013)ネフティト【戦いの舞】

文字数 6,374文字

[登場人物]
ネフティト:アビドスから来た踊り子
センネジェム:テーベの監督官
メリメルセゲル(メリ):書記見習い
ヘベヌト:神官の娘、踊り子
センムウト:ハトシェプスト女王統治時代の高官

17王朝
タア二世←―――――→ イアフヘテプ妃
     __|__
第18王 ↓     ↓
イアフメス←―→イアフメス=ネフェルタリ妃
      ↓
アメンヘテプ一世
  ____|_______
 ↓            ↓
王女←―→トトメス一世←―→王女
   ↓        ↓
トトメス二世 ←―→ハトシェプスト女王
   ↓
トトメス三世
――――――――――――――――――――――――――――――――

「ネフティト。舞いを踊ってみないか」
ネフティトがセンネジェムからそう告げられたのは、メリメルセゲルと一緒に、邪悪なモノと対峙してから数日後のことだった。

「十日後に、イシス神殿で豊穣祭が行われる。踊り手の一人としての参加になるが。やってみないか?」
ネフティトは二つ返事で引き受けた。

大勢の中の一人であろうと関係無かった。
踊りたくて身体がウズウズしていたのだ。

センネジェムが安心して微笑むのを、ネフティトは少し後ろめたい想いで眺めた。

センネジェムとの出会いは、ネフティトがアビドス神殿で舞姫をしていた時だった。

ネフティトをアビドス神殿の舞姫へ抜擢したのは、当時、ハトシェプスト女王の下で権勢を奮っていたセンムウトだった。
センムウトはネフティト一家が、一時身を置いていたアルマントの出身で、ネフティトの父とは友人だったのだ。

女王が亡くなり、センムウトが権力を失うと、舞姫の地位をネフティトから奪おうとする動きがあった。
それを察知した祖母は、アビドスの町で監督官達を束ねる役職にあったセンネジェムに援助を求めた。
センネジェムはネフティトの熱烈なファンの一人だったのだ。

センネジェムの尽力により、ネフティトはアビドス神殿で舞姫を続けられるようになったのだが、同時にセンネジェムから結婚を申し込まれていた。
自分の弱い立場を利用した申し出だと、幼いネフティトは腹を立て、それ以来センネジェムのことを毛嫌いしていたのだ。

テーベで久し振りに顔を合わせたセンネジェムは、ネフティトがそれまで抱いていた印象の男とかなり違っていた。
そもそも、アビドスでのネフティトは、センネジェムと話す機会もほとんど無かったので、彼のことをよく知らなかったのだ。

テーベに来て一緒に暮らし始めてから、権力を笠に着た嫌な奴と言うセンネジェムの印象が、自分の思い込みだったのだと、すぐに気付かされた。
一緒に暮らしていると言っても、センネジェムとは別の棟に住んでいる。
それも、ネフティトの気持ちを汲み取ったセンネジェムの配慮だった。

メリメルセゲルとの、結果的に密会となってしまったあの日、屋敷に戻るなり、ネフティトは全てをセンネジェムへ打ち明けた。
全てを話すことが、センネジェムの助力と好意に対して、ネフティトにできる筋の通し方だった。

「宿命か」
聞き終えたセンネジェムは、何ともコメントしようが無いといった風情で、片手で顎を押さえていた。

「これからも、メリと会うのを認めてください。大事なことなんです。彼と会うのを責めないでください」
ネフティトが訴えると、センネジェムは苦笑いを作った。

「君は勘違いしてる。俺は君が誰と会おうと責めないし、俺の許可をもらう必要は無いんだ。君は自由だ」
それを聞いたネフティトがほっとしていると、センネジェムは射るような視線を向けてきた。

「ネフティトにとっては、メリメルセゲルを頼りにしたほうが、舞姫としての道は開ける。二人が一緒にいるのを見た時、自分を不甲斐なく思ったよ」
「何のこと?」

「メリメルセゲルは、アメン神殿の大司祭の孫だ。いずれ、彼が大司祭の役職を受け継ぐ。メリメルセゲルになら、君をアメン神殿の舞姫にするのは簡単に違いない」

「そんなこと、望んでないわ」
プライドが刺激されたネフティトはいきり立った。
「私は、自分の実力で舞姫になってみせる。もう、誰かに遠慮するのは嫌」
センネジェムに対する当て付けになってしまった。

