第2話
文字数 3,562文字
朝から暑い日だった。店の外に安売りの古本のワゴンを出して、直生は額の汗を拭った。普段汗なんてかかない直生でさえも暑いと感じた。今年の夏は特別だった。ほうきとちりとりであたりの掃除をする。日差しを受けて直生の生成りのシャツはじっとりと汗で濡れていた。
***
あれから祐之介は無事東京にある大学に合格して、嬉々として上京して行った。見送りに行った直生のこれからの恐怖も知らないで。今頃彼はどうしているのか、優しい人だったからきっと今でも人に囲まれて幸せに過ごしているのだろう。
祐之介の去った家は直生にとって苦しいものでしかなかった。ずっと仕事が忙しく帰宅しない主人、直生は朝から晩まで千鶴子と二人きり。理不尽に怒鳴られるのだって日常茶飯事、食事もろくにとれなくて学校の給食だけが命の綱で、放課後家に帰りたくないから学校帰りに寄り道をするもそれはそれで帰ってくるのが遅いと叱られる。
その日々が続いて冬が訪れる頃に直生は決意した、この家を一人で出て行くということに。
***
その日、椎橋直生は家出をした。深夜、数少ない荷物を背負って塀を乗り越える。そのまま最寄り駅まで走って初乗り切符を買って最終電車に乗り込んだ。
車内の人はまばら、寒さに凍えた身体を座席のヒーターで温めながら十五歳の少年は行き先も決めてなかった。下手に補導でもされたらまたあの家に戻ることになってしまう。それだけはどうしても避けなければ……。
電車は音を立ててトンネルに入った。その暗さは直生の心に強く寂しさと不安を掻き立てている。けれどいっそのことずっとトンネルが抜けなければ良いのにとも思う。怖い大人から逃げたくて。
***
それからの日々は決して楽な人生ではなかった。直生は帰る場所も転々として、ひぐらし。夜の街に出入りしたこともある、年齢をごまかしてお金を得て……そこで出会った行きずりの男に抱かれたことだって。
やがて家出から四年がたった。その頃の直生は以前のバイト先で出会ったひとまわり年上の男と同居していて、昼間は飲食店でアルバイトを。同居人の男は時たま直生に暴力を振るっており、服を着てしまえば見えないところは傷だらけ。それでも生きて行くためには耐えなければ、と直生は黙って目を閉じる。
「唐揚げ定食、大盛りで!」
直生のアルバイト先の閉店間際によく訪れる青年がいた。いつも同じ時間で唐揚げ定食を頼んでいるから常連として顔は覚えた。彼はたまに二、三人で集まって訪れることがあってなんでも教職について熱く語っている。今後の教育のあり方とか教師はどうすべきだとか。店から十数分歩けば高校があってどうやら彼はそこの教師らしい。
「ここの唐揚げ定食、美味いな。ねえなんか他にオススメある?」
声をかけてきたのは彼の方だ。最初は驚いた直生も店員として答える。
「……生姜焼き定食も美味しいですよ、唐揚げ定食と値段も変わらないし」
「ふーん、じゃあ俺今日それ食べる。ご飯大盛りで!」
彼の名は藤尾亜貴。その日以来、直生は彼と挨拶を交わす仲になる。
***
夜、帰宅した同居人の機嫌が悪くて直生は殴られた。せめて見えないところにして欲しかったのに今日の彼は酔っ払っている。接客業だから何を言われるのかわからない。けれど心のどこかで、自分が思うほど他人はこちらを見て来ないとも思った。他人の無関心こそがこの世の中で一番の不幸でもある。松井の家だって家出した直生を探すようなこともきっとしていない。
「おい、その顔……なに?」
思った通り大半の人は直生の傷を心配なんかしなかった。その中で唯一、逃げる直生の腕をつかんでじっと問い詰める人間がいた。
「なんでも、なんでもないですよ。藤尾さん」
「いや、なんでもないはずはないな。腫れてるじゃないか、もっと見せてみろよ……あ」
亜貴のつかんだ直生の腕にもあざがある。うっかり仕事のため腕まくりをしていた直生、あざは一つや二つどころではない。
「あの、すみません。仕事中なので……」
「何時に仕事が終わるんだ?」
「え……?」
「こんなの見て、放っておけるわけないだろう」
***
午後九時過ぎ、店の前で亜貴は不穏な顔をして待っている。直生は目を合わせづらくて下を向いたまま自宅マンションに向かう。マンションの前では金髪でいかにもガラの悪そうな男が立っていた。彼は直生の姿を見て駆け寄って来る。
