3 トルストイ主義と20世紀

文字数 8,333文字

3 トルストイ主義と20世紀
 文豪は20世紀を先取りしていただけではない。20世紀を変えている。しかも、文豪は晩年に至るまで過激派であったが、その最も挑戦的な主張がそれを実現している。

 文豪のラディカルさがただならないものであることは、『懺悔』から明らかになる。この作品は1882年5月に発表するものの、ロシア当局は即座に掲載誌『ロシア思想』を発禁処分としている。これは文豪にとっての『方法序説』である。自らが陥った精神の危機と回復の道筋を物語り、自分を含めた上流階級の人々の利己的な姿を批判し、イエスの教えの必要性を再考すべきだと提唱する。

 以後、続々とキリスト教研究の論文を公表する。『教義神学の研究』において、福音書を教義神学、すなわち教会から解放すべきだと説き、『四福音書の統合と翻訳』や『要約福音書』では、四福音書をギリシア語のテキストに遡って比較検討し、イエスの神格化をただし、その生涯と教えを統一しようと試みている。

 キリスト教関連だけでなく、他の主題の著作も精力的に発表したが、それらは従来の読者を驚かせるものである。その一例が『芸術とはなにか』(1898年)である。文豪は、この中で、古今の名作を扱き下ろし、罵倒する。シャルル・ボードレールやフリードリヒ・ニーチェは馬鹿げた狂人の戯言であり、ジョヴァンニ・ボッカッチョは性的放縦さの悪ふざけ、ギリシア悲劇やダンテ・アリギエーリ、ウィリアム・シェークスピア、ルードヴィヒ・ヴァン・ベート-ベンなどはしばしば無意味で、野蛮だと切り捨てる。これだけでは終わらない。自作にも容赦はなく、批判の矛先を向けている。『幼年時代』を馬鹿馬鹿しいと、『アンナ・カレーニナ』を平凡で退屈と、そもそも、概して自分の作品は「性的衝動と性的暴行の見地から描写している故に有害無益」と断罪する。その上で、文豪は、人類史上最高傑作の一つとして、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』を褒めちぎっている。

 実生活においても大きな変化が見られる。飲酒や肉食をやめて菜食主義を実践し、好きな狩猟も封印、農奴のような服装をして野良仕事に精を出す。私的所有を否定し、文豪は、1891年、1881年以降の全作品への著作権を放棄すると宣言している。本当は、すべてを対象にしようとしていたが、妻ソフィアが反対したため、1980年までの著作権は彼女に譲渡されている。なお、1910年七月22日付の遺言書で、未完既刊にかかわらず、すべての著作権は娘アレクサンドラの所有、校閲権は友人チェルトコフに帰属、出版銃範囲は一切自由と記している。

 1890年代に入り、文豪は過激さをさらに強めていく。『神の王国は汝らのうちにあり』などの一連の論文で、社会の不平等や威圧的な政治形態と教会権力を容赦なく糾弾し、福音書から見出した二つの教え、すなわち万人への愛と悪の力への無抵抗を提唱する。憎しみから解放され、良心が命ずる清廉な生活を送らなければならない。イエスの思想は山上の教訓に尽くされており、中でも、「悪人に手向かってならない」という悪に対する無抵抗が最も重要である。これがイエスの画期的な点であり、最も力強い真理である。愛にもとることをしてはならない。力の行使は暴力の連鎖を招く。自分の生活に必要な労働は、自分でできるような簡素な生活を目指すべきである。近代文明や国家、教会、私有財産を否定し、原始キリスト教こそ理想であり、悪に対して神に忠実に非暴力の姿勢をとる。この急進的思想は「トルストイ主義」とよばれるようになる。

 トルストイ主義は、一般的には、「質素な生活」を勧める禁欲主義的理想と見なされている。しかし、「暴力による悪に対する無抵抗」をモットーとするトルストイ主義は一種のアナーキズムである。17世紀半ば、ロシア正教会下で行われた典礼改革に対して、その受け入れを拒否し、いくつかのセクトが教会から独立している。皇帝アレクセイの信任を得た総主教ニーコンは教義と無関係と思われる瑣末なことを改革と称したため、それを皇帝による介入と判断した聖職者たちは分派する。これは「教会分裂(ラスコール)」と呼ばれる。「分離派(ラスコーリニキ)」は社会の各層に支持を広げ、文豪も関心を強く持っている。その中には、鞭打ちによって神との一体化を試みる鞭身派や一切の性的快楽を拒絶する去勢派などがある。トルストイ主義にはこれらのセクトからの影響を無視できない。被抑圧者の暴力を権力への対抗手段として肯定する傾向にあるが、文豪はそれも否認する。悪は善に意依存している。悪は善に対するアイロニーとして反動的に形成されるが、これに慣れていると、いつの間にか、善を悪に対するアイロニーとして反動的に把握してしまう。非暴力の行使は悪を擁護するものでも、被抑圧者に忍耐を勧めるものでもなく、「万人のため、従って権力を所有する人々、わけてもこれらの人々のためである」(アンリ・アルヴォン『アナーキズム』)。無抵抗主義が真に教訓的なのは、主人のほうであって、奴隷ではない。

