第4話 優しい人

文字数 2,993文字

 齧られたねぎまの串を工藤先生の皿に置いて、お財布からお金を取り出す。
「からかってごめんなさい」と謝られたが、許すとか許さないとかそういうのではなかった。
「あの…。私…ねぎまが大好物なんで。欲しかったら、ご自分で頼んでください。それから…二度と声をかけないでください」
「お節介が過ぎました」
「お節介って…ねぎま食べてからかうことですか」
「…そうですね。間違えてました」
 素直に謝られると、許さなければいけない雰囲気が嫌だ。工藤先生のお皿のねぎまを睨んでしまう。
「早く、食べてください。冷めてしまいます」
 私は濃いめのハイボールとフライドポテトを注文した。一気に飲んで、気持ちを収めたかった。そんなこんなでいい加減酔っぱらって、店から出る。
「いいですか。明日から声かけないでください。挨拶もなしです」
「明日は違う学校なので、会いませんよ」
 そうだった。明日は…私は休みだった。
「工藤先生は学校…何校回って…」
「三校です。一校は夜間で…」
 私はたった一校しか行ってない。本格的にアルバイトをしなければ…と思った。いや、アルバイトしたら、正規の教員になる試験勉強が出来なくなる。
 いや、まずは離婚。それには弁護士。やっぱりお金が…と考えていると
「大丈夫ですか?」と工藤先生に気を遣われた。
「大丈夫です。知り合いに弁護士…いたら紹介…あ、でも安くで…」と言って駅まてわ来たので手を振る。
「いや、この駅、俺も使うんで」と言われて、気まずいまま、一緒に改札をくぐった。
 工藤先生は背が高いし、顔もいいけれど、ちょっと薄い顔をしている。薄い顔なのに、パーマをかけているのか、緩いウェーブが顔を少し隠していた。
「酒田先生はお名前通り…お酒に強いんですね」
「…いえ。これは…夫の苗字で…。…早く別れたい」
 電車を待つ間にする会話ではないかもしれないけれど、もうどうでもよかった。
「じゃあ、本当の苗字は何て言うんですか?」
「本当の苗字? えっと紺野です」
「へえ。素敵な苗字ですね」
「苗字に素敵も何も…」と言って、来た電車に乗る。
 座れそうにないので、ドアにもたれかかった。
「…色のある名前っていいじゃないですか」
 そうだろうか。そんなこと思ったこともなかった。その後、黙って、電車に揺られる。乗換駅で、私が下りようとしたら
「早く元の苗字に戻れるといいですね」と言われた。
 私は振り返って、何か言おうとしたけれど、そのまま扉がしまるまで、何も出て来なかった。扉が閉まる瞬間、笑顔で手を振ってくれるのを酔った頭でぼんやり見ていた。

 素敵な苗字…と繰り返す。
「そっか。そっか」
 早く戻りたいな、と本当に思った。マンションに着いて、鍵を開ける。
「ただい…ま」と声が出た。
 玄関に靴がある。夫の靴だ。実家に戻っているはずなのに、ここにいた。
「おかえりー。麻衣。ごめん。本当にごめん。もう二度と浮気なんてしないから」
 なぜか明るい顔で両手を広げて迎えに出てくる。
 その笑顔で、私は玄関先で嘔吐した。

 スローモーションで見えた。マーライオンのように吐しゃ物が体からすーっと出ていった。なんなら、狙いを定めて夫に発射したかもしれない。吐しゃ物まみれの夫を見て、私は第二弾を発射した。
「うわぁ」と叫ぶ夫。
 そうだ。私はあの日からろくにご飯を食べていない。そこにアルコール、ねぎま十本、キュウリ、トマトを食べ、さらにフライドポテトまで追加注文していた。
 胃が当然消化できなかったのだろう。
 夫の顔がスイッチとなり全部吐き出した。
 でもひきつけを起こした胃は止まることなく吐こうとする。もう胃液しかでないのに、気持ち悪い。
「ま…い」
「う…出てって」
「こんな姿じゃ出られないよ」
「出て」と言って、私は夫の横をすり抜けてトイレに入った。
 そして我慢していた笑いを解放する。トイレで一人で笑い出した私の声を聞いて、夫はどんな気分で玄関に立っているのだろう。止められなかった。笑いも涙も。

