉で除隊する。

 ペテルブルクで、文豪は類稀な才能に恵まれた若き作家であると同時に、血みどろの戦闘で活躍し、勲章を獲得した英雄として、熱烈な歓迎を受ける。けれども、上流階級や知識人、作家たちとの折り合いがよくない。文豪は、軍人としても、作家としても、叩き上げである。貴族の子弟であるにもかかわらず、一兵卒として入隊し、実戦の中で軍隊とはいかなるものであり、戦い方とはどのようなものであるかを身体で覚え、戦闘での功績を認められて昇進を重ねている。また、作家としても、戦闘の合間に、活字を読み、ペンを走らせている。入隊前から哲学や文学などを独学していたけれども、体系的な学問を専的に勉強した経験に乏しいし、文学的交流もほとんどない。こうした叩き上げからすれば、現場もろくに知らないで、エリート意識を鼻にかけ、お高くとまり、愚かな民衆を指導しなければならないという態度には我慢がならない。文豪はペテルブルクを離れて領地に戻り、雑誌へ寄稿したりはするものの、文壇との関係はほとんど断ってしまう。

 従軍体験を記した小説を始め、日記や書簡などを読むと、軍隊で獲得した認識が文豪の思想形成に少なからず影響を及ぼしていることが明らかとなる。

 文豪は、領地に腰を落ち着けると、農民の指定向けの学校を開校している。これには以前から親しんでいた和ルソーの影響は確かだとしても、文豪は、軍隊で、数多くの手紙の代筆を頼まれている。読み書きのできない兵士の多さに驚き、教育の必要性を痛感している。この学校では、民話をテキストにしていたように、民衆が自ら生活の中で発見し、育ててきた知恵を継承・利用していくための識字教育を主眼としている。無知の民衆に教育を施してやる思い上がった態度ではない。初歩的なリテラシーが身についていないで、すでにもっているいいものを発揮できないのはもったいないという思いが文豪にはある。

 また、文豪は死刑制度廃止を唱えていたが、そのきっかけは、1857年にパリを訪問したときに見たギロチンによる公開処刑である。戦場での死には、名目上にすぎないかもしれないとしても、「祖国のため」とか「民族のため」とか大義がある。けれども、近代文明の都であるはずのパリで紙が見世物になっている。文豪はこうしたショックから死刑制度に疑問を覚え、考えを深めている。

 文豪は、戦場で、戦争が英雄物語ではないことを知る。戦闘に実際に携わっているのは読み書きもままならない無名の兵士たちである。彼らは、生き残るために、極力無駄な動きをせず、目立たず、昼用最低限のこと以外を口にしない。しかも、軍隊は上意下達のヒエラルキー構造の組織であり、兵士たちが戦うのはチェチェン人に対する個人的感情ではなく、上官の命令だからである。

 御厨貴は、『エリートと教育』において、第二次世界大戦の戦時体制下での人材の「接触効果」が高度経済成長への道をサポートしたと次のように述べている。

 戦時動員体制は、一九四三(昭和十八)年に主として中学校以上の勤労動員、そして大学生の学徒動員を決めた。かくて戦前の教育体系が予想もしなかった方向への人材の戦時強制動員が行われた結果、戦後へいくつかの人材育成面での遺産を残すこととなった。もちろん、戦争のため多くの有為な人材が失われたことは言うまでもない。しかし明治の教育体系が解体の危機に陥った時、軍隊や軍需工場の中で、これまでは絶対接することのなかった人間同士の接触がおこった。嫌な思い出もたくさんある反面、戦後すぐの教育への情熱、進学熱はこうした「接触効果」(小池和男)がもたらした。猪木武徳の指摘にある通り、戦後の新制高等学校の進学率の上昇、激しい学歴競争と企業内競争が、経済復興から高度成長へと進む戦後日本をサポートしたことは疑いえないであろう。

 この状況は第二次世界大戦の参戦国においてほぼ同様のことが起きている。文豪にも、従軍経験は「接触効果」をもたらしている。20世紀には決して珍しい現象ではないが、当時は異例であり、それによって民衆を実感でき、文豪は余計者根性にとらわれなくなる。

 しかも、文豪が初めて体験した戦争は、国家間戦争ではなく、ゲリラとの非対称線である。いくら残忍な手を使って弾圧しても、チェチェン人はロシア軍に何度も反撃を繰り返してくる。文豪は、その理由を知りたくなり、チェチェンならびにロシアの歴史を独自に調べ始める。地域研究から戦争を考えるのは、極めて現代的である。武力でコーカサスの諸民族を押さえこもうとしても、完全に制圧するのは難しい。短期的には制圧できても、長期的に封じ込めるのは困難であり、莫大な戦費、無数の死傷者、住民からの反感の高まりなどデメリットが多すぎる。軍事力で正規軍を壊滅させれば、ゲリラが登場し、それも掃討すると、今度はテロを仕掛けられる。この変遷は今日に至るまで世界各地で続いている。しかも、山岳民族には、ロシアの南下政策を阻むために、イギリスから軍事支援を受けている。この兵器はロシア軍よりもはるかに高性能であり、掃討作戦は思うようには進まない。文豪は、こうした悪循環を断ち切るためには、対話路線へと転換し、和平に向かうべきだと結論付ける。文豪の平和主義は人道主義だけでなく、優秀な軍人の持つプラグマティズムも少なからず見られる。チェチェンは、現在でも、ロシアにおける最大の民族問題であり、文豪の判断は適切だったと言える。

 文豪は戦争に反対しながら、いざ始まると、勇猛果敢に戦闘に参加している。これは必ずしも矛盾する姿勢ではなく、優秀な軍人には往々にして見られる。軍人が好戦的であるとは限らない。イラク戦争開戦に積極的だったのはディック・チェイニー副大統領やドナルド・ラムズフェルド国防長官であって、軍首脳は慎重な態度をとっている。結局、デヴィッド・ハウエル・ペトレイアス将軍は、2008年10月、イラクではスンニ派、アフガニスタンにおいてはタリバンとそれぞれ協力関係を結び、治安を回復して撤兵する考えを示している。優れた軍人には冷静な判断力と大局的な認識が不可欠である。また、軍人上がり政治家が素朴な武力解決を斥け、戦争に消極的で、対話路線をとるケースは少なくない。イツハク・ラビンやコリン・S・パウエルなどはその好例である。さらに、関東軍の参謀だった石原莞爾に至っては、あれほど謀略をめぐらせた過去があるにもかかわらず、戦後、日本は日本国憲法第9条を武器として一切の武力を放棄して、米ソ間の対立を融和させて、世界が一つとなるべく寄与せよと主張し、故郷の庄内に開いた「西山農場」で同志と共同生活を送っている。これなどほとんど文豪の後半生そのものである。文豪は、1896年、『終末は近づけリ』で兵役拒否を英雄的行為と讃えるが、それも不思議なことではない。

 このように、軍隊生活は文豪から余計者根性を払拭させだけでなく、下からの視点を身につけさせている。文豪は、従軍経験によって、民衆と通底する入り口を見出している。文豪を世界的なスーパースターにしたのには、グローバル規模での通信・交通の伸張も確かに大きいが、つねに下からの視点で意見を発し、行動し続けたことも見逃してはならない。この下からの視線が文豪に20世紀を先取りさせたと言っても差し支えないだろう。
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