「直生、遅いじゃねえか何やってたんだよ」
「バイトが……」
男は直生の胸ぐらをつかんでドアに押し付けた、夜のマンションに鈍い音が響いた。
「バイトぉ? 知るかよ! さっさと家の鍵開けろ」
「おい、暴力的なことするな」
二人の間に割って入った亜貴は無理矢理直生と男を引き離す。男は標的は亜貴に移った。
「誰だ、お前」
「藤尾亜貴、高校教師だ」
「先生様が直生に何の用だよ、オレと直生の話に割り込んでんじゃねえ」
「そうしてまた殴るのか? 事情は知らないが暴力は振るう方が悪いんだよ、来い!」
亜貴は直生の腕をつかんでそのままマンションのエントランスを抜けて夜の住宅街を走る。遠くから男の怒鳴り声が聞こえたが止まるわけにはいかない。二人は息を切らしてもなお全力で走って、しばらくして追っ手が来ないことをようやく確認した頃、直生は亜貴に連れられて古びたアパートまでやって来た。
「はぁ、はぁ……せ、狭いワンルームなんだけど、許せ」
「え……?」
「あのままマンション戻ったらまた酷い目にあうぞ。今夜はここで休んで行け、これからのことは一緒に考えよう」
一階の奥、電灯の切れかけた廊下を進んだ部屋の表札には『藤尾』と書かれている。
鍵が開いた亜貴の部屋は散らかってはいないものの狭く荷物の多い部屋だった。ベッドとテーブルと大きな本棚。並んでいるのは小難しそうな教科書ばかりで、若い層に受けそうな漫画や雑誌の類は見当たらなかった。
「空いてるとこ座んな、本はよけて構わない」
「お邪魔します……」
亜貴は冷蔵庫から缶ビールを取り出した、そこでふと考える様子を見せて直生に問う。
「……お前、成人してる?」
「今年十九です」
「未成年! まじかよ! しかも俺より六つも年下って……」
「……」
「老けてるってよく言われない?」
「……たまには」
たまにどころではなく直生はいつもこうして社会に紛れていた。歳が上に見られることで年齢をごまかし仕事を得て、隠れるように生きていたのだ。
「俺、教師やっててさ今年三年生の受け持ちで。それこそ受験で暇なんてないんだけどでもやっぱり生徒皆良い方向に進んで行って欲しいと思うぜ? 生徒だけじゃなく、お前もな。定食は美味かったけど、あの家で暮らすのはだめだ。どこか住み込みで安心して住めるところ探してやるよ」
正直大きなお世話だと直生は思った。けれどそのお世話にならなければまた暴力を振るわれる生活に逆戻り。ちらりと亜貴の顔を見たら目があって微笑んだ。おそらく本心からの笑みだろう。こうしてこの日藤尾亜貴は一人の青年を救う事になる。直生は不本意ながらも行くところはないため、彼の言うことを聞くことにした。
***
蝉の声がやけに近くから聞こえる……。
そして同時にやけに焦って大声で名を呼んでいるかのような声が。直生がゆっくりと目を開けると亜貴に自分が抱きかかえられるところだった。横たわっていたアスファルトの上は熱くて硬く、いつの間にか出来た擦り傷が痛い。滅多にかかない汗をびっしょりとかいて、亜貴に抱かれながら店内に入った時に直生はようやく何が起きたのか考えはじめた。
「おい、大丈夫かよ直生。頭打ってないだろうな?」
「覚えていない……暑くて、気持ち悪い……」
「これ熱中症だよなあ、おじーちゃん! 店長! なんか飲み物持って来て!」
いつの間に亜貴が来たのだろうか、直生は確か開店の準備をしていたはずだった。
ああ、随分と昔の夢を見た気もする、住み込みでも良いって言ってくれたこの店をかつて直生と一緒に探してくれたのは亜貴だった。住まいと仕事を得て、三年。きっと今が一番幸せなのかも知れないと、ぼうっとした頭で直生は思う。
店長がスポーツドリンクのペットボトルをくれて、亜貴は蓋を開け直生の口元へ。少し口に含んで、やめる。その間に亜貴は直生のシャツのボタンを開けた。暑さと息苦しさが少し和らぐ。
「油断したか、直生」
「別に……」
「他人の失敗を怒るのも良いけどな、自分のこともちゃんとするんだぞ。お前だってもう子供じゃあないんだから」
「……」
「店番代わってやるよ、お前は部屋で寝てろ」