 アンリ・アルヴォンは、『アナーキズム』において、トルストイ主義次のように要約している。

 あらゆる抑圧形態を敵視しながらも、トルストイは財産制度に抵抗することしかできない。富は罪悪である、なぜならそれは富を所有する者の所有しない者にたいする支配を保証するからである。このような財産の帰趨は、生産手段、土地、道具が問題となるとき、とくに顕著となる。生産手段の所有者は、もっぱら自己のために労働者を労働させることができる。トルストイの考える解決法は、愛の公理から着想を得ている。どんな人間も、みずからの力量に応じて労働する。ところが必要な分を得るだけで、それ以上は得ていない。このようにして、人間は自分自身の生活手段だけでなく、病人や老人、子供たちの生活手段も確保していないことになる。すべての個人的利益の排除、トルストイはこれを福音書の名において主張する。またミールの支配原理を念頭において、これを主張するのである。ミールとはロシアの農村共同体で、そこでは万人がその個人的利害にとらわれずに全員一致して労働する。

 文豪は、「絶対君主制であろうと、議会制であろうと、総督政治であろうと、第一あるいは第二帝政であろうと、ブーランジュ式の統治であろうと、立憲君主制であろうと、コミューンないしは共和制であろうと」(『アナーキズム』)、いっさいの国家も政府も認めない。数あるアナーキストの中で最も激しい口調で反国家の言葉を書き記したのは、マックス・シュテルなーでも、ピエール=ジョゼフ・プルードンでも、ミハエル・バクーニンでもなく、誰あろうこの文豪である。

 1900年頃、トルストイ主義は、その知名度ほどではないにしろ、一定の影響を及ぼしている。しかし、それはアナーキズム運動の流行の一つにすぎず、ヘンリー・デヴィッド・ソローやウィリアム・モリスなどと同様に捉えられ、人道主義や反近代主義といったソフィストケートされて受容されている。または、生命活動を精神ではなく、自然の側から捉えるルソーやゲーテなどの系譜にあると理解しようとしている。反国家主義や無抵抗主義といった最も過激で革新的な思想は顧みられることはあっても、非現実的な夢想と重要視されていない。稚拙なメシア主義にすぎず、強烈な個性がなければ、時代錯誤と切り捨てたい欲求に駆られている。

 しかし、その欧米の帝国主義に苦しむ地域では事情が異なる。むしろ、無抵抗の非暴力主義が最も受け入れられ、政治行動として実践される。それは政治思想として欧米人による植民地支配を終わらせる勝利をもたらしている。

 文豪は、1940年9月7日、ヨハネスブルクのモハンダス・カラムチャンド・ガンジーと名乗るインド系弁護士へ自らの思想を託すような返事を書き送っている。

 貴誌「インディアン・オピニオン」いただき、無抵抗主義の人々について書かれているいろいろなことを知って嬉しく思いました。で、この雑誌をよんで私の中に湧いてきた意見をお話したくなった次第です。
 長生きするほど、ことに、死の影を間近にまざまざと感じる今は、他の人々に、私がとくに生々と感じていることを、私の考えではきわめて重要なことをいよいよもってお話したくなりました。他でもありません──無抵抗と呼ばれてはいるが、本質は、虚偽の解釈によって歪められない愛の教えに他ならぬものについてお話申し上げたいのであります。愛、すなわち融合一致への人類の魂の渇望と、この渇望から生ずる活動は、人間生活の最高にして唯一の掟であり、このことはだれでも心の奥底で感じ、知っていることで(子供に一番明瞭にみるごとく)、人が虚偽の平和の教えに迷わされない間は、知っているものであります。

 私どもにはこの世の果てのように思われるトランスヴァールにおけるあなたのご活動は、現在世界で行われているすべての活動の最も中心的な、最も重要なお仕事──キリスト教の国民ばかりでなく、あらゆる世界の国民が必ずや参加するに違いないお仕事であります。

 後に「マハトマ」と敬意を表されるこのガンジーによって、トルストイ主義は、インドで独立という劇的な勝利を治めることになる。「暴力を用いて欲深い人たちを追払った人たちが、つぎには自らが、その敗北者と同じ病気に悩むことになる。これは歴史が教えてくれたことである」(ガンジー『ガンジー自伝』)。

