1 20世紀の人間

文字数 6,685文字

レフ・トルストイ=スーパースター
Seaven Satow
Oct. 31, 2008

「ロシアには皇帝が二人いる。ニコライ2世とレフ・トルストイだ。どちらが強いか?ニコライ2世はトルストイに何一つ手出しできないし、その王座を揺るがし得ないが、トルストイは疑いなくニコライの王座とその王朝を揺るがしている」。
アレクセイ・S・スヴォーリン

1 20世紀の人間
 その行くところはどこであっても、たちまち人だかりができあがる。1906年に、モスクワの別送から同市内のクルクス駅で汽車に乗り、ヤースナヤ・ポリャーナへと向かうまでの模様を記録したフィルムが残されている。

 駅までの道を何万人もの群衆がお目当てのやってくるのを今か今かと待ち望んでいる。顔ぶれは俳優やジャーナリスト、商人、労働者、学生などありとあらゆる階層の人々であり、その前方には写真機や映像撮影機をセットしたカメラマンも数多くいる。一台の幌馬車が近づいてくると、群衆は誰からとも言うわけでもなく、一斉に「万歳!」と叫ぶ。通り過ぎるやいなや、今度は大勢がその後を追いかけていく。クルクス駅は人であふれかえり、駅舎や貨車の屋根の上にまで登っている者さえ少なくない。汽車が走り出すと、ある男がそれに向かってこう絶叫する。「あともう100年生きてくださいよ!さようなら!」

 群衆が熱狂していたのは、華やかな俳優でもなければ、超人的なアスリートでも、命知らずな冒険家でも、天才的なミュージシャンでも、腐敗した体制を打倒した革命家でも、祖国を勝利に導いた凱旋将軍でも、経済を牛耳る資本家でもない。この人物こそ文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイにほかならない。メディアが追い求めた史上最初の世界的なスーパースターである。

 しかし、このときの文豪はすでに78歳である。決してハンサムとは言えないけれども、マット・デイモンに似ていた頃のロシア文壇の新星ではもはやない。真っ白な髪と髭を伸びるにまかせ、しわくちゃで、歯が抜け、口から吐く息が臭い老人である。けれども、その姿は、ユダヤの民の出エジプトを率いたモーゼはもしかするとこんな感じだったのではないかと思わせる。

 19世紀、欧米では、産業革命の進展と公教育の拡充によって、新聞や雑誌、書籍など活字媒体の産業が急速に発展する。紙の値段が格段に安くなり、新聞も広告収入によって安価に抑えるビジネス・モデルは普及する。アレクサンドル・デュマやチャールズ・ディケンズなどを始めとした多くの売れっ子作家が登場し、彼らはセレブやオピニオン・リーダーとして世間の耳目を集めるようになる。ディケンズは自作の朗読会の公演ツアーを定期的に行い、まるでビートルズのごとく、いつでも満員盛況である。次第に、オスカー・ワイルドのように、作品を発表する前に社交界で名を広めてから、時代の寵児ともてはやされる作家まで現われている。人に知られた名前を持つことが何よりも成功への近道となる時代が到来しつつある。

 20世紀に向かうにつれ、世界的な通信・交通網が整備されて、写真や映像、蓄音機などの記録媒体が出現してきたため、情報はかつてないほどの速度で地球上を駆けめぐり、人々に衝撃を与えるようになっている。

 映像メディアが一般に普及した後には、それ自身が生み出した映画俳優のようなスターが世間の話題となるが、この頃はまだ発達途上である。生まれたばかりの映像メディアも、まずは、活字文化のスターを被写体としている。ちょうどその時期に最も世界的な名声を確立していた作家が文豪である。

 文豪の名前を世界的にしたのは、1869年に完成した大著『戦争と平和』である。驚異的な調査力と自身の戦争体験に基づき、人間業とは思えない構成力が展開されるこのアナトミーの傑作は、信じがたいことだが、ロシアの知識人の間では不評で、一般読者から人気に火がついている。『戦争と平和』は19世紀ロシア文学と言うよりも、世界文学史上に燦然と輝く傑作の一つである。文豪の名前は欧米を超えて、世界中に広がっていく。

