第1話

文字数 2,997文字

 その日、一人の少年が家出をした。深夜、数少ない荷物を背負って塀を乗り越える。
 足早にその家を後にしたそれからは誰も何も知らなかった。

 ***

 今年の東京の夏は熱中症に警戒せよとどこそこのメディアが繰り返し騒いでいた。奥の部屋から流れて来るラジオニュースを聞きながら男は睨む。御田村古書店午後三時、目線の先には帰らない数人の制服姿の立ち読み客。近所の高校の制服だった。

「おいタダ読み目当てだったら帰れ! ここは図書館じゃあないんだよ!」
「ひっ!」

 御田村古書店の店員、椎橋直生(しいばしなお)に怒鳴りつけられた高校生らは猛暑の中走って逃げて行った。直生は癖のついた黒髪をかきあげて、放り出された漫画本を丁寧に埃を払いため息をつく。全く、子供の暇つぶしなら近所のプールにでも行けばいいのに。

「よう、直生ー今日も荒れてんなあ!」
「ああ、暇人に立ち読みさせるために店を開けているんじゃないからな」

 高校生を見送って店内に入ってきた藤尾亜貴(ふじおあき)は苦笑している。染めたばかりの茶髪にかぶっていた麦わら帽子脱ぐ。今日はいつものスーツ姿ではなく派手な柄シャツにハーフパンツ姿だ。

「おじーちゃんは何してんの?」
「店長は昼寝、暑さが身体にこたえるんだろう。もう歳も歳だし……藤尾こそ学校はどうしたんだ。夏休みだって仕事があるだろう」
「昨日から夏休みでなあ、どこに行こうか迷ってるところ。激務だけどさ、ささやかながら夏休みのある仕事でよかったぁ 」
「それは俺に対する嫌味か。うちは休みなんかないよ」
「なんだよ、せっかく遊んでやろうと思って様子見に来たのに」

 しかし高校生の去った店内に客の姿はなかった。誰も来ないのならいっそのこと休みにしてしまえばいいのにと亜貴は内心思ったが、直生の反撃を受けるのも面倒なので黙っている。けれどそう言えば先日直生の他にもう一人バイトを雇ったって。

「おい、バイトどこ行ったんだよ。国立大在学中の秀才!」
「辞めたよ、国立大だがなんだか知らないが全く最近の大学生は根性がない」
「大学生ってお前と大して歳も違わないじゃん。あっ、もしかしてお前まーたきつく当たったんだろう? 行き過ぎた指導があったんじゃないのか?」

 その亜貴の言葉に少し黙った直生、事実だった。亜貴は苦笑して腕を組んだ。

「仕事はそりゃ覚えてもらわなきゃならないけどさ、誰だって心が折れたら辞めるだろう。もう少し穏やかにだな……」
「ダメなことはダメ、仕事なら一回教えたらそれで完璧にこなせなきゃ意味がないんだ」
「こっわ! もう、お前のそういうとこだよ、バイトもかわいそうに」

 亜貴がレジの隣で値札を貼る直生の手伝いをしながら真夏の商店街を眺めていると、数人の高校生が入店する。部活帰りだろうか、先ほどとは違う学校の制服だった。やはり漫画本のコーナーにかたまって騒ぎ出した。直生の目は釣り上がり、暴発寸前。怒鳴ろうとした直生を慌てて止めて、亜貴は教師の顔して優しく声をかける。

「悪いなー、立ち読み禁止なんだわ。続きが気になるなら買ってね、寄り道もいいが夏休みの宿題もしろよ!」

 直生は不満げだったが、高校生らは抵抗することなく帰って行った。苦笑する亜貴は慣れた手つきで値札を作りながら夏の夕焼けを待つかのように、しばらくの間直生と世間話に興じていた。
 
 ***

「おや、今日藤尾さんいらしてたんかい。ああそれは、お茶の一杯もおもてなししないで……」

 直生の夕食は店長である老夫婦と。午後八時も過ぎて店じまいもした、御田村大造とサヨ夫妻の自宅の一部屋を直生は間借りして暮らしている。それだけでなく、夕食も一緒に、今夜の献立はサバの味噌煮とほうれん草のおひたしに豆腐の味噌汁だ。直生はサバをつつきながらやまないセミの声を聞いていた。

