第9話

文字数 1,566文字

 第四楽屋に戻る途中、恵美はトイレに向かった。
 この時、香帆はプレッシャーとは別の不安を感じていた。コスプレ衣装のままでトイレに行くなと志田から釘を刺されていたからだ。もし参加者たちに自分がレイカだと悟られてはマズいというのが理由だった。本来であれば、コスプレ衣装にチェンジする前にトイレを済ませておくべきだったが、緊張と興奮のあまり、失念してしまったのだ。一応、家を出る前に済ませてきたものの、もし本番で催したらどうしようと、自分の愚かさを恥じずにはいられない。
 しかし、後悔しても始まらない。いざとなったら漏らす覚悟を決め、香帆は楽屋の扉を開けた。
 化粧台の椅子に腰を沈め、ふうと息を吐く。メイクが崩れていないか鏡で確認し、ふと時計を見ると、十時五十分を示していた。イベント開始まで残り十分だった。
 鞄からミネラルウォーターを取り出して、カラカラになった喉を少しだけ潤すと、恵美に先んじてステージへと向かう。
 
 通路の途中には高身長の見慣れない男が立っていた。服装から警備員だと一目で判る。彼は壁に並べられたパネルを、熱心に眺めている。パネルは裏返しになっているので、当然ながら何も描かれていない。
 なぜパネルの裏側をそんなに見つめているのかと思案しながら歩を進めていく。やがて警備員の男は香帆に気づいたようすで、若干ビクつきながら顔を向けた。彼は気まずい顔をしながらも、平然と会釈をしながら、早足ぎみにすれ違った。
 不審に思った香帆はパネルを確認したかったが、イベントの時間が迫っていて、それどころではない。
 突き当りの右側には扉があった。この先がステージになっているはずなので、香帆は深呼吸をしながらノブを握った。

 扉を抜けると、途端に客席からの囁き声が耳に入ってきた。ここのステージには緞帳(どんちょう)が無いので、上手側の観客の姿が袖からちらりと見えた。彼らはパイプイスに座りながらステージ上を見つめ、今か今かとイベント開始を待ちわびている様子が如実に伝わってくる。
 既にベストワンの面々が顔を揃えていて、彼らからも緊張している気配がうかがえる。特に志田はその度合いが激しいらしく、袖幕の影で壁に向かいながら、決めポーズの練習に余念がなかった。
 山喜さおりの話によると、会場は予定通り満員で、総勢二百人ほどいるらしい。
 先ほどまで余裕の構えを見せていた彼女も、さすがにナーバスになってきたようで、笑顔を見せつつも唇が僅かに震えている。
 緊張の色を隠せない香帆は、長手袋の中で脂汗をかき、鼓動が早くなるのを感じた。
 ステージに目を向けると、身長を越える程のパネルが五つほど並び、それぞれにゲームを模したと思われるさまざまなキャラクターが描かれていた。サイズから見て通路に並べられたパネルと同じものと推定される。当然中央のパネルには主人公のユージンが描かれていて、その右隣には銃を片手に構えたレイカが、可愛らしくポーズを取っていた。
 開始まで五分を切ったが、恵美が現れる気配がない。ベストワンのメンバーからも、苛立ちの空気が伝わってくる。
 このまま先輩が来なければ、イベントの司会は香帆が代行しなくてはならない。レイカ役でさえ手一杯なのに、その上司会なんて――。台本をほとんど読んでいないので、司会どころか簡単な段取りしか把握していなかった。
 まさか事故に巻き込まれたわけではないだろうが、何かトラブルがあったのかもしれない。
 不安に駆られた香帆は、通路に向かうためにドアノブを捻った。
 扉を開けた途端、「ごめんね、遅くなって」恵美と鉢合わせになった。「トイレが混んでいて、なかなか入れなかったの。女性は多くないだろうと油断したのがいけなかったわ」
 ほっとした香帆は、恵美の二の腕を叩くと、二人でベストワンの四人に謝罪した。
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