 トイレから出ると、夫が部屋着に着替えていた。私が吐瀉した汚物まみれの服はゴミ袋に入れられていたし、玄関も片付けられていた。
「麻衣…ごめんって」
「まだいるの?」と私は吐いたことですっきりしたものの、気力が失われていた。
 隙があったのだろう、夫の腕の中にいた。
「離して」
「麻衣、愛してるのは麻衣だから」と言って、私の服を脱がそうとする。
「な」
 激しく抵抗したくても、嘔吐の後では力が出ない。床に押し倒された。
(なんだ…。これ。浮気されたあげく…)
 涙が止まらない。
「麻衣、子ども欲しいって言ってたよな」
 首に舌を這わされて本当に気持ち悪い。それなのに、少しも動けなかった。拒否の言葉を言ってもきっと流されてしまう。
「い…や」
 それでも首を横に振ったけど、夫の顔が気色ばんでいて気持ち悪い。慣れた手つきで服を脱がされた。
 目を閉じて終わるまで待つしかないのか、と思った時、玄関の扉が開いた。
「誰だ?」と夫が体を浮かせる。
 その瞬間に私は夫の下から抜け出した。誰が来たのか分からないけれど、脱がされた衣服を急いで集める。
「お前…」と言ったのは夫じゃなくて、義理の兄だった。
 義兄が入って来た。そう言えば鍵をかけてなかった。
「…なんでお前が来るんだよ」と夫は言う。
 衣服で体を隠して、後ろずさりでソファの影に隠れた。
「大切にしろって言っただろ」と言う声が聞こえたかと思うと、夫が吹っ飛ばされていた。
 そっとソファから顔を出すと、怒った顔で義兄は夫を見下ろしていた。
「痛…って…」と夫は上体を起こす。
「浮気しておいて、やり直せると思ってるだと?」
 義兄がしゃがんで夫と目を合わせている。私はその隙に服を着ようとするけれど、震えてうまくいかない。
「大体、なんでここにいるんだ? 実家にいる約束だろう?」
「お前こそ、夫がいない間に何するつもりだったんだよ!」
 義兄は姉に頼まれて私の様子を見に来たと言った。姉はそろそろ臨月なので、本当は一緒にくると言うのを家で待ってもらったらしい。
 夫は義兄に外に出された。そして義兄はまた戻ってきた。なんとか服を着れたけど、ボタンを掛け違えてたり、ストッキングなんて破れて散々だった。
「麻衣ちゃん? 大丈夫?」
 リビングに入る手前でそう声をかけられる。
「大丈夫…で…す」
「一緒にうちに来る? 真紀も心配してるから」
 お姉ちゃんも義兄も優しい。でも何よりこんな姿を一番好きな人に見られたくなかった。
「…ひ…一人で大丈夫…です」
「何か必要なもの…ある?」
「なにも…ない…ので。ほんとに…」
 泣き声だって聞いてほしくない。震える唇を噛む。
「ごめんな。ほんとに。あいつ…あんなやつだって…思ってなくて」
 苦しそうな声が聞こえた。
「一つだけ…お願いが…あります」
「何? なんでも言って」
「お姉ちゃんに今日のこと…言わないで。心配するから…。赤ちゃんに…良くない…から」
「…麻衣ちゃん」
 本当のお願いはそうじゃない。
 側にいて、抱きしめて欲しい。
「…分かった。でも何でも言って。麻衣ちゃんの味方だから」
「…ありがとうございます」
 去っていく足音を確認して、私は立ち上がり、ドアの鍵かけて、チェーンをつけた。
 リビングに戻ると、バックから飛び出したりんごが芳醇な甘い香りを漂わせていた。私はその香りを感じつつ、ソファに横たわり、目を閉じた。
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