「ごめんなさい」
ネフティトは冷静になって神妙にした。
「俺のほうこそ、悪かった」
静かに言って、センネジェムは視線を落とした。

「だけど。俺が君を、大切に思っていることは忘れないで欲しい」
センネジェムの気持ちが重くのしかかって、ネフティトは顔色を変えた。

「そんな風に、深刻に受け取らないでくれ。俺は君の足枷になりたくない。ただ、ネフティトの幸せと無事を、いつも願ってる。それだけなんだ」
穏やかな瞳で、もう休みなさいと言って、センネジェムは部屋から出て行った。

優しい人。
嫌な奴だったほうが、どれだけ良かったか。

豊穣祭の踊り子の件も、センネジェムなりに手を尽くしてくれたのだろうと思うと、複雑な気持ちになる。

自分の実力でと豪語してみても、実際にはその実力を披露する場も無いのが現状だった。
センネジェムの気持ちに答えられないのに、温情だけを貪っている自分が嫌になってくる。

ネフティトは舞いの練習に没頭した。
豊穣を祈る舞いは地域によって異なる。
新しい動きを身体に刻み込むのは楽しかった。

一緒に舞う他の踊り子達はほとんどが神官の子女で、踊りへの情熱より、義務で参加させられているようだった。
そういった娘達と同列に扱われることに、抵抗が無かったかと言うと嘘になるが、ネフティトは自分にできる努力を惜しまなかった。

ネフティトが元アビドスの舞姫だとすぐに気付いた楽団の責任者が、ソロパートを付け加えるアレンジを施してくれた。
それだけでも、今は幸せを感じる。

ネフティトのソロパートを見た他の踊り子達が、ネフティトの踊りに触発されて、真剣に取り組む姿勢を見せ始めたのも嬉しい出来事だった。
「私。ネフティトのようになりたい」
ヘベヌトという幼い娘が、そう言って特にネフティトに懐いていた。

ネフティトが他の踊り子達を指導する立場になるのは必然の流れだった。
ネフティトの指導の甲斐もあり、祭り前日までには他の踊り子達の舞のレベルも上がって、楽団の責任者が期待で興奮しているのが見て取れたほどだ。

祭りの日。
イシス女神の神像を乗せた聖舟が、ナイル川上流の祠からアメン神殿を経由してイシス神殿へ運び込まれる。
神聖な曲が鳴り響く中、聖舟を担ぐ神官達の後を、ネフティト達踊り子が舞いながら付き従って行く。
沿道には都中から大勢の人が集まっていた。

聖舟が神殿の中へ入って行くと、踊り子達は神殿手前の広場で舞の演目を披露し始めた。
ネフティト達を取り囲むように、沿道に並んでいた人々も移動してくるのが視界に入ってくる。

踊り子達の舞に合わせて、集った人達も身体を動かし始め、人々の熱気がネフティトにも届いてきた。

ネフティトのソロパートが始まると、しばらくの間、静寂の時が流れた。
観客の視線がネフティト一人に注がれる。
見ている者達の中に、ざわつきが広がっていくのが分かった。

ソロパートが終わって他の踊り子達が動き出すと同時に、人々から拍手と歓声が上がった。
ネフティと、叫ぶ声もちらほら聞こえた。

演目が終わって、踊り子達と共に退場しようとしたところへ、人々からネフティコールが湧き起こった。
ネフティを呼ぶ声は人々の作っている輪の、あらゆる方向から響いていた。

