第1話

文字数 2,161文字


「ちょっと、出かけてくる……」
 居間でテレビを観ている母さんの背中に、つっけんどんにそう告げたぼくはもう、玄関でスニーカーを履いたつま先で、地面を、とん、とん、と蹴っていた。
「どこに行くん?」
 居間から聞こえてくる、母さんの声。いつもと変わらない朴訥とした……。
 広島のデパートに――少し前までは、なんのためらいもなく、そうけなげに返していた。それが最近、口を利くのすら億劫になっている。
「なあ、ちょっと聞いてくれる……」
 高校三年になった、今年の春。ぼくは、気の置けない友人に、こう打ち明けていた。
「最近、オレ、母に対する口の利き方がぞんざいになっていけんのんよ」
 それを聞いた彼が、心得顔で言った。
「ああ、それは、あれだよ」
 え! あれって⁈ 身構えて、ぼくは、次の言葉を待つ。
「反抗期って、ヤツだよ」
「は、反抗期?」
 ぼくはきょとんし、口あんぐり。
「そう、反抗期。斜に構えるのを覚えたっていうこと。母親に対して、そういう態度取るのって、初めてか?」
 思えば、初めての経験だった。だから、素直にうなずいた。
「もちろん、初めてさ。自分の口から言うのもなんだが、近所のおばちゃんたちからは、やまださんちのアキトくんは母親想いのいいお子さんね、ともっぱら評判なんだ。だからオレ……少しとまどってる」
 その彼曰く、みんなより大分遅れて、ぼくの場合は斜に構えるのを覚えたらしい。しかも、高校三年の初冬を迎えたいまでも、あいかわらず、それはつづいている。
 ぼくは斜に構えた、だから、反抗的な、尖った背中を、きょうも玄関のドアに向けていた。
 
 
 
 家を出たぼくは、ターミナル駅を目指して歩いている。広島のデパートに行くには、そこから、三四十分電車に乗らなければないからだ。
 初冬とはいいながら、空は暖かい色に晴れ上がっていた。
 ぼくが歩いてる舗道は、土曜日の昼下がりというのに人通りが少ない。その閑散とした舗道を、ぼくは独り、てくてくと歩いていく。
 やがて、眼差しのむこうに、かなり交通量の多い道路が見えてくる。この市街地の目抜き通りで、左右にさまざまな店が並んでいる。古めかしい喫茶店があるかと思えば、最近若者に人気のラーメン屋の真新しい看板が見える。ここは、市内でいちばん賑やかな場所だ。
 もっとも近ごろでは、終日、シャッターを下ろしている店が散見される。どうやら、この町にも一極集中の弊害が影を落としているらしい。いずれ、賑やかなこの通りも、ご多聞に洩れず、俗に言うシャッター通りと化すのだろうか――。
 思えば、以前、この通りにも何軒かのデパートがあり、それぞれが多くの客で賑わっていたものだ。それが、いまでは、冗談のように脆く、一軒も残らず店を閉じている。
 だとしたら、シャッター通りと化すというぼくの懸念も、あながち的外れではないのかもしれない。
 ただ、それで割をくったのは、この町の住人だ。なかんずく、害をこうむったのは、ぼくのような貧困家庭の子ども。
 もちろん、単にデパートに行くだけなら、一銭の費用もかからない。ところが、いまは、少なからずの電車賃がかかってしまう。
 それでなくても、ぼくの小遣いは雀の涙ほど――。それなのに、わずかな、その小遣いの中から電車賃をねん出するのを余儀なくされる。デパートが消えたいま、それがなにより、くやしいし、かなしいし、さびしいし、そしてそれよりなにより、非常に、いたい。
 もしも、それがあったなら、ぼくの大好きなユーホーキャッチャーが、あと、数回出来たはず。だから、いたいといっても、懐が――。
 
 
 まもなくこの通りと目抜き通りとが交差する、ぼくの町では、もっとも大きな四つ角にたどり着く。そこを左折して、およそ十分も歩けばターミナル駅に着く。ちなみに、右折して、ニ十分あまり歩けば凪の水面が広がる瀬戸の内海が目にまぶしく見えてくる。
 その四つ角に、ちょうど、ぼくが差しかかったときだった。だしぬけに、道のむこうから「あっくん」とぼくの名前を呼ぶ声がしたのは――。
 凛とした独特な大人びた声。なにより、ぼくのことを『あっくん』と呼ぶその女性(ひと)は、この町で、ぼくが唯一フランクに話せる女の子。その彼女が、道のむこうで、ぼくの名前を呼びながら、右手を、大きく左右に振っている。
 黒い皮のブルゾンにブルージーンズ。カーフスキンの黒のローファー。左手にはコットンキャンバス地の黒のダッフルバッグ。それと、肩までのびた長い黒髪。
 そしてなにより、黒いコーデとは対照的な、透き通るような白い肌。そのコントラストが、彼女の肌の白さをより際立たせている。
 冴えない地方都市の住人でありながら、洗練された都会的なセンスを持った大人の女性。この彼女は、りょうさん――ぼくがそう呼ぶ、町村涼だ。
 大人びたりょうさんとちがって、ぼくは未だ、子どもっぽい。おまけに、りょうさんは聡明で如才ないけれど、ぼくは勉強が苦手で要領が悪い。たぶんそれが、コンプレックスになっているのだろう。
 同級生は、彼女のことを「おい、町村」と呼び捨てにする。でもぼくには、それはムリ。
 それより、ぼくは、りょうさんに憧憬の念すら抱いている。なのでぼくは、彼女のことを「りょうさん」と、あえて、さん付けで呼ぶようにしている。


つづく
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