第5話

文字数 1,904文字

 自室の揃えらえれた新品の家具が落ち着かない。深夜三時もまわった頃、隣の亜貴の部屋から口論でもしているような声がする。こんな時間に電話が、憤っている亜貴に直生は耳を澄ます。

「……だから、別れるって言ったのはお前からだろう? 俺にはもう感情はないし、今更一緒にはいられない。もう電話はかけてこないでくれ、ユリコ」

『ユリコ』、その名前は聞いたことはなかった。しかしそう言う関係だったんだろう、この家は直生と暮らす為ではなく、彼女と暮らす予定だったのか……。復縁を迫られている亜貴、本当に直生はここにいても良いのか、二人はそれぞれの事情で迷いながら眠れない夜は過ぎて行く。

 ***

「あー、ちくしょう眠いなあ……」

 翌朝、ほとんど徹夜に近くなってしまった二人は向かい合って朝食を食べていた。あくびを繰り返す亜貴と食の進まない直生。

「直生、何で食べないの?」
「食欲がない、食べるんだったら代わりに」

 直生の残した玉子焼きをつまむ亜貴、表情の暗い直生の頬を左手で撫でる。

「お前、なんかあったか? 顔色悪い」
「……藤尾、おれのために幸せを逃す必要はない」
「直生?」
「本当は一緒に暮らしたい人がいるんじゃないのか」
「……あー、えっとああ、その件はもう良いんだよ。終わったことだから」
「よく考えろ、きっとおれといるより幸せなことはこの世にたくさんあるよ」
「だから、もう良いんだって!」

 声を荒げた亜貴、直生は黙って立ち上がる。

「何だよ、直生」
「出て行く、おれにこの家にいる権利はない」
「はあ? 待てってば!」

 それきり黙って玄関へ向かう直生に、足音を立てて追いかける亜貴。心がすれ違った瞬間に二人は縁を違えようとしたその時だ。

「……っく」

 再び襲った胸の痛みに、直生は玄関に座り込んだ。床に転げたように倒れ、震える手が落ちていた亜貴の青いマフラーを握る。

「直生?」
「……っ、ぁ……」
「おい、直生!」

 その異変を感じたときはもう遅い、慌てて直生を抱き上げた亜貴がいくら声をかけても直生は苦しげな呼吸に必死で答えることはなかった。

 ***

「直生、嵯峨野詩情の本はどうだった?」

 いつの間にか辺りは穏やかな家の縁側で隣に座る祐之介は優しく学生服姿の直生に問う。先日貸してくれた文庫本を持って二人は静かに時間を過ごしていた。日はもう暮れる頃、明日も良い一日だったら良いのに……。

「唐揚げ定食、ご飯大盛りで!」

 縁側にいたはずが今度はバイト先の飲食店にいた。戸惑う直生の腕に触れて、仕事終わりの亜貴が笑っている。お代わりは無料、そう書いてあるメニュー表を見ていつの間にか亜貴は空になったご飯茶碗を差し出す。

 ***

 思えば不幸なばかりの人生ではなかった。酷い仕打ちを受けてもそれでも直生を理解してくれる人は確かにいたから。それはいつだって、生きてきてよかったと思う瞬間はそこにあった。
 直生は寒さに凍えながら最終電車を待っている。震える肩に誰かが青いマフラーをかけてくれた。しかし見渡せば人影のない駅のホームで、遠くから電車のやって来る音が聞こえて来る。旅立つときはもうすぐだ。
 直生の頬に涙ひとすじ、感情が溢れてもう言葉にならない。

 ***

 静かだった。静かすぎるその場所で窓の外では雪が降っている、朝か夜かわからない白い部屋でカーテンの隙間から静かに冬は訪れていた。白いパイプベッドにいくつもの点滴のパック、布団の上で投げ出された腕を亜貴はそっと握った。

「直生、お前……冷たい手ぇしてんのな。全く、俺まだ何も言ってないのに」

 そこに残る感情は想いは直生のためだけにあった。今はもう他の誰をも向いていない、直生に向けての感情を震える声で亜貴は漏らす。果たしてこの言葉は聞こえているのか。

「……なあ、また今度一緒に映画行こうぜ。何でも良い、お前の好きな映画で良いから」

 言葉が出てこない、言葉より先に涙が出てしまいそうで。
 雪はまだ、降り続いていた。

 ***

 スーツの上に羽織ったコートのボタンを閉めて、玄関に置いてある青いマフラーを首に巻いた。『彼』は荷物を確かめて、立ち上がる。受け取った弁当箱はちゃんと入っている、昼が来るのが楽しみだった。

「今日も遅いから先に寝てろよ。ああ? 食事の準備は良いよ無理しないで良いって、これ以上俺に心配させんなっての! それよりあの話考えておけよ、映画の話」

 『彼』は見送る『彼』に笑う、暖かくなったら出かけようって。楽しみはいくらあっても構わないから。
 日常にはいくらでも幸せは転がっている。誰か寄り添う人がいれば、それだけでもう幸せな日々。

「じゃ、俺出るわ、お前も気をつけてな。行ってきます!」

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