 名声を確立していたのは、確かに、文豪だけではない。しかし、文豪はかねてより社会的発言や実践活動を積極的に行っている。商業メディアにはニュースを提供してくれる人はありがたい。世界的な大作家が、何か事件や出来事が起きると、即座に意見を表明する。それは直ちに多数の言語に翻訳されて、各地に配信される。これが繰り返されれば、されるほど、さらにその名前の認知度は増大する。

 1904年、日露戦争が勃発すると、『北米新聞(North American Newspaper)』が文豪にどちらの国の味方になるつもりかと尋ねた際、「私はロシアの味方でもなければ日本の味方でもなく、良心と宗教と自己の幸福とに反してまで戦うよう政府によって横着され強制された両国の労働階級の味方である」と2月9日に答えている。さらに、文豪は、6月13日、日露戦争に関する論文『反省せよ!』をイギリスの出版社から刊行すると、各国の新聞に翻訳・転載される。

 何万キロもたがいに離れている人間同士が、一方は人だけでなく動物すら殺すことを禁じる掟をもつ仏教徒、一方はすべての人を兄弟とみる精神と愛の掟を信じるキリスト教徒であるのに、彼らは、野獣のように残酷きわまる殺しあいをするために、陸に海に敵を探し求めている。

 日本でも、6月27日付『タイムズ』紙の記事を元に、週刊『平民新聞』が8月7日号に日本語訳を掲載し、『東京朝日新聞』も「トルストイ伯 日露戦争論」と題して8月2日から20日に亘って連載している。戦争支持だった石川啄木は、この論文を読むなり、慌てて、反戦に立場を変えている。また、与謝野晶子は、文豪の訴えに応えるべく、『明星』9月号に「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きてという詩を寄せる。その仲の「君死にたまふこと勿れ」の一節は、反戦の言語的シンボルとして、時代を超えて語り継がれていく。

 教えや忠告を求めて、チェンジ・プロデューサーである文豪の元を訪れたり、手紙を送ったりする人も少なくない。1894年、小西増太郎は、ロシアに留学中、文豪と共同で老子のロシア語訳に着手している。彼の記した『トルストイの葬儀』は、文豪の葬儀の模様を知る貴重な資料となっている。ちなみに、この小西増太郎の息子が「なんとー申しましょうーかー…、打つも打ったり、捕るも捕ったりのプレーであります」の名調子でお馴染みの野球開設者小西得郎である。また、96年に、徳富蘇峰と深井英吾、06年には、徳富蘆花夫妻がヤースナヤ・ポリャーナ詣でを行っている。他にも、1904年、安倍磯雄は、文豪との間で、社会主義に関する考えを書簡で交わしている。

 大正時代の文学者の間で、文豪の影響力は圧倒的である。挙げればきりがないが、感銘を受けて、武者小路実篤は「新しき村」を設立し、有島武郎は有島農場を小作人に解放したのはその代表だろう。加えて、1914年、芸術座が文豪の『復活』を上演した際、松井須磨子がカチューシャを主演し、『カチューシャの唄』が大流行している。今日でも、女性用のC字型ヘアバンドは「カチューシャ」と呼ばれているのは、このヒットに由来している。

 文豪は、19世紀の活字文化が育んだと同時に、20世紀の複製技術時代が生み出した最初のスーパースターである。と言うよりも、20世紀における知識人やセレブによる社会的活動の巨大なプロトタイプである。

 文豪は、識字率向上を目指して農民の子供向けの学校を開校するなど社会的な活動に取り組んでいるが、それも同時代的な潮流と無縁ではない。19世紀後半、多くの社会改良運動が自発的に生まれている。夜警国家が関の山といった時代であり、セーフティネットが不十分であり、差別や偏見も野放しに近い状態である。婦人参政権運動、セツルメント運動、民芸運動、労働運動などと同様、文豪の活動もその一つに含めることができる。見るべきなのは、19世紀的なことをしながらも、文豪が20世紀を感じさせる点である。

 20世紀を先行していたと指摘するだけでは、19世紀ならびに20世紀の特性を曖昧にし、神話的な通説に寄りかかっているにすぎない。そもそも、20世紀が19世紀より進んでいるという進歩主義を前提とすべきではない。

