004)メリ【悩み多き日々】

文字数 5,551文字

[登場人物]
メリメルセゲル(メリ):書記見習い
カマル:書記見習い、アンドロイド
ネフティト:アビドスから来た踊り子
センネジェム:テーベの監督官
サアネチェル:大司祭、メリの祖父
イアフ:メリの飼い猫

第18王朝
イアフメス←―→イアフメス=ネフェルタリ妃
      ↓
アメンヘテプ一世
  ____|_______
 ↓            ↓
王女←―→トトメス一世←―→王女
   ↓        ↓
トトメス二世 ←―→ハトシェプスト女王
   ↓
トトメス三世
――――――――――――――――――――――――――――――――

溺れかけたネフティトを助けて以来、メリメルセゲルは悩み多き日々を過ごしている。

自分の身体が重いと感じ、時折、あの暗い水の中から、身体がまだ抜け出せていない感覚にも襲われていた。

メリメルセゲルの不調に気付いているのか、体調が悪い時に必ず寄り添ってくれる飼い猫のイアフが、片時も離れようとしない。
メリメルセゲルは膝で丸くなって寝ているキジ寅をそっと抱えてベッドへ移すと、自分の部屋を出た。

祖父のサアネチェルが帰って来たようだ。
アメン神殿の大司祭の役職に就いているサアネチェルとは、勤務時間帯がずれているせいもあり、屋敷で顔を合わせるのは久しぶりだった。

メリメルセゲルが顔を出すと、サアネチェルは奇異なものを見るような表情を隠そうともせずに近付いて来た。
「メリ。お前、最近沼にでもハマったか?」

何だそれと、思ったメリメルセゲルは相手にせず、いいやと答えて立ち去ろうとした。
祖父には時々変な言動が見られるのだ。

「待て。放っておくには、気配が濃すぎる」
そう言ったサアネチェルに腕を掴まれ、屋敷内の至聖所へ連れていかれた。
至聖所にはアメン・ラー神が祭られている。

床に座らされると、サアネチェルの呪文が始まった。
長い長い呪文の後で聖なる水を頭や顔に何度もかけられ、しばらくそのままでいろと言われたので、祖父が立ち去ってもメリメルセゲルは大人しくじっとしていた。

日が陰ってきて、身体が冷えてきた。
イアフがやって来て、こんな所で何やってんだよと言うように身体を擦り付けてくる。

メリメルセゲルが言い付けを破り、恐々祖父の様子を窺いに行くと、サアネチェルはいびきをかいて寝ていた。
メリメルセゲルが派手なくしゃみをしても起きる気配も無かった。

その日以降、風邪を引いたメリメルセゲルは違う意味で身体が重いのだった。

身体のほうはそんな調子で、心のほうはと言うと、ネフティトの踊りを見てから魂が半分抜けたようになっていた。

指の先から足の先までを使ったしなやかな身体の動きと、気品漂う表情。
舞いを終えてから向けられた、心が安らぐ笑顔。
どこを切り取っても、強く印象に残っていた。

聞けば、メリメルセゲルがアビドスの生命の家へ通い始めた同じ頃に、ネフティトはアビドス神殿の舞姫に抜擢されていたと言う。
アビドスに住んでいる間に、ネフティトの踊りを見てこなかったことをメリメルセゲルは悔やんだ。

あの日、センネジェムの屋敷へ入って行ったネフティトの、心許ない足取りを思い出して、気が付くと溜め息ばかり吐いている。

あれからしばらく経つが、センネジェムが結婚するとか、したとか、そう言った噂は耳にしない。

センネジェムと暮らすのを、ネフティトが望んでいるのでは無さそうだった。
いつしかメリメルセゲルは、ネフティトが結婚に抵抗しているのだという期待を抱き、そうであって欲しいと願っていた。

センネジェムはこれまでの監督官と違い、問題を先読みする力に長けた頼りがいのある男だった。
無駄に、偉そうにするところも無い。

ネフティトと出会う前のメリメルセゲルは、センネジェムを尊敬さえしていた。

メリメルセゲルの予想に反して、カマルの働きぶりを数日の内に、センネジェムが認めたことも評価の要因だった。

思えば、今までの監督官は自分の意見に賛同する者、思い通りに動く者ばかりを長用する傾向にあった。
正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、正直に発言するカマルが気に入られるはずも無かったのだ。

「人がいつも、正しいことばかりを求めるなんて。お前の幻想だ。白黒付けないほうがいい時が多いって。そろそろ、学べよ」
何度、この言葉をカマルにぶつけたことか。

だけど、センネジェムはそのままのカマルを受け入れていた。
裏表の無いカマルこそ信用するに相応しいと思っているようだ。

センネジェムが信頼に値する人物だと感じれば感じるほど、今のメリメルセゲルは自分が惨めになっていた。
自分にはセンネジェムのような落ち着きも自信も、さらに言えば地位も無い。

