第8話 6日目 栗の実とアケビ

文字数 1,736文字


<断食6日目> 4:00 起床

今日の日記をつけ始める。今自分ができることはこの道場での断食修業だけだ。
暇に任せて考えて、悩んでまた考える。このパターンでは何も進まない。
目的はこの断食修業の後の人生をどうするかの一点に絞り込んでいく。
人が困っているもの。人の役に立つもの。それで職業となるものが見つけたい。
誰かが困っていたら手を差し伸べる。人から手助けを求められたらすぐに実行する。
そういった人の為に働くのが今後の人生なのかも知れない。

花や木は太陽と土と水で生きている。生物は基本的には一緒だ。
必要以上の欲はかかない。生きているだけで他の生物の役に立っている。
窓の外の裏庭に蜘蛛が一匹大きな巣を作り始めている。
空中にきれいな幾何学模様の巣を描いている。
本能的に蜘蛛の巣を作り、そこにかかった虫を食べて生きている。
壊されても壊されてもまた新しい巣を作り始める。
蜘蛛の一生はそんな長くはないかもしれない。
それでも生きている限り巣を作り続けている。それで生活をしている。

人間の本能でする仕事とは何なのだろう。まずは生きることが本能になる。
生きるためには食べ物を探す。雨や寒さをしのぐためには家を作る。
体温を保つためには着るものが必要だ。働けない日の為に多少の食糧を備蓄する。
外敵から身を守り、家族を守るための家が必要となる。
春夏秋冬に合わせた着衣が必要になる。
さらに家族や関係する仲間を守るための知恵と力が必要になる。
生きる本能を守るための最低の道具があれば生きられる。

贅沢が人間の欲望を生む。欲望は争いや悩みを生む。
悩みはストレスとなり心身の病気を生む。我欲が人の不幸を作っている。

断食をしてわかったことだが、人間は30日くらい食べなくても生きていける。
腹が減ってもしばらくは死ぬことはない。この気持ちがあれば心に余裕ができる。

北側の窓にある蜘蛛の巣が煩わしいが蚊や小さな虫を防ぐにはちょうどいい。
もし蜘蛛の巣を壊せば、蜘蛛はまた1週間くらいかけて大きな巣を作る。
蜘蛛は巣ができるまでは食料がない。また別の所に巣を作る。
その繰り返しで蜘蛛は一生を過ごす。

7時からの「静座」の前に奥の院へ向かった。
奥の院から裏山を抜けて空鉢護法に向かう。ゆっくりと歩く。
空腹感は感じない。朝食を食べる前の、腹減ったな~という感覚が続く。
山道の左右には栗の木やアケビの木がある。時々草の上に栗の実が落ちている。
どうも食べ物が気になる。道端に落ちていた栗を拾う。栗の皮が茶色に輝いている。
食欲があるわけではないが本能的に食べたくなった。
断食中は食べ物を口にすることは危険なのはわかっている。
歩きながら栗の皮をむく。口の中から唾液が湧いてくる。
急に胃や腸が動き出すと腸捻転の危険がある。わかっている。
死にたくない。栗の甘い香りがする。口に含んでなめてみる。
食べてはいけないという抑止力が働く。食べちゃだめだ。わかっている。
人間だけができる理性と本能の戦いになる。
本能的に歯に力が入る。かじってはだめだ。わかっているが少し噛んでみる。
栗の甘い汁が口の中に広がる。飲み込んではだめだ。わかっている。
理性と本能の激しい戦いが始まっている。

栗をかじり始めた。甘い香ばしい汁が中にいっぱいになる。飲み込んではだめだ。
噛んでいるだけにしよう。絶対に飲み込んではだめだ。わかっている。
私の理性のほうが強かった。歩調に合わせて噛んだ回数を数えた。
栗の実を1000回噛んだ。時間にして10分以上、噛むだけで飲み込まなかった。
栗は唾液と混ざり合い果汁みたいになっている。飲み込まないようにする。
水みたいにとろけてきたのでもう噛めない。きりがないので草むらに吐いた。
もうこんなことはしない。誘惑に負けない。私の理性は本能を抑えられる。

山道から断食道場に引き返す。さっきより体に力がある。
飲み込まなかったけれども、少しは粘膜を通して体に入ったのかもしれない。

午前6時半。断食道場では各人が食堂に集まり始めていた。
朝の静座が始まる。隠れて悪いことをしてきたような後ろめたさを感じた。

午後の散歩は山の下の図書館まで行く。
図書館までの坂道にはアケビの木が何本もある。
木にはピンク色のアケビの実が口を開けて待っている。
絶対に食べない。
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