 ロマン・ロランは、『トルストイの生涯』において、文豪の誌はロシアの革命前夜にふさわしく、20世紀を先取りしていたと言っている。文豪が永眠する直前まで国家と教会は宗教的態度を改めさせようとし、さらに11月9日の葬儀の際には、当局は葬列を包囲、駅を厳重に警戒して、1万人を超える民衆のエネルギーの高まりを沈静化させようと躍起になっている。しかし、兵士も警官も、場の雰囲気に圧され、脱帽・伏拝せざるをえない。19世紀、エリート層と民衆の間には隔たりがあり、前者が後者を指導して無知蒙昧から脱却させ、正しい道へと導かなければならないと考える知識人は少なくない。ところが、20世紀では、識字率が向上して教育水準が高まると、もはやエリートによる上からではなく、民衆自身による下からの社会改良が時代の風潮となる。文豪は人々を導いたけれども、モーゼ同様、真の意味での20世紀には足を踏み入れることができなかったとも言える。

 文豪は、コーカサスの山岳地域に居住していたドゥホボール教徒のカナダへの移住費用を援助するために、1899年、『復活』を発表している。ドゥホボール教徒は「汝殺すなかれ」を遵守する非暴力主義者であり、帝政ロシアから迫害を受けている。彼らの信条に共感していた文豪は、その印税をすべて彼らに寄付している。

 1971年8月1日、飢餓や疾病、暴力に苦しむバングラデシュ難民を救済支援するために、ジョージ・ハリソンが呼びかけ、マジソン・スクエア・ガーデンで、大規模なコンサートが開かれる。以降、ミュージシャンたちは、同様の問題が世界各地で表面化した際、救援・支援を目的としたチャリティ・コンサートを開催するようになっている。

 また、1891年から92年にかけて、南ロシア一帯を大飢饉が襲う。文豪は即座に二人の娘を伴い、現地に赴き、無料で食事を提供する救援活動を始める。さらに、この窮状を世間に知らせるため、新聞社に寄稿している。しかし、ロシア政府は飢饉の実態を隠蔽するために、掲載禁止処分を下す。そこで、モスクワの妻ソフィアが『ロシア報知』誌に夫の救援活動に関する手記を寄せ、これが国内外から大反響を呼び、ロシアのみならず、アメリカやイギリスなど各国からも支援物資が送られている。文豪は、飢饉が続く間中、活動を継続している。

 1972年12月、ニカラグアで大地震がおきたと知ると、ピッツバーグ・パイレーツのロベルト・クレメンテは、同31日、救援物資をDC-7に積み、同乗して現地へと飛び立つ。しかし、途中で墜落し、彼は帰らぬ人になってしまう。彼の精神を受け継ぐため、慈善活動を積極的に行ったメジャーリーガーに授与されていた「コミッショナー賞」は、1973年、「ロベルト・クレメンテ賞」へと改称される。

 同時代のロシアの作家には、こういった文豪の社会活動へのコミットメントに対し否定的な意見を持つものも少なくない。古からの友人イヴァン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフは、1883年の臨終の間際に、「ロシアの国のもっとも偉大な作家である自分の友に、文学に復帰するよう」にと促す手紙を書き送る。「それはあなたの道具ではない。……われわれの道具はペンである。われわれの畑は人間の魂である」。すべてのエネルギーを執筆に注ぐべきであって、そうした運動などは時間や労力をとられることは、まったくの無駄だというわけだ。しかし、20世紀はそうではない。社会的な問題に関心を示さず、作品だけ書いている作家は、むしろ、軽蔑の対象とさえなる。