ネフティトには自分なんかよりセンネジェムがお似合いだと考え、一日に何度かは落ち込んでいた。
センネジェムは二十代前半、ネフティトは十五歳だから年齢も釣り合っている。
世間的には二人共結婚適齢期だし、むしろ、もっと早く結婚している者達だって少なくない。

「メリ。最近元気が無いみたいだが、大丈夫かい?」
カマルが顔を覗き込んできた。

二人は午前中に執務室での仕事を終えた後、アメン神殿へ向かっている途中だった。
アメン神殿は常に増築工事を行っているが、今の時期はオペトの大祭に向けての改修工事も並行でされている。
その工事の監理をしに行くのだ。

オペトの大祭は毎年、ナイル川が増水季に入って二ヶ月目に行われるアメン神、ムト神、コンス神に感謝を捧げる祭りだ。
今年は西アジアへの軍事遠征を行っているファラオは出席しないため、主たる役割は神官と行政官が執り行う。

「ちょっと、風邪が長引いてるだけ。大丈夫だ」
メリメルセゲルは元気を作って答えた。

「この間のアクの一件が、まだ後を引いてるんじゃないのかい?」
カマルに言われるまで、頭の片隅にも無かった。
二ヶ月ほど前の出来事だが、もの凄く時間が経っているように思えた。

監督官就任式の日、神殿から立ち去ろうとしていた二人は、老神官に声をかけられたのだった。
「そうだ、お前達。監督官に伝えといてくれないか。アメンヘテプ様の祠堂で。壁画の修復作業をしてる職人達が、変なものを見たとか、気分が悪くなると言って。作業したがらないって」

アメン神殿の敷地内には祠堂と言う建物が幾つもあり、祭りで使用される御神体を乗せた聖舟が納められている。
死後に神格化したファラオや王妃の祠堂も造られていた。

「変なもの?」
メリメルセゲルが眉を寄せたのを、真似するようにカマルも同じような表情を作った。
「誰かのアクじゃないかと思う」
老神官が簡単に言い放った。

アクと言うのは死者の形態の一つだ。
人間の魂を構成する五つの要素の中で、カァとバァが結びついたものがアクと言う存在になる。
死後、ミイラの姿で埋葬された後に墓がずさんな扱いを受けると、アクになっていた埋葬者が幽霊のように彷徨ってこの世に出でくるのだ。

「アクの問題だったら。あんた達神官が、鎮めてくれたらいいじゃないか」
メリメルセゲルは自分でも、もっともだと思う言い分を主張した。

アクは時に邪念を振り撒く。
邪念を祓うのは神官であり、建築監督官では無いのだ。

「やってみたんだが、離れてくれないんだ。祠堂の造りから変えないとダメかもしれん」
「そう言うことなら。伝えておくよ。その前に、その祠堂を見てみるかな」
メリメルセゲルはそう言って、老神官に案内を請うた。

「カマルも来いよ」
メリメルセゲルが呼んでも、カマルは二人が祠堂のほうへ歩いて行くのを見送るだけだった。

アメンヘテプ王の祠堂が見える所まで来ると、建物全体に黒い煙のような薄いモヤが漂っている感じを抱いた。
見たと言うより感じたのだ。

恐れが無かったと言えば嘘になるが、それでもメリメルセゲルは祠堂へ近付いて行った。
近付くにつれ、周りの空気が重くなるのが分かった。

祠堂の中を覗いた時、奥のほうに干からびた人間の形をした何かをメリメルセゲルは見た。
その何かは、メリメルセゲルのほうへ近寄って来こようとしているようだった。

しかし次の瞬間、壁に描かれたアメンヘテプ王の像がごっそり剥がれ落ちた。
修復中だった部分も含めて全てだった。
そちらへ注意を向けている間に、その人間の形をしたものは無くなり、重かった空気の気配すら感じなくなっていた。

メリメルセゲルは寒気と吐き気を催し、慌ててそこから離れたのだった。

「結局。あれ以来、アクの気配も無くなったらしい。俺も忘れてたくらいだ」
あれは何だったんだろうと思い出しながらも、メリメルセゲルは晴れやかな顔をした。

「あの後。メリが邪念を祓ったって、噂が広まったが。邪念は時に、祓った者に取り憑くと聞く」
「俺なら大丈夫だ。いずれ、神の第一の(しもべ)、大司祭になる男だぞ」
厳しい顔を見せるカマルへ、メリメルセゲルは誇らしげに笑って見せた。

アメン神殿に着くと、さっきの話が気になったメリメルセゲルは祠堂の様子を窺いに行ってみた。
祠堂の中を覗いてみても、以前のような嫌な感じはしなかったし、変なものも見えなかった。
ただ、アメンヘテプ王の壁画は剥離したままだった。

