第6話 私が悪い

文字数 3,351文字

 離婚一択だと決めたその日に夫は私が義兄を好きだということを知っていたと言われた。私も夫も同じ。違う人で穴を埋めた。
 私は結婚という形で。
 夫は浮気という形で。
 同じことをしている。

 私は一人でベッドの中に入って、頭を抱えた。
(私が悪いの?)
 一番好きだった人が義兄になってしまって、ますます忘れられない日々が続いて苦しかった。紹介された夫といることで紛らわそうとしていた私が間違えていた?
 でも本当に好きだった。二番目に好きな人だった。
 悩んでいると電話が鳴った。義兄だった。
「麻衣ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です。あの…昨日はありがとうございました。ゴミも…」
「いや、あんなの触りたくないかなって思って。あいつの服なんか…」と明るく気遣う声が聞こえる。
 でもほっておいて欲しい。
「あ…汚かったのに」
 心配してくれる優しさに戸惑ってしまう。
「真紀に怒られちゃって。おかず渡すの忘れてたって」
 お姉ちゃんの名前を呼ばないで欲しい。
「昨日のこと…お義兄さんが追い出してくれたって…説明しておきました」
 お義兄さんと言わなければいけない自分が哀しい。
「あ、それなんだけど。あいつ、今日は来てないよね」
 私は声が震えた。
「今日…喫茶店で会って」
 言ってしまいそうだ。
「え? どうして? 大丈夫だった?」
 気持ちを伝えてしまいそうだ。
「…私が…悪くて」
 そしたら、もう二度と電話なんかかけてこない。
「なんで? 麻衣ちゃんはちっとも悪くない。あいつが…」
 好きですって伝えたら、もう二度と――と思うと涙が零れた。
 息を吸って
「浮気の原因は私だから」と勢いよく言った。
 しばらく沈黙が流れる。
「え?」
 言おう。もう言ってしまおう。こんな優しい電話を受けたくない。
「好きです」
 沈黙で耳が痛くなる。
「お義兄さんのこと…ずっと好きで…だから…夫はそれを知ってて…」
 これで良かったんだ、と私は思った。それ以上何も聞きたくなくて電話を切った。
 そして電話の電源を落とした。
 ――どう考えても、やっぱり私が悪い。

 仕事に出かける。非常勤講師はその時間に行けばいいから、朝の電車と決まっているわけではない。今日は昼からだった。
(離婚か再構築か)
 結局、振り出しに戻った。
 書道の時間が始まる。子供たち――、と言っても高校生だけど、墨をずっと磨っている。字を書くより磨る方が好きみたいだ。
 私もその時間が大好きだ。何も考えなくてもいい気がする。
 この学校はとてもお行儀のいい子だちばかりで、たまに困った子もいるけれど、みんなかわいらしかった。特に書道を選択する子は大人しい子が多かった。自分の高校の時もそうだったな、と思った。賑やかな子は音楽を選択して、個性的な子は美術選択をしていた。
「じゃあ、今日は自分の名前を書きます。普通に書くのではなくて、自分の性格を書で表してみましょう」
 書道はただ綺麗に字を書くだけと思われるが、字で表現できることがあるんだと知って欲しい。
「自分の良いところと悪いところ…。悪いところっていうのは良くないか。直した方がいいなぁと思うところを表現してみてください。だから二パターン書いて」
「先生はどう書くんですか?」と生徒に言われる。
「難しいですね。じゃあ、みなさんと一緒に書きたいと思います」
 本当に難しいことを言われた。私の良いところと悪いところ。
 悩んで私は良いところは素直なところだとして、本当に素直にお手本のような字で名前を書いた。悪いところは弱いところ。細い震える字で書いた。
 弱くて、夫を頼って困らせた。
 生徒たちの作品は多種多様で見ている方も楽しかった。
「次はお隣の人の名前を書いてみましょう。今度は良いところだけ…にしておきましょう」と言うと、生徒たちは盛り上がった。
 私は様子と見ながら机の間を歩く。みんな嬉恥ずかしそうな感じで書いていた。きらきら若さの眩しさに目が細くなる。この頃に戻れたら…と思って私は息を吐いた。