それからしばらく直生は自分の部屋で横になった。旧式の扇風機が音を立てて首を回している。縁側の方からは風鈴の音も、何年たとうとも季節のうつろいと言うものは変わらなかった。
***
あれから祐之介は無事東京にある大学に合格して、嬉々として上京して行った。見送りに行った直生のこれからの恐怖も知らないで。今頃彼はどうしているのか、優しい人だったからきっと今でも人に囲まれて幸せに過ごしているのだろう。
祐之介の去った家は直生にとって苦しいものでしかなかった。ずっと仕事が忙しく帰宅しない主人、直生は朝から晩まで千鶴子と二人きり。理不尽に怒鳴られるのだって日常茶飯事、食事もろくにとれなくて学校の給食だけが命の綱で、放課後家に帰りたくないから学校帰りに寄り道をするもそれはそれで帰ってくるのが遅いと叱られる。
その日々が続いて冬が訪れる頃に直生は決意した、この家を一人で出て行くということに。
***
その日、椎橋直生は家出をした。深夜、数少ない荷物を背負って塀を乗り越える。そのまま最寄り駅まで走って初乗り切符を買って最終電車に乗り込んだ。
車内の人はまばら、寒さに凍えた身体を座席のヒーターで温めながら十五歳の少年は行き先も決めてなかった。下手に補導でもされたらまたあの家に戻ることになってしまう。それだけはどうしても避けなければ……。
電車は音を立ててトンネルに入った。その暗さは直生の心に強く寂しさと不安を掻き立てている。けれどいっそのことずっとトンネルが抜けなければ良いのにとも思う。怖い大人から逃げたくて。
***
それからの日々は決して楽な人生ではなかった。直生は帰る場所も転々として、ひぐらし。夜の街に出入りしたこともある、年齢をごまかしてお金を得て……そこで出会った行きずりの男に抱かれたことだって。
やがて家出から四年がたった。その頃の直生は以前のバイト先で出会ったひとまわり年上の男と同居していて、昼間は飲食店でアルバイトを。同居人の男は時たま直生に暴力を振るっており、服を着てしまえば見えないところは傷だらけ。それでも生きて行くためには耐えなければ、と直生は黙って目を閉じる。
「唐揚げ定食、大盛りで!」
直生のアルバイト先の閉店間際によく訪れる青年がいた。いつも同じ時間で唐揚げ定食を頼んでいるから常連として顔は覚えた。彼はたまに二、三人で集まって訪れることがあってなんでも教職について熱く語っている。今後の教育のあり方とか教師はどうすべきだとか。店から十数分歩けば高校があってどうやら彼はそこの教師らしい。
「ここの唐揚げ定食、美味いな。ねえなんか他にオススメある?」
声をかけてきたのは彼の方だ。最初は驚いた直生も店員として答える。
「……生姜焼き定食も美味しいですよ、唐揚げ定食と値段も変わらないし」
「ふーん、じゃあ俺今日それ食べる。ご飯大盛りで!」
彼の名は藤尾亜貴。その日以来、直生は彼と挨拶を交わす仲になる。
***
夜、帰宅した同居人の機嫌が悪くて直生は殴られた。せめて見えないところにして欲しかったのに今日の彼は酔っ払っている。接客業だから何を言われるのかわからない。けれど心のどこかで、自分が思うほど他人はこちらを見て来ないとも思った。他人の無関心こそがこの世の中で一番の不幸でもある。松井の家だって家出した直生を探すようなこともきっとしていない。
「おい、その顔……なに?」
思った通り大半の人は直生の傷を心配なんかしなかった。その中で唯一、逃げる直生の腕をつかんでじっと問い詰める人間がいた。
「なんでも、なんでもないですよ。藤尾さん」
「いや、なんでもないはずはないな。腫れてるじゃないか、もっと見せてみろよ……あ」
亜貴のつかんだ直生の腕にもあざがある。うっかり仕事のため腕まくりをしていた直生、あざは一つや二つどころではない。
「あの、すみません。仕事中なので……」
「何時に仕事が終わるんだ?」
「え……?」
「こんなの見て、放っておけるわけないだろう」
***
午後九時過ぎ、店の前で亜貴は不穏な顔をして待っている。直生は目を合わせづらくて下を向いたまま自宅マンションに向かう。マンションの前では金髪でいかにもガラの悪そうな男が立っていた。彼は直生の姿を見て駆け寄って来る。
「直生、遅いじゃねえか何やってたんだよ」