ネフティトが戸惑っていると、楽団がイシス女神の楽曲を演奏し始めた。
責任者と目が合うと、頼むと言っているように彼が頷いた。

もう幾度となく、この曲に合わせて踊ってきた。
踊りと共に、ネフティトの身体の一部になっていると言ってもいい。

ネフティトは輪の中央を選んで片膝を付いた。
湧き立つ人々の声で、耳に届く音楽が途切れるが支障は無かった。

やがて踊り出したネフティトは人々を熱狂の渦へと引き入れていった。

「今日の舞は大成功だったようだね」
夕方、屋敷へ帰って来たセンネジェムへお礼を言いに行くと、彼は自分のことのように喜んでいた。

「アビドスの占者様から、伝言が来ている」
「お婆様から?」
「センムウト様の容体が、いよいよ悪いらしい。ネフティトに、アルマントまで見舞いに行ってくれないかと」

アルマントはナイル川の西岸にある。
テーベに来る途中で溺れた記憶が甦ってきて、船に乗るのは躊躇いがあった。

「船には、日が沈む前に乗りなさいと。それも言付かっている」
つまり、日が沈む前なら安全なのだと、ネフティトは祖母の御告げを理解した。

「数日、ゆっくりしてくるといいと思うが」
「ちょうど。一緒に舞いをしたヘベヌトの家が、アルマントにあるそうです。そこでお世話になれるか聞いてみます」

ぜひお越しくださいと、ヘベヌトから返事が来た翌朝には、船に乗り込むネフティトの姿があった。

「私。毎朝、神殿の中庭で。踊りの練習をしてるの。明日の朝は、ネフティトも行こうね」
ネフティトの到着を待ち兼ねていた様子のヘベヌトは、ネフティトの顔を見るなり、そう言った。

「お父様が神官をやっているから。アルマントのお祭りでは、いつも踊ってたんだけど。あんまり、乗り気じゃなかったんだ。何で自分ばっかりって、思っちゃってた。でも。ネフティトの踊り見たら。かぁって、身体が熱くなった。テーベのお祭りで踊ったのは、この間が初めて。参加して良かった」

ヘベヌトはよく笑い、よく喋る明るい子供で、一緒にいると楽しいと思える、ネフティトにとっては数少ない存在だった。
短期間で打ち解けられたのも、ヘベヌトの性格のお陰だ。

翌朝、ネフティトはヘベヌトと伴って神殿に行った。
この神殿は、出産を守護するタウエレト神や、子供を守護するベス神が祭られている。

中庭で柔軟運動から始め、一息ついた時、ヘベヌトが列柱の間を歩いて行く一人の神官を見付けて声をかけた。

「メリ。おはよう」
「おぉ、ヘベヌト。今朝も頑張ってたんだな」
神官の声を聞いたネフティトは唖然として立ち上がった。

「え。ネフティト?」
ネフティトの姿を見たメリメルセゲルも驚いて立ち尽くしている。

次の瞬間には、お互いに顔を見合わせて大笑いした。
「どうして」
「ネフティトこそ」
「これで二度目だね。偶然するの」
メリメルセゲルは真っ直ぐにネフティトを見つめてきた。

先日までは、目が合うとすぐに逸らされていた。
今のメリメルセゲルの瞳からは、センネジェムと同じ熱を感じてどきりとさせられる。

邪悪なモノと対峙してから半月ほどが経っていた。
センネジェムに了承は得ていても、メリメルセゲルとの連絡手段が無く、今まで会えずにいたのだ。

「俺は、一ヶ月間だけ。ここで、神官見習いをさせてもらってる。じい様に頼んで、数日前から、アルマントに来てるんだ」
髪の毛を剃り上げているメリメルセゲルは大人びて見えた。

「ネフティトは。知り合いの方のお見舞いへ行くために、私の家に来てるのよ。私の踊りの師匠なの」
ヘベヌトが自慢気に説明して、舞いの練習へ戻っていった。

「ネフティト。聞きたいことがある」
メリメルセゲルの首にはホルス神の護符がぶら下がっていた。
「私も」
メリメルセゲルも、ネフティトが首から下げたイシス女神の護符へ目を向けていた。
「昼過ぎには、仕事が終わるから。待ってて」

舞いの練習を終えると、ネフティトは一旦ヘベヌトの家へ帰った。
見舞いに行くセンムウトへの手土産を持って、神殿へ戻ることにしたのだ。

ウキウキしている自分に気付いて罪悪感を抱く。
罪悪感を抱いた自分にも切なくなる。

手土産を手に、十字路を建物の角に沿って左へ曲がり、しばらく歩いて、次の十字路をまた左へ曲がる。
そこでおかしな事態になった。

二つ目の角を曲がった途端、一つ目の角へ戻ってしまったのだ。
一つ目の角では北へ向かい、二つ目の角では西へ向かうはずなのに、二つ目の角を曲がると、ネフティトは北を向いている。

