第3話

文字数 2,543文字

「休みが合わない」
「定休日の夕方とかでも良いだろ、せっかく二枚買ったのに」
「たかが映画に仕事をサボって行っても良いのか、藤尾」
「なに、仕事は完璧に終わらせてやるよ。俺、優秀なんだぜ」

 亜貴が二枚の映画のチケットを持ってやって来た。世間では夏休みももう終わる頃のこと、未だ蝉は鳴き止まないが。

「誰の映画だって?」
「嵯峨野詩情! 嵯峨野詩情原作の善と黒、お前も読んだことくらいあるだろう」

 それはかつて祐之介がくれた本に収録されていた。手放せずに未だに手元に置いてある、嵯峨野詩情の作品はあれから図書館や古本屋で全て揃えたほどに、直生の心に寄り添っていた。

「なんで今頃詩情なんだ、あんな古い作品を」
「古いからだよ、人は時に過去を振り返りたくなるものでな」
「本当は誰と一緒に行こうと思っていたんだ? ペアチケットだろう」
「あー……、それは内緒。でもお前とだって行きたいと思ったんだよ。だから誘ってんのに」
「振られたのか、あの紹介されたって言う信用金庫の」
「結構良いところまで行ってたんだけどなあ、残念。だからさ、憂さ晴らしに付き合ってくれよ、それにお前映画館行ったことないだろう?」
「……」

 一瞬ムッとするがそれは直生にとって本当のことだった。生まれてから一度も行ったことのない映画館。憧れてはいたものの、縁がなく。

「余暇を充実させることも必要だよ、浸ってやろうぜ嵯峨野詩情!」

 ***

 月曜日の夕方に駅前で直生と亜貴は待ち合わせた。シワの目立つシャツと履き古したデニムに前髪は伸ばしっぱなし、そんないつもと変わらない姿の直生を人混みから見つけた亜貴は大きく手を振った。

「よう、早いな直生。待たせたか?」
「いや、さっき着いたばかりだ」
「はは、デートの待ち合わせにはぴったりの台詞だな」
「ふざけるなら、帰る」
「待てってば! 冗談だよ冗談」

 そんなやりとりをして歩いている時、ふと亜貴はカフェのガラスに映った自分と直生の隣同士で歩いている姿を見て苦笑する。身長は直生の方が高いが、細身。これではまるで海外の女性モデルと歩いているよう。直生は亜貴がそんなことを考えてるとは知らずに、ぼうっと映画館に向かって歩いている。どうせならふざけて手でも繋ぎたい気分だったが、亜貴がそんなことをしたら直生は今度こそ本気で怒る。
 夕方の映画館は人はまばら、真ん中の後ろから三列目。前に大きな人間はいないようだったし場所的には良い席だろう。世間の懐古ブームは夏の終わりの感傷的な人の心に届いている。一方、直生は内心ひどく興奮していた。大きなスクリーンに座りごごちの良い椅子にアイスコーヒーを置いてひと息。どうせならパンフレットも買ったらよかったかもしれない。この歳にして初めての映画館というのも恥ずかしかったが、やっと大人になれた気がする。趣味もなく店と自室の往復の繰り返しの日々も少々飽きていたところだった。

「ははワクワクしてるだろう、直生」
「うるさいな……」

 映画が始まろうとしていた。明かりが消えて、諸注意が流れる。そんなスクリーンにいちいち反応している直生が亜貴は可愛いなんて思ってしまう、いつもの無愛想が何処に行った。そして本編の始まりに眠りにつくように二人はじっくりと物語に浸る……。

 ***

 夏が終わった。
 蝉も姿を消して、秋空。朝晩はだいぶ涼しくなりこのまま季節は冬に向かい今年も静かに終りを告げるのだろう。
 高校は授業が始まったらしく、亜貴とはご無沙汰で直生は少し時間を持て余していた。店頭にバイト募集の張り紙はしたものの、新たなバイト志望者は現れない。だから今日も一人、直生はレジに立っている。
 そんな秋の日のある日のこと、子供連れの夫婦が来店した。子供はまだ小さく、父親らしき男性に抱かれている。二人はしばらく店内を見て回り、どうやら何か探している本があるらしい。

「すみません」

 男性が直生に声をかけてきた。子供は不思議そうな顔をしてあたりを見ている。

「はい、探し物ですか」
「古い本なのですが、……嵯峨野詩情の本ってどの辺にあります?」
「嵯峨野詩情は、この辺に」

 直生の前で彼は口元をいじった、その癖は何処かで見たことがある。

「あの嵯峨野詩情の善と黒が収録された短編集って置いてありませんか? 結構昔に出版されて……善と黒だけなら映画化されたし、ちょくちょく売っているのを見るんですけど」
「ああ、十年前くらいに発行されていましたね。嵯峨野詩情は最近売れるから……」

 嵯峨野詩情、そして直生は間近で彼を見て息を飲む。あの日の『彼』も詩情の小説が好きだったのを思い出した。

「昔、持っていたんだけど失くしてしまって。嵯峨野詩情、好きなんですよ」

 そう言ってまた口元をいじる、あの日借りたあの本はいまだに借りっぱなしで返すきっかけがなくて……それでも直生が彼を思い出す時には必ずそこにある。直生が彼を忘れるはずなんてなかった。

「ねえパパー、絵本みたい! えほん!」

 子供がぐずりだして、男性は苦笑し子供を隣の女性に渡す。二人は児童書のコーナーへと向かって行った。直生は湧き上がる感情を抑えながら言葉を選ぶ。

「……さ、嵯峨野詩情は初期の短編に味がありますよね。善と黒以外にも良い小説は多くて」
「うん、良作が多い。最近は電子書籍でも見かけるんだけれど、やっぱり昔のように紙の本として読みたくて……ありがとう、また他を探してみます」
「見つかると良いですね、時を経ても面白い本はいっぱいありますから」

 男性は黙って微笑んだ。子供と一緒に児童書コーナーをしばらく見たのち、三人で店を後にする。去り際、子供は直生に向かって手を振った。

「元気だったのか……」

 一人になった直生はため息とともに目頭が熱くなるのを感じた。確かに結婚も子供もいておかしくない年齢だろう。松井祐之介、彼はまだ東京で暮らしていたのだ。かつて直生を救ってくれた笑顔は今も変わってなんかいなくて。
 レジの隣の椅子に腰掛け、うつむいた直生は少し笑った。彼は幸せであるべきだ、あんな優しかった彼のこと。もう会うこともないだろうし、直生もあの街にも戻るつもりはないから。残酷だった時の流れはあの日の二人を引き離して、過去の出来事を思い出に変えて行く。
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