 『復活』に関しては後日談がある。世界中で大評判となったが、文豪はこれにより正教会から破門される。裁判官が愛人に会うために裁判を早く切り上げたり、監獄でのミサがオペラ仕立てだったりするなど国家と教会の権威を侮辱しているというのがその理由である。しかし、この破門によって、むしろ、国家と教会は権威を余計に失墜し、赤っ恥をかく羽目になる。文豪がカノッサの屈辱などするはずもない。公然と国家路教会を糾弾し、発禁にしようとしたところで、すぐさま世界中に文豪の言葉は広まってしまう。1908年8月28日、文豪は80歳を迎える。それに合わせて、盛大な誕生会がロシア国内のみならず、ヨーロッパやアメリカ、日本、インドでも準備される。文豪が固辞したため、とりやめとなったが、全世界から2000通に及ぶ祝電が手元に届けられている。国家と教会は、そこで、何とか体面をとりつくろうとする。彼らは文豪が永眠する直前まで宗教的態度を改めさせようとし、さらに1910年11月9日の葬儀の際には、当局は葬列を包囲、駅を厳重に警戒して、1万人を超える民衆のエネルギーの高まりを沈静化させようと躍起になっている。しかし、兵士も警官も、場の雰囲気に圧され、脱帽・伏拝している。文豪の存在感は、もはやロシア皇帝や大主教が手出しできる範囲を超えている。

 これは、伝統的知識人の代表であるヴォルテールと比較すると、明瞭になる。この啓蒙時代のチャンピオンは寛容さを説き、不正や偏見、差別などと闘い、欧州の民衆の間でも知られている。けれども、社会改革の夢を託したはずのフリードリヒ大王から「オレンジは一年ほど絞って皮は捨てる」と言われ、志望して去っているし、スイス国境沿いの町に住み、当局がいつや伊保に来ても、逃走できるようにしている。

 1910年まで生きた文豪にノーベル賞をストックホルムが送らなかったのは賢明な判断である。なるほど、文豪は、1889年、戯曲『文明の果実』でロシア劇作家賞を受賞し、1900年、ロシア・アカデミーの文学部門の名誉会員に選出されている。けれども、「レフ・ニコラエヴィチ、あなたの文学は偉大なのでノーベル賞を授与致します」と選考委員会が言ったら、「何様のつもりだ?」と世界はその無礼を許さないであろう。ソ連で弾圧されていたアレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィンに贈るのとは事情が違う。文豪はノーベル賞など超えている。文豪ほどのカリスマを持った作家は20世紀には出現していない。

 文豪は、その最期に至るまで、メディアが殺到する20世紀的光景を提供している。1910年10月28日、妻との不仲が頂点に達し、文豪は次のような書置きを残し、午前4時すぎ、ホーム・ドクターのノマコヴィツキーを伴い家を出て行く。

 私の家出はお前を悲しませるであろう。私はそれを遺憾にうおもう。ただ、私がそうするしかなかったことをわかっておくれ、信じておくれ。家の中での私の立場はしだいに耐えがたいものになってしまったし、今もそうだ。他のことは全部ぬきにしても、これまで生きてきたぜいたく三昧の境遇の中でこれ以上生きてゆくことは出来ない。私は私の年齢の老人が普通することをする──自分の生涯の終わりの日々を孤独と静寂の中にすごすために、俗世の生活から立ち去るのだ。

 家出を知ったソフィアは池に身を投げ、自殺を図るが、命に別条はない。31日夕刻、文豪は、乗車中に悪寒を覚え、アスターポボ駅で下車し、駅長が宿舎を提供する。侍医は肺炎と診断して治療を始めるが、それでも、文豪は、途中で合流した娘アレクサンドラに書簡やエッセーなどを口述筆記をさせている。

 「世紀の家出」が世間の話題にならないはずもなく、報道陣もぞくぞくと駅に集まってきている、友人であり、信奉者であるウラジーミル・G・チェルトコフは、ホワイトハウスの報道官よろしく、彼らに家出の動機ならびに現在に至る経緯を説明に追わる。

 家族も次々に駆けつけたけれども、文豪は頑なにソフィアとの面会を拒否し、子供たちもそれを尊重している。すでに意識のなかった文豪は、11月7日午前6時5分、永眠する。
 しかし、その死後も、文豪の家出をめぐって、正宗白鳥VS小林秀雄など数多くの論争が繰り返される。それは、プリンセス・オブ・ウェールズの身に起きた1997年8月31日の出来事以降の騒動を思い起こさせる。文豪は20世紀を凝縮していたと言って過言ではない。
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