「バイトが……」
男は直生の胸ぐらをつかんでドアに押し付けた、夜のマンションに鈍い音が響いた。
「バイトぉ? 知るかよ! さっさと家の鍵開けろ」
「おい、暴力的なことするな」
二人の間に割って入った亜貴は無理矢理直生と男を引き離す。男は標的は亜貴に移った。
「誰だ、お前」
「藤尾亜貴、高校教師だ」
「先生様が直生に何の用だよ、オレと直生の話に割り込んでんじゃねえ」
「そうしてまた殴るのか? 事情は知らないが暴力は振るう方が悪いんだよ、来い!」
亜貴は直生の腕をつかんでそのままマンションのエントランスを抜けて夜の住宅街を走る。遠くから男の怒鳴り声が聞こえたが止まるわけにはいかない。二人は息を切らしてもなお全力で走って、しばらくして追っ手が来ないことをようやく確認した頃、直生は亜貴に連れられて古びたアパートまでやって来た。
「はぁ、はぁ……せ、狭いワンルームなんだけど、許せ」
「え……?」
「あのままマンション戻ったらまた酷い目にあうぞ。今夜はここで休んで行け、これからのことは一緒に考えよう」
一階の奥、電灯の切れかけた廊下を進んだ部屋の表札には『藤尾』と書かれている。
鍵が開いた亜貴の部屋は散らかってはいないものの狭く荷物の多い部屋だった。ベッドとテーブルと大きな本棚。並んでいるのは小難しそうな教科書ばかりで、若い層に受けそうな漫画や雑誌の類は見当たらなかった。
「空いてるとこ座んな、本はよけて構わない」
「お邪魔します……」
亜貴は冷蔵庫から缶ビールを取り出した、そこでふと考える様子を見せて直生に問う。
「……お前、成人してる?」
「今年十九です」
「未成年! まじかよ! しかも俺より六つも年下って……」
「……」
「老けてるってよく言われない?」
「……たまには」
たまにどころではなく直生はいつもこうして社会に紛れていた。歳が上に見られることで年齢をごまかし仕事を得て、隠れるように生きていたのだ。
「俺、教師やっててさ今年三年生の受け持ちで。それこそ受験で暇なんてないんだけどでもやっぱり生徒皆良い方向に進んで行って欲しいと思うぜ? 生徒だけじゃなく、お前もな。定食は美味かったけど、あの家で暮らすのはだめだ。どこか住み込みで安心して住めるところ探してやるよ」
正直大きなお世話だと直生は思った。けれどそのお世話にならなければまた暴力を振るわれる生活に逆戻り。ちらりと亜貴の顔を見たら目があって微笑んだ。おそらく本心からの笑みだろう。こうしてこの日藤尾亜貴は一人の青年を救う事になる。直生は不本意ながらも行くところはないため、彼の言うことを聞くことにした。
***
蝉の声がやけに近くから聞こえる……。
そして同時にやけに焦って大声で名を呼んでいるかのような声が。直生がゆっくりと目を開けると亜貴に自分が抱きかかえられるところだった。横たわっていたアスファルトの上は熱くて硬く、いつの間にか出来た擦り傷が痛い。滅多にかかない汗をびっしょりとかいて、亜貴に抱かれながら店内に入った時に直生はようやく何が起きたのか考えはじめた。
「おい、大丈夫かよ直生。頭打ってないだろうな?」
「覚えていない……暑くて、気持ち悪い……」
「これ熱中症だよなあ、おじーちゃん! 店長! なんか飲み物持って来て!」
いつの間に亜貴が来たのだろうか、直生は確か開店の準備をしていたはずだった。
ああ、随分と昔の夢を見た気もする、住み込みでも良いって言ってくれたこの店をかつて直生と一緒に探してくれたのは亜貴だった。住まいと仕事を得て、三年。きっと今が一番幸せなのかも知れないと、ぼうっとした頭で直生は思う。
店長がスポーツドリンクのペットボトルをくれて、亜貴は蓋を開け直生の口元へ。少し口に含んで、やめる。その間に亜貴は直生のシャツのボタンを開けた。暑さと息苦しさが少し和らぐ。
「油断したか、直生」
「別に……」
「他人の失敗を怒るのも良いけどな、自分のこともちゃんとするんだぞ。お前だってもう子供じゃあないんだから」
「……」
「店番代わってやるよ、お前は部屋で寝てろ」
それからしばらく直生は自分の部屋で横になった。旧式の扇風機が音を立てて首を回している。縁側の方からは風鈴の音も、何年たとうとも季節のうつろいと言うものは変わらなかった。