第9話 7日目  道に迷い法隆寺

文字数 2,789文字

7日目 深夜 1:00起床
図書館から借りてきた本を読み始める。難しい内容でも理解できる。
これも断食の効果だった。内臓が動いていない分、脳細胞が活発になっている。
図書館があってよかった。散歩にもなるし無料で本が読める。
内容は人間の生き方等の「哲学書」や人間の心の在り方等の「心理学」が多い。
生活の足しにはならないが、これからどう生きていくかのヒントになる。

考え方一つで幸せになるという事を凡人に教えてくれる学者がいる。
その学者達が研究し経験した真理や追究した結果を著書にして見せてくれる。
その教えに共感した者が自分の人生に取り入れる。誰だって幸せな人生が送りたい。
難しい専門用語はわからないが、自分の言葉に置き換えて考えると理解できる。
「理性が本能を抑制する」という言葉は「欲をかかない」というふうに置き換える。
ただやはり私は凡人だ。本を読んでいると眠くなる。
本を読んだり居眠りをしたりして朝を迎える。それでも多少は役に立っている。

5:30 やっと空が明るくなってきた。
歯磨きや身の回りの掃除、下着や手ぬぐい、靴下の洗濯を済ます。
いつもの「朝の静座」に出席する。
正座の痛さも少し楽になってきている。体重が減ってきたからかもしれない。
般若心経は暗記できるまでになってきた。大きな声が出るようになってきた。
大きな声で体が振動しているのがわかる。振動が脳にも共鳴し頭が冴えわたる。

大部屋に戻ると新しい人が一人入ってきた。佐々木という若い男だった。
初めての人には教祖が今後の案内を兼ねてアドバイスをする。
大部屋なので教祖との話がみんな聞こえてくる。
お金の問題で教祖に文句を言っている。指導者に食って掛かる人間を初めて見た。
25日で12万円支払ったが、あとはかからないと思っていたらしい。

「ビタミンは毎日とったほうがいいですね」
「あそうですか。どこでもらえるんですか」
「有料ですが、食堂の係りの者に言って下さい」
「あれ、25日日コースで12万円と書いてあったんですよ」
「はい、その通りですが味噌汁やビタミンは有料で希望者に出しています」
「でも先生のおすすめなんでしょう。それじゃおかしいじゃないですか」
「その人の希望ですから、特にというわけではありません」
「でも先生のおすすめならそれもコース料金に入れておくべきですよ」

理屈っぽいのか、お金がないのかこれから断食修業したいという精神には思えない。
何でもお金の世の中だが精神修業に来ているのにあの態度は気持ちがわからない。

大部屋はこれで4人になった。
あの人とはやりづらそうだ。触らぬ神に祟りなし。それともこれも修行なのか。
野武士風の岡本は意に関せずで、壁に向かって座禅をしている。
百姓風の上田はまたどっかに行っている。いつも若い娘の部屋を転々としている。
私は上田のほうが人間ぽくって好感が持てる。でも顔には出さない。口にもしない。
其々の生き方には口を出さないほうがよさそうだ。価値観は人によって違う。

午前10時
山の下の図書館に向かう。何回か坂道を上り下りしているので迷う事はない。
今日は別の近道を探そうと細い横道に入った。
林の中の小道は草深く雑草や雑木で獣道みたいだった。
迷っても特に誰とも時間の約束はない。ヘビに気を付けながら前に進む。
中々広い道が見えてこないがこのまま進めば広い通りに出るはずだ。
道なりに進む。時間がかかりすぎる。図書館は断食道場から1kmしかない。
いつもの慣れている道なら片道30分くらいだった。
もうすでに1時間を超えている。まだ林から抜け出せない。どっかで道を間違えた。え~い、行っちゃえと先に進む。それから30分後に広い国道に出た。
道路にある標識には法隆寺方面と書いてある。斑鳩の里まで8kmとある。
あの法隆寺がここから近い所にある。興味が湧いてきた。行きたくなってきた。
食事をしないのだからお金はいらない。お金がないからバスにも乗らない。
そのまま法隆寺に向かって歩いていく。断食の7日目なのに軽快に歩ける。

法隆寺の姿が見えたのが約2時間後だった。断食道場から3時間かかった
よく歩いた。緊張で腹が減っているのも忘れていた。
法隆寺の境内にサービスのお茶が置いてあった。2~3杯を一気に飲んだ。
少し休んでいこうと休憩所でゆっくりした。
帰りの事が気になってきた。
ここまで夢中で来てしまった。殆どが下り坂だった。たいして疲れも感じていない。


帰りは上り坂になる。6日間も食事をとっていないが大丈夫だろうか。
ポケットにはハンカチ1枚とメモ用紙。行き倒れになったら身元が分かる物がない。
不安になってきた。時間の制限があるわけじゃないので何時間かかってもいい。
行き倒れて救急車で運ばれたらどうなるのだ。栄養剤の点滴でもされるのだろうか。
いいか先の事を心配しても始まらない。場合によっては死ぬ事だって覚悟してきた。
やってみなけりゃ始まらない。水を何杯も飲んで腹ごしらえをした。
水を飲めば飲むほど腹が減る。歩けるだけ歩いて、疲れたら休めばいい。

断食道場は「朝の静座」だけが決められている。明朝のその時間までは18時間ある
毎朝毎晩の教祖の回診もいなければいないで大丈夫だ。散歩中くらいに思う筈だ。
よ~し帰るかと覚悟を決めた。ああこんな体験は2度としたくはない。
いくら自由でも無計画すぎた。水筒だけでも持参すべきだった。
水は山の沢からチョロチョロ流れる湧水で凌げそうだ。
問題は体力だ。6日間も食べていないのだ。いつ死んでもおかしくない。

断食道場についた日には85kgあった。今朝計った時は80kgだった。
今まで貯めた脂肪が幸いしている。無駄な脂肪がエネルギーに変換されている。
脂肪は無駄ではなかった。他の入場者に比べて元気なのはこの脂肪のおかげだ。
脂肪のおかげで死亡せずに済みそうだ。ダジャレが出るのはまだ余裕がある証拠だ。

覚悟を決めてきた道を逆に辿り始めた。登りはきつい。2~300mで一度休む。
5分くらい歩くとヘトヘトになる。心臓の鼓動が大きい。また5分くらい休む。
念のため、メモ帳を取出し自宅の電話番号と住所と妻の名前を大きく書いた。
断食体験で飢餓の限界を試すにしても、今日の行動は無鉄砲だった。
こんな思いは2度としたくない。ここで行倒れになるわけにはいかない。
断食道場に向かって少しでも進もう。
断食体験の最初の厳しい試練になりそうだ。断食修業をまだ甘く考えていた。

明るいうちに断食道場までたどり着きたい。山道は真っ暗になると道が見えない。
今は12:30 まだ余裕はありそうだ。断食道場まで8kmの道のりだ。
普通の状態なら2時間の道のりだが、登りの山道。体力の状態はあまり良くない。
ちょっと道を間違えただけでとんでもないことになってしまった。

夕方6時までにつけば明るいうちに帰れる。あとは神様、仏様に祈るだけ。
元気を出して先に進もう。

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