ネフティトはもう一度、二つ目の十字路まで行き、角を西へ曲がった。
やっぱり一つ目の角へ引き戻されている。
もう一度試しめてみる。
同じだ。

一つ目の十字路を曲がらずに真っ直ぐ行くと、メンチュ神の祭られている大きな神殿がある。
メンチュ神は戦いの神で、下エジプトからヒクソスを追い払う戦いが行われていた時代には、テーベのアメン神殿と共に、王家により特に手厚く信奉されていた。

ネフティトはメンチュ神殿のほうへ歩いてみることにした。
何事も起こらず神殿に辿り着けたネフティトは、塔門の脇にある民衆向けの参拝入口から中へ入った。

正面のメンチュ神の祠の他に、今から二百五十年以上前の王の祠、その左右には、イアフメス王以前の王や王妃の、比較的新しい祠があった。

ネフティトは引き寄せられるように、イアフメス王の祠の前へ足を進めた。
王の祠は生母のイアフヘテプ王妃と、妻のイアフメス=ネフェルタリ王妃の祠に挟まれるように建っている。

ふと、祠が黒いモヤに覆われているように見えて、よく目を凝らすと、モヤは徐々に濃くなり、王と王妃の祠を黒く包んだ。

祠の上空にモヤが集まっていくのを、ネフティトは為す術も無く見付めた。
やがて凝縮したモヤは、ナイル川で会ったビントと言う子供の姿を形作った。

ビントは瞳をカッと見開いたままの表情で、ネフティトを見下ろした。

ネフティトの身体は一瞬にしてモヤに取り囲まれていた。
モヤだったものが重く真っ暗な闇に変わり、凄まじい冷気と共に、ネフティトへ絡み付いてくる。
焦るネフティトの心に、戦いの舞いを踊ってみようという閃きが持ち上がった。

ここは戦いの神が祭られている神殿。
メンチュ神も力を貸してくれるはず。

ネフティトが激しいステップを始めると、身体から闇が離れる感覚があった。
しかし、ネフティトから距離を取っただけで、闇は消えて無くなる気配は無かった。

それでも踊り続けるネフティトの耳に、頭上のビントの姿をしたモノから囁くように笑う声が聞こえ、それは次第に大きな嘲りの笑いになった。
ネフティトの舞いなど、無駄な努力だと言われているように思えた。

ネフティトは踊るのをやめなかったが、このままではいずれ体力が尽きると分かっていて、何とかしかなければと気持ちだけが空回りしていた。

精神を削られる踊りは必要以上に体力を消耗する。
ネフティトの膝がガクっと崩れた。
それを待っていたのだろう、すぐに闇が絡み付いてきた。

これまでかと思ったその時、闇を吹き飛ばす勢いでメリメルセゲルが現れた。
何かの呪文を唱えている。

一旦、吹き飛ばされたように見えた闇だったが、再び集結して、尚も二人を絡め取ろうと迫ってきた。

ネフティトを庇おうと、メリメルセゲルがネフティトの身体に覆い被さってくると、二人の首に下げられた護符が光を放った。

悲鳴のような音を上げ、ビントの形をしたモノと一緒に、闇も散り散りになって消えた。

二人は大きく息をしながら見つめ合った後で、どちらからともなく抱き締め合った。
「もう駄目かと思った。ありがとう、メリ」
「良かった。君が無事で」

「どうして、ここが分かったの?」
「ネフティトこそ、どうしてここに?」
「メリのいる神殿へ向かおうとしたんだけど。何故か、ここへ導かれてしまって」

「俺は。ネフティトがいなかったから、ヘベヌトの家に行ってみたんだ。そしたら。随分前に、神殿へ向かったって聞いて。行き違いになったのかと、戻ろうとしたら。メンチュ神殿の上空に、黒いモヤが漂ってるのが見えたんだ。まさかと思ったけど、来てみて良かった」

ネフティトはもう一度、メリメルセゲルに強く抱き締められた。
幸せに思う気持ちが、センネジェムに対する申し訳無い思いを、ネフティトから溶かしてしまいそうになっていた。

「また、イアフメス=ネフェルタリ王妃か」
メリメルセゲルが祠を見て呟いた。

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