「藤尾は単なる暇つぶしだったんですよ、気にすることはありません」

 東京に身寄りもない直生がこうして日々を送れるのも、御田村夫妻のおかげだった。感謝と心からの恩返しするために、直生は時折怒りながら懸命に店番をしている。
 その日の深夜、風呂も終えて二階の一間で直生は静かな時間を過ごしていた。一階で炊いた蚊取り線香の香りがここまで届く。濡れた髪の長い前髪の隙間から、直生は薄汚れた鞄の中に入っていた文庫本を見つめている。やがてそれを取り出して手のひらで埃を払い、愛おしいものに触れるかのように。

 ***

 黒い詰襟の学生服姿の少年が一人の女性から突き飛ばされて縁側から落下した。当時中学三年生の椎橋直生の手のひらには擦り傷が。女性、松井千鶴子(まついちづこ)は持っていたほうきを振り回して、さらに直生に攻撃を加えようとした。そこへ帰宅したばかりで真っ白なシャツにネクタイを外した高校生が止めに入る。彼の名は松井祐之介(まついゆうのすけ)、千鶴子の息子で高校三年生だった。

「おい母さん、直生が何したって言うんだよ! どうせ洗濯物の取り込みに失敗したからとか、そんな理由だろう? 許してやれよ、やりすぎだって」
「祐之介、あなたこそどうしてこんな子かばうの? こんな不器用な出来損ない、引き取ってやった恩も知らずに!」
「親の都合だろう? 直生が悪いわけじゃないんだから、落ち着きなって! 早く、直生、大丈夫だから部屋に戻りなさい」

 祐之介のひと言に土埃すら払わずに直生は与えられた部屋に戻った。薄暗く窓もない四畳半、直生の荷物は生活に最低限のものしかない。

「……直生、ちょっといいかな」

 騒ぎからしばらくたって、直生の部屋をノックするものがいた。祐之介だ。

「あの……?」
「手のひらは大丈夫か? ごめんな、母さん怒ると手がつけられなくて。直生が気にする必要はないんだよ」
「……」
「食事も食べられなかっただろう? これ、お菓子で悪いけど食べて良いから。あと夜は長くて暇だろうし、この本を貸してあげるよ。趣味に合わなかったら申し訳ないけど」

 祐之介は小さなクッキーの箱と一冊の文庫本を直生に差し出した。そっとドアを閉めて直生は箱を開けてお菓子を食べる。文庫本の表紙には、嵯峨野詩情短編集と書いてあった。文学に疎い直生は知らなかったが、どうやらだいぶ昔に書かれたものらしい。その中に収録された短編、善と黒。内容は作者の名前と題名からでは想像できない、古き良き時代を舞台にした恋愛小説だった。
 直生がこの家に来てから一年がたった。離婚した両親、押し付け合いの結果親権は父親がとることになったが、父は状況が落ち着くと遠縁であるこの松井家に直生を置いて失踪した。そのせいか直生は未だこの家でうまく居場所が作れないでいる。優しいのは祐之介だけだった。
 季節が秋が冬に変わる頃、主人が留守の食卓では祐之介の進学の話になった。勉強も出来て優秀な祐之介は本が好きで大学は文学部を目指している。

「祐之介なら東大も夢じゃないわよ、この間の試験も首席だったんでしょう?」

 浮かれる千鶴子に祐之介は笑う。内心直生は気が気ではなかった。進学先によっては祐之介はこの家を出て行くのだろう。そうしたら今度こそ、直生に孤独が訪れる。

「東大は流石に無理だけどね、うん……東京の方の大学に行きたいと思ってるんだ」

 口元をいじりながら彼は言った。ああ、祐之介ならきっと叶うだろう、その言葉で直生の心は絶望する。もうどこにも行く場所なんてなかった。


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