 トルストイ主義に深く影響を受けたヨーロッパの思想家の中に、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホがいる。政治思想としてのトルストイ主義を理解するには、マゾヒズムを考察することが助けとなる。

 ジル・ドゥルーズは、『マゾッホとサド』において、マゾヒズムを次のように解説している。

 マゾヒスト的自我の破壊は、表面的なものであるにすぎない。みずからごく弱々しいものだと告白する自我の背後に、驚くべき嘲笑が、ユーモアが、したたかな反抗が、勝利が身を隠していることだろう。自我の弱々しさは、マゾヒストが仕掛けた罠であり、その罠が、女を振りあてられた機能の理想的な点へと導くものなのだ。マゾヒズムに何ものかが欠けているとするなら、それはいささかも自我ではなく、超自我である。
 マゾヒズムとは、超自我がいかにして破壊され、またそれが何の手によるのか、そしてその破壊から何が生起するのかを説く一篇の物語である。聴き手はえてしてその物語を聞き違い、まさに超自我が死に瀕した瞬間に、それが勝利したと思いこみがちである。それは、およそ物語といわれるものにはつきものの、また物語に含まれる「空白」につきものの危険である。

 サディズムとマゾヒズムはまったく別の動機と異なる意味を持っている。前者がカント主義に対するアイロニーであるとすれば、後者はヘーゲル主義のユーモアである。サディズムはつねにテロリズムとして政治的に顕在化する。サディズムの目指すものは破壊であり、それを通した再生である。一方、マゾヒズムには「主人と奴隷」の関係がある。G・W・F・ヘーゲルは、『精神現象学』において、自己意識をめぐる「主人と奴隷」の寓話を説いている。「自己意識は即自的かつ対自的に存在するが、それは、自己意識が小文字の他者に対して即時的かつ対自的、すなわちもっぱら承認されたものとして存在する限りにおいて、かつそのことによってである」。私と他者という二つの自己意識は、自立的であろうとして、存在を賭けた闘争を始める。その関係は、両者が戦いを通じて、自分自身と相手を確認するように規定されている。自己意識が自立的であり、その正統性を主張しようとするならば、他者から承認されなければならない。自己意識は自立的であろうとすれば、自立的であってはならないというアポリアに直面する。そこで、他者を奴隷にする。こうして自己意識は奴隷から主人として承認される存在となる。奴隷は、主人の命令で労働し、主人はそれによって暮らす。主人は自立的で、奴隷は非自立的である。けれども、主人は奴隷がいなければ生活していけなくなる。主人と奴隷の関係が逆転し、主人が非自立的、奴隷が自立的存在となる。「それゆえ、自立的意識の真理は奴隷の意識である。この自立的意識は、最初は確かに自己の外に出現し、自己意識の真理としては現れない。しかし、支配の本質が、支配がそう欲したものの逆であることを支配が示したように、おそらく隷従の方も、それが徹底して行われるならば、隷従が直接その反対になるであろう。隷従は、自己内へと押し返された意識として自己へと立ち帰り、真の自立性へと逆転していくであろう」。マゾヒストは、そのため、主人と奴隷の拮抗において、前者ではなく、後者を選ぶ。

 トルストイ主義はこうした主人と奴隷に見られる依存関係をあらゆるところに鋭敏に嗅ぎとる。しかし、文豪は主人と奴隷を転倒することを唱えているわけではない。無抵抗主義に共感して、それぞれが共通認識で結ばれていなければ、反抗に終わりかねない。そこで共生への意志や共感作用としての愛が必要となる。

 無抵抗主義の政治実践には、依存の意識化、共生への意志、共感作用が備わっていないと、効果的ではない。ガンジーはバラバラになっていたインドの民衆に連帯を働きかけ、英国製品のボイコットやストライキを呼びかけている。それは、植民地インドに依存していたイギリス経済に大打撃を与える。その運動の模様はマスメディアを通じて世界中に配信される。さらに、ガンジーに影響を受けたマーチン・ルーサー・キング牧師は、モンゴメリーで、黒人たちにバスのボイコット運動を指揮する。黒人たちにそっぽを向かれたバス会社は売り上げが急落し、悲鳴を上げる。差別をしながら、黒人乗客に依存していたバス会社は謝罪せざるを得なくなる。この勝利は公民権運動を大きなうねりにする。その運動には黒人だけでなく、白人たちも共感するようになる。ついに、キング牧師は、1963年8月28日、ワシントンDCのリンカーン・メモリアルにおいて、あの「私には夢がある(I Have a Dream)」と演説する。それは20世紀後半のトルストイ主義宣言である。