「何か見えるかい?」
この間は一緒に来なかったカマルがついて来ていた。

「ここはアメンヘテプ王だけじゃなく、イアフメス=ネフェルタリ王妃も一緒に祭られてるんだな」
この間は何となく視界に入っていただけで、誰の像か確認できなかったが、王妃の壁画は他の神々の像と共に綺麗に残っている。

「アメンヘテプ王の生母であり、幼いファラオの摂政も務めた人だね」
イアフメス=ネフェルタリ王妃はアメン神の妻という称号と共に、絶大な権力を持っていたと言われている。
今はこうして、神と見なされて聖舟と一緒に祠堂で祭られているのだ。

「イアフメス王の姉で、妻だった女性だから」
ファラオの血筋は、同じ母親から生を受けた兄弟姉妹で結婚するのが、一番望ましいとされているのだ。

メリメルセゲルは指を折って数えた。
現ファラオのトトメス三世から、ハトシェプスト女王、トトメス二世、トトメス一世、アメンヘテプ、イアフメスへと遡ること五代前のファラオの妃になる。

「確か、ハトシェプスト女王が崩御された後に。トトメス三世王が、ここの壁画を全面的に作り替えてるはずだね。その時までは、アメンヘテプ王だけしか、壁画には描かれていなかったと聞いているよ」
確かと、カマルが前置きした場合で、間違っていたことは今まで一度も無い。

「その時の、工事の仕方が悪かったのか?王の壁画部分だけ、抉られるように壁が剥離してるのは」
「あまり見ないね。こんな剥がれ方は。着色部分が、部分的に剥がれることはあっても。下地の石材ごと落ちるなんて」

メリメルセゲルとカマルは、しばらく壁際の床に散らばった壁画の破片を眺めた。

「何で。元ファラオと生母の祠堂に、アクが住み着いていたんだろうね」
「さあな」
メリメルセゲルは考えるのをやめた。
塔門のほうが騒がしくなったせいもあった。

何事かと、二人が音のするほうへ急いで行くと、塔門の内側で、仕事道具の置き場を巡って職人同士が揉めていた。
どちらかが、どちらかの道具を勝手に移動したと言って取っ組み合いになっている。

こう言ったどうでも良いことが、工事現場ではちょくちょく争いの種になるのだ。
職人同士のいざこざを鎮めるのも、工事監理の仕事の一つではある。

「おい。やめろよ」
メリメルセゲルは二人の間に割って入った。
途端に、右側から研磨職人の拳がメリメルセゲルの頬に正確に入り、吹っ飛ばされた勢いで感情が爆発してしまった。

「いい大人が。何やってんだ」
言いながら、男達を平手打ちした。
職人達も相手が見習いの書記だと気付くと、容赦無く反撃してきた。

三つ巴になって争っていると、耳元でどおぉーんと大きな音が打ち鳴らされ、三人は動きを止めた。
見ると、カマルが神事で使うドラを手に携えている。

「何をやってる」
センネジェムの声だった。
センネジェムは入口付近の列柱の間に立っていた。
たった今、到着したばかりと思われた。

メリメルセゲルと職人達の身体が、砂まみれで粉を吹いたような状態になっているのを見ると、センネジェムは火が付いたように怒り出した。

しばらく三人は叱り付けられていたが、職人二人が説教から解放されると、メリメルセゲルだけ、センネジェムに神殿の外へ連れ出された。

更にひどく叱られるのだろうと覚悟していたメリメルセゲルだったが、センネジェムはアメン神殿の敷地内に造られた池の縁に腰を降ろし、メリメルセゲルにも座るように促した。

「何のための見習い期間だと思う?」
諭すような口調だった。

池から涼しい風が上がってくる。
頭ごなしに叱られている間は反発していた気持ちが薄らいでいく。

冷静になって考えると、くだらないことで言い争っていた二人と、自分は同じレベルのことをしでかしたのだと気が付いた。

「実務を覚えるのも大事だが、それよりも大事なことがある。怒りや憤りといった感情は、理性で調節できるんだ。人の上に立つなら。これからは、精神を鍛えることを意識しろ。それが、これからのお前の財産になるはずだ」

メリメルセゲルは泣きそうな気分だった。
自分の取った浅はかな行動も恥ずかしかったが、センネジェムがやっぱり理想の上司だったからだ。

センネジェムが嫌な奴だったら、ネフティトをセンネジェムから奪っても、罪の意識を持たなくて済むかもしれない。
だけど、今の自分にセンネジェムより優れている点があるとは思えない。
自分の未熟さが痛いほど身に染みていたのだった。

ネフティトのことは忘れよう。
そうすれば、こんなにウジウジと自分を嫌いになるほど悩まなくて済む。
二人を祝福できる男になるんだ。

メリメルセゲルは自分へ言い聞かせたのだった。
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