第1話

文字数 1,258文字

 その日、小嶋香帆(こじま、かほ)はバスに揺られていた。
 木漏れ日の眩しい午後一時過ぎで、車内にはのんびりとした空気が漂っている。午後から雨模様だと聞いていたので、念のために折り畳みの傘を準備しておいたのだが、どうやら無駄になりそうだった。
 群馬県の奥地で開催される村祭りにむかうため、今どき珍しいトロリーバスと呼ばれるローカル路線のバスに乗っていた。
 トロリーバスとは主に大正から昭和初期にかけて活躍した、ガソリンの代わりに木材などを燃料として使用される、ボンネットの長いバスのことである。構造がシンプルなだけに壊れにくいが、一方で雨に弱く、馬力が無いのが欠点であり、大量の黒煙が上がるのも問題の一つ。基本的にバッテリーが無いので夜も走れない。
 他に特徴としては、出入口が前方にしかなく、しかも手動であった。室内灯すらもないので車内も暗く、これでは仮にヘッドライトがあったとしても、夜間の走行は厳しいと思われた。快適さで比べると、一般的なバスとは雲泥の差があるのは明白といえる。
 そのため、現在ではほとんど見かけないが、この地域では村おこしの一環として、観光用に一定区間だけ運行されていた。
 週末となれば大勢の観光客が訪れるらしいが、今は金曜日の昼間であり、イベントコンパニオンとして呼ばれた香帆も、明日の祭りのために仕方なく乗車していた。
 イベントコンパニオンと言えば聞こえがいいが、結局は田舎の村祭りのアシスタントといった、ただのお飾りみたいな微妙なものと推測される。しかも、社長の“つて”からの依頼らしい。
 コネとはいえ、仕事なのだから、手を抜くわけにはいかない。仕事内容や報酬はともかく、田舎の温泉宿で一泊できるのは、楽しみですらあった。
 香帆は一応、モデル事務所に所属している。事務所の名は『レディピンク』。由来は、社長がピンクレディのファンだからという、きわめて単純な理由からだった。モデル事務所といっても規模は大したことはなく、香帆を含めて所属モデルがたったの五人。当然ながら仕事は滅多になかった。たまに来る依頼も、スーパーのチラシだったり、売れっ子モデルの背後に立つ、その他大勢のエキストラが大半を占める。収入よりも、衣装代や交通費の方が高くつく時もあるくらいだ。
 それでも事務所自体には不満は無かった。社長も優しいし、所属モデルは全員仲が良く、団結力には自信があった。
 だが、レディピンクという名称だけは頂けなかった。どことなく風俗を思わせ、実際に名刺を渡した際にその手の質問をされたことは一度や二度ではない。モデルたちからも困惑の声が上がっている。
 少ないながらも仕事は楽しかったが、もちろんそれだけでは生活が出来ないので、普段は大衆居酒屋でバイトをしている。モデルの中にはキャバクラなどの水商売をしている者もいて、たまに誘われたりもするが、それだけはしたくないと、かたくなに拒否を続けていた。香帆には、将来、トップモデルとして活躍したいという夢があり、職歴は出来るだけ綺麗にしておきたいのだ。
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