第3話 新世界

文字数 2,157文字

 遠慮がちに扉が開かれて
「酒田先生、今、いいですか?」と顔を覗かせる。
「あ、はい。さっきはすみません。ご迷惑をおかけして」と私は慌てて扉の方へ行った。
 工藤先生はするっと教室の中に入って、扉を少しだけ隙間を開けて閉めた。
「あの…お節介ですけど…」と言って、りんごを渡してくれる。
 思わず受け取ってしまったりんごはさわやかで甘いする。
「りんご…。頂いていいんですか?」
「はい。これ、モチーフなんですけど、そろそろやばくて」
 確かに甘い匂いが芳醇な香りになっている。
「良い匂い」と両手で鼻に近づけた。
「…あ、でも食べない方がいいかもしれませんね」
「え?」
「ほら、りんごを食べたから、人間は楽園追放されたんです」
 工藤先生が何を言っているのか分からなかった。どういう意味なのかも分からない。冗談を言っているようにも思えない。
「知恵の実を食べた人間は途端に裸でいることが恥ずかしくなったっていう話です」
「…楽園追放? ですか」
「選択…できるってことです。このままか…。楽園追放か。お節介だと思いますけど」
 そう言って、工藤先生はぼんやりとりんごに視線を落とす。私は選択したいのに、できないと思っていた。
「…離婚…。離婚、一択です」と私が言うと、工藤先生が「えー」と大声を上げる。
 その声に驚いて、思わず口に指を立てた。
「…離婚するんですか?」と小声で訊いてくる。
「知らなかったんですか?」と小声で返す。
「知る訳ないじゃないですか」と小声で反論された。
 知っててりんごを渡してなにやら複雑な話をしているのかと思って、うっかり口走ってしまった。何も知らないけれど、何か悩んでいると思ってわざわざりんごを持ってきてくれただけだった。それなのに私は早とちりをして、自分で言ってしまった。
「まぁ、お節介ついでに話を聞きますよ」と工藤先生は言ってくれる。
「…帰りたくないんで、晩御飯でも食べませんか」と私が誘った。
 家には今、誰もいない。夫には実家に戻ってもらった。

 私の夫は二番目に好きな人だった。
 一番好きだったのは姉の恋人だった。姉の恋人は妹の私にも優しくしてくれた。優しくしてくれたからお兄ちゃんのように思っているつもりだった。でもいつの間にかその優しさが私の中で愛情を育てていた。
 一番好きな人には気持ちも伝えることができない。姉と別れることもなく、四年前に結婚した。その人も姉も大学出て、社会人を一年経験してすぐに結婚した。一番好きな人は義理兄になった。
 夫は義理兄に紹介された。二人の結婚式に来ていた義理兄の親友だった。式場で彼が私に一目ぼれしたからデートしてやって欲しいと言われた。
 彼の親友だから…と私はいい加減自分の気持ちにけりをつけたくて、デートに出かけた。優しい人だったし、顔だって嫌いじゃなかった。
 そして二番目に好きな人と結婚した。
 一番好きな人とは年に数回会う。お正月、お盆、法事。その度に相変わらず優しかった。だから嫌いになることなんてできなかったし、気持ちを伝えることもできなかった。
「麻衣ちゃん…。お姉さんに赤ちゃんができたんだよ」
「おめでとうございます」
 上手く笑えたかなって思いながらお祝いの言葉を言った。夫も義理兄の肩を叩いて喜んでいた。

「浮気されたから…離婚ってこと?」と工藤先生はウーロン茶を飲んで聞く。
 もくもくと炭火焼の煙が充満している焼き鳥屋で並んで座った。
「はい。浮気したなら、相手と結婚したらいいと思うんですけど」と私はキュウリを食べて言う。
「…相手が同意しないって? 結婚続けたいって?」
「世間体なのか分かりませんけど。どんなに証拠を見せても、浮気なんてしてないって一点張りで。何だかこっちがおかしくなりそうで」
「…弁護士は?」
「それが…調査費用でお金を使ってしまって。それに…私の親ですら、離婚を渋るんでお金を出してくれそうにありません」と私はねぎまを立て続けに食べる。
 工藤先生はつくねを大事そうに食べた。
「お金…必要?」
「はい。調査費用があんなにするなんて思ってなくて。それに家を出て…って思うといろいろお金がいるから。夜間の学校とかでも働こうかなって。こんな中途半端な時期だから募集もないかも…ですけど。そうか正規目指して試験勉強するか。でもどっちにしろ…先立つお金が」と私は肩を落とした。
「じゃあ、絵のモデルする?」
「え?」
「ヌードだったら時給いいし。服着ててもまぁまぁいいバイト代になるよ」
 新世界。
 なんだろう。私は最近、自分がどこか異国にいる気持ちになる。ねぎまの串を握りしめる。
「私のモデル代、先生が払うんですか?」
「まさか。そういう事務所があるから…紹介しようかって」
 私、相変わらず先走って工藤先生に変な人だと思われてしまう。隣で工藤先生が笑いだした。
「俺の専属のモデルかと思ったの?」
「…は…い。勘違い…で…した」
(すみません)
「まぁ、いいけど。どっちでも」
(よくない)と目を向くと、私の握っていたねぎまに工藤先生が近づいたと思ったら、そのままその口に入っていった。
「あ…」
「だからさ。りんご食べて考えたら?」
 煙がもくもくとあがっている焼き鳥屋のカウンター。炭火の匂いが漂う店内。私の鞄の中にひときわ、豊潤で甘い匂いを醸し出す禁断の果物が入っている。
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