 トルストイ主義は、依存性に焦点を当てるならば、こういった民衆運動だけでなく、スコットランド啓蒙や相互依存論の系譜と関連させて考察することも望まれよう。また、白樺派だけでなく、大正デモクラシーを代表する小日本主義の石橋湛山との類似性も検討する余地がある。

 文豪は無抵抗主義において私的所有など近代文明そのものに批判を向けている。それは、まさに近代文明の自律=他律のジレンマにかかわっているからである。

 ジョン・ロックは、『市民政府二論』の中で、基本的人権として財産権を揚げ、その根拠を国家や教会、社会からではなく、個人の労働に求めている。労働は個々人によって自然に所有されている以上、その人が労働を加えた物を所有する権利を有する。個人たらしめるのは財産権であり、それは不可侵とならざるを得ない。財産権に基づく自由で平等な個人が社会契約を結び、近代的な政治体制を誕生させる。近代以前の所有権は入会地が示すように、複合的・重層的であったが、近代ではそれが一元化される。ジョン・ロックを師匠と尊敬するヴィルテールを始めとした啓蒙主義者たちは、教会や国王などから与えられた知識を鵜呑みにするのではなく、自律した思考を提唱し、近代的自我はそれを実現しようとしている。

 しかし、福井憲彦は、『科学技術の実用化と産業文明の成立』において、その理念と現実との間には矛盾が生まれたと次のように述べている。

 効率的になり、便利になった反面、また根本的な問題がもたらされたこともたしかであった。空間の移動を例にとれば、自分の足で自分自身によって調整しながら歩く自律的な能力は衰退し、機械的な外部による他律的な生き方が主流とされるような時代がくる。それをコントロールできたほうが勝ち、というような考え方が支配的となっていく。
 生活のあらゆる局面におけるサービス制度の徹底は、電気、水道、ガスから、教育や行政にいたるまで、二〇世紀において、とくに家族生活と家事における負担を決定的に減少させ、女性の社会進出の可能性を開くうえでも大きな技術上の条件となっていった。それ自体は、きわめて歓迎すべき側面であったといえるであろう。しかしまた、サービス制度の徹底によって便利になった反面、人の自律的な能力をそぎ落とし、他律的な依存生活をもたらしはしなかったか、という反省が求められる時代へと、現代人を追いやっているのも現実なのである。

 依存という問題は近代文明が進むほど、人々の生活に食いこんでくる。ところが、どっぷりとサービスの体制に浸っている者に限って、その状態が当たり前だと思い、依存していることを忘れてしまう。文豪の無抵抗主義はまさに現代人を追いやっている「現実」の自明性に再考を促す。こうした文明についての本質的な理解があるからこそ、無抵抗主義は20世紀の歴史を変えられたことは確かだろう。相互依存が促進されることは不可避であるとしても、主人と奴隷の譬え話が示しているように、それに無自覚であってはならない。依存という問題を直視しているために、文豪の無抵抗主義は、20世紀が過ぎ去ろうとも、依然として根源的である。シニカルにトルストイ主義を見下すほど浅はかな態度もない。
〈了〉
参考文献
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甲斐道太郎、『所有権思想の歴史』、有斐閣、1979年
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ふみ子・デイヴィス、『トルストイ家の箱舟』、 群像社、2007年
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福井憲彦、『近代ヨーロッパ史』、放送大学教育振興会、2005年
藤沼貴、『トルストイの生涯』、レグルス文庫、1993年
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柳富子、『トルストイと日本』、早稲田大学出版部、1998年
山下喬子、『トルストイ』、ぎょうせい、1980年

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マハトマ・ガンジー、『ガンジー自伝』、蝋山芳郎訳、中公文庫、2004年
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ジル・ドゥルーズ、『マゾッホとサド』、蓮実重彦訳、晶文社、1998年
タチヤーナ・トルスタヤ、『トルストイ 娘のみた文豪の生と死 』、木村浩他訳、TBSブリタニカ、1977年
ジェイ・パリーニ、『終着駅 トルストイの死の謎』、篠田綾子訳、晶文社、1996年
ビリューコフ、『大トルストイ伝』全3巻、原久一郎訳、勤草書房、1968~69年
イワン・ブーニン、『トルストイの解説』、高山旭訳、富山房、1986年
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トーマス・マン、『ゲーテとトルストイ』、高橋重臣他訳、岩波文庫、1992年
ロマン・ロラン、『トルストイの生涯』、蛯原徳夫訳、:岩波文庫、1960年

DVD『映像の世紀』全11巻、NHKエンタープライズ、2000年
DVD『エンカルタ総合百科2008』、マイクロソフト社、2008年

BBC
http://www.bbc.co.uk/
CNN
http://edition.cnn.com/
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