 部活の時間になると生徒たちが集まってくる。三年生はもう引退していて、数は少ない。一年生と二年生を合わせても五人しかいなかった。
「今日は落款を作りましょうか?」と私は部員たちに言う。
「落款?」
「作品に押す印鑑みたいなものです」
 部員たちは喜んだ。
「じゃあ、デザインを考えて、ハンコだから反転するので…トレーシングペーパーに描いてくださいね」と紙を配った。
 みんな思い思いに書いている。私は準備室に行ってカーボン紙を探した。一枚しかない。五人で割ると…少し足りないかもしれない、と思って困った。
「買い足しておかなきゃ…」とカーボン紙を持って戻る。
「できた人は描いたものを裏っ返してカーボン紙を挟んで木に移してほしいの。ごめんね。五人分ないから、交代で使って」と言う。
「先生、カーボン紙美術の先生持ってるかも。美術の子が版画してたから」
「え? そうなの? あ、じゃあ…」と言って、私は美術室に行くことになった。
 この間、酔っぱらっていろんなことをしゃべってしまったような気がする。会いたくないのが本音だけれど、仕方なかった。美術室もクラブ活動をしていて、にぎやかだった。
「こんにちは」
「あー、また来たー。先生、今留守。なんか買いに行ったよー」とおさげにしている女の子に言われる。
「あ、そうなの。カーボン紙を貸してもらいたくて」
「言っておこうか?」と違う女の子にも気軽に話しかけられる。
「じゃあ…」と言った時、後ろから声がした。
「手、動かす」と言ったのは工藤先生だった。
「せんせー。おやつかって来てくれた?」とおさげの女の子が言う。
「あー、モティーフだから。三か月後に食え」と言って、いろんなお菓子を部屋に持ってくる。
「えー。けちー。一つだけ。ほら、空いてる袋とかも描いてもいいじゃん」と違う子が言う。
「…それもそうか」と工藤先生は一つだけ空けて「食べていいよ」と言うからおやつタイムが始まってしまった。
「あー、だからお前たちにおやつ買うの嫌だったんだよ」
「いーじゃん。工藤ちゃんいないときも私たち頑張ってるんだからさー。昨日、工藤ちゃん来ない日だったでしょ?」
「まぁ、いいよ」と言って、私に声をかけずに準備室に戻っていった。
「あ…」と私は追いかけて準備室の扉をノックした。
「おやつは一つだけ」と言いながら工藤先生が開ける。
 工藤先生の首が四十五度、肩に傾いた。
「あの…カーボン紙を貸して欲しくて」
 無言で使用済みのものを持ってくる。
「できれば四枚…」と小さくなって言うと、三枚足された。
「ありがとうございます。すぐに返しに来ますので」と言っても無言で指先だけでバイバイされた。
 おやつタイムをしている部員たちを通り過ぎて「お邪魔しました」と扉を閉める。
 そのまま書道の教室に戻った。カーボンを渡すと嬉しそうに転写を始めた。
「転写したら、彫刻刀で削るの。みんな中学校のとか持ってる?」
 持ってる子もいれば処分してしまった子もいる。
「あ、でも版画だから彫刻刀も美術室にあるかも」と言われた。
 また美術室に…と思うと気が重くなる。
「とりあえず、落款はそこまでにしておいて、また持ってる人は彫刻刀持ってきてもらって…。今日は書を書きましょうか」
 みんなパタパタと準備を始めてくれる。おやつタイムの美術部員とは偉い違いがある。私もたまにはおやつでも用意しようかな、と思った。カーボンを返しに行こうとしたら、もうおやつタイムは終わったのか真剣に絵を描いていて、私は邪魔しちゃ駄目な気がしてまた戻った。

 クラブの生徒たちが帰るのを見届けて、戸締りをする。カーボン紙を返しに行こうと美術室に向かうと丁度、工藤先生も鍵を閉めているところだった。
「すみません」と走って近寄って行く。
 カーボン紙を見せるとまた黙って鍵を開けた。黙って受け取る工藤先生に私は謝った。
「ごめんなさい。話しかけないでとか…言って」
 工藤先生は少し首を傾けて、ため息を吐いた。そして無言のままカーボン紙を片手に教室の中に入っていく。私はもう用事がないので帰ろうかと「ありがとうございました。じゃあ…」と声をかけた。
 後ろを向いて歩こうとした時、工藤先生に手を取られた。
 生徒に帰宅を促す放送が流れる。
 
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