第4話
文字数 2,378文字
それから、あっという間に、四年、いや、十年の歳月が流れた。
りょうさんを追いかけるようにして、ぼくは上京した。だが、学生時代の四年間で、彼女との再会は果たせなかった。
トウキョウに行きさえすれば逢えるさ――そう、ぼくはタカをくくっていた。けれど、それは甘かった。
りょうさんに逢いたい。星屑の欠片すら見えない都会の夜空を眺めながら、そうつぶやいた夜が、幾度となく、あった。
でもトウキョウは、はてしなく広い街だった。ぼくのふるさととは雲泥の差ほどちがって――。
ひょっとすると、この四年間はーー改めて、ぼくは考えた。
その現実を思い知らされただけの、そんな四年間でしかなかったのかもしれない、と。
「このままでじゃ……」
とてもじゃないが、帰れない、そうぼくは思った。もちろん、心残りがあった。トウキョウに。そして何より、りょうさんに……。
良心の呵責に苛まれながらも、ぼくは、母さんとの約束を反故にした。あろうことか、ぼくはトウキョウで就職してしまったのだ。
ただ、そうかといって、トウキョウは、何のゆかりのない街。会社で営業を任されたぼくは、だから、仕事での苦労を余儀なくされる毎日。
深夜、ひとりぼっちの四畳半の部屋に、心身ともにくたくたになって帰り着く。シャワーを浴びて、缶ビールを口にすると、ようやく人心地つく。でも、疲労困憊しているので、何もする間もなく、あっけなく眠りに落ちる。
そうして、また、新しい朝が来る。といって、きのうと何かが変わっているわけじゃない。むしろ、きのうと同じひとりぼっちの憂鬱な朝。そんな毎日の繰り返し。いやがおうでも、心がけずられる。
これでは、りょうさんを捜すどころの騒ぎではない。それどころか、ひとりぼっちのさみしい心が道に迷い、その挙句、ぼくは愛さえ見失っていた。
捨てる神あれば拾う神あり、とはいみじくも言ったもので、それでも、まあ、そんなぼくでも、僥倖に巡り会える。
だからといって、りょうさんに巡り会えたわけではない。それより、りょうさんが言ってた、あのヒマワリ。それにぼくは、とうとう、巡り会えてたのだ。
くしくも、初冬の、――それは土曜日の昼下がりだった。ぼくはその日、近所のマックで遅いランチを独り、わびしく摂っていた。
すると突然、こんな会話が耳に留まった。
「ひろし、そろそろ行こうか。新宿にヒマワリを見にさ――」
「うん、わかった」
え! なに⁈ し、新宿に、ヒマワリを!!
青天の霹靂とは蓋しこの謂だった。ぼくは慌てて、声がした方に目をやった。
見ると、親子とおぼしき二人連れ。四十格好のお父さんと小学校高学年くらいの男の子の――。
おい、なにをぼうっとしている。
ぼくは自分に強く命令した。
声をかけるんだ! 声をかけて、尋ねるんだ!! 急げ、急ぐんだ!!!
上京して以来、ぼくは見知らぬだれかに声をかけたことはなかった。でもこれは、千載一遇のチャンスとばかりに、ぼくは勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、あのう、すいません」
「はあ、なんでしょう……」
お父さんがけげんそうな顔で、振り返った。
「つかぬ事をお聞きするのですが、いま、たしか、新宿にヒマワリを見に行くと、おっしゃったような……」
「ええ、言いましたよ。これから、こいつ、息子のひろしと新宿の美術館に行って、ゴッホのヒマワリを観るんですよ」
新宿の美術館に行って、ゴッホのヒマワリを観るんですよ――お父さんのことばを、ぼくは反芻した。
なんだ、そういうことだったのか――ようやく、「ヒマワリ」の謎が解けた。
りょうさんはあの日、「ヒマワリ」はヒマワリでも、新宿の美術にゴッホのヒマワリを観に行ったんだ。
ただ、それはそれで――ふと、思った。そのとたん、全身から力が抜けて、ほとんど、その場にへたり込むところだった。
新宿の美術館にゴッホのヒマワリが展示されてることすら知らなかった、あの日のぼく。よしんば、知っていたところで、りょうさんのように、そう簡単には観に行くことができなかった、あの日のぼく。
りょうさんとぼくが立脚している地平。その違いを、ぼくはまざまざと思い知らされ、愕然としたのだった。
いったん、謎が解けてしまうと居ても立っても居られなくなる。もちろん、ぼくもその例外じゃない。
よし、さっそく、ぼくも観に行こう――そういう焦燥感に駆られたぼくだった。が、新宿の美術館とわかったところで、的確な場所がわからなくてはどうにもならない。それほど、新宿は、非常に、大きな街だ。
そこでぼくは、その日は場所を確定させるだけにとどめ、その翌日、改めて、新宿の美術館に足を運んだ。
「ヒマワリ」の絵の前に佇んだ。ひと目見た瞬間、思わずぼくは「あ!」と声をあげて、絶句。
予想以上に号数の大きい絵だった。黄色が実に見事に映えた絵でもあった。
その渾身の一枚をジッと観ていると、胸のうちに様々な感情が――たとえば、それは会うことのできないりょうさんに対する慕情だったり、約束を反故にしてしまった母さんに対する慙愧の念だったり、ふるさとに対する哀愁だったりとか、とにかく、そういった感情がとりとめもなく溢れてきた。
それが、ぼくの心を大いに揺り動かす。するともういけない。絵の前に立ち尽くしたぼくは、恥も外聞もかなぐり捨てて、むせび泣きしていたのだった。
美術館を出たぼくは、ふと頭上を見上げた。一朶の雲から疎外されたような、丸く、ちぎれた雲。それが、いとおしく、目に入った。その行方を追っていると、やがて、涙も乾いた。
すると、ぼくはそこで、ようやく、気づいた。
あの日、道を右折して海に行って、瀬戸の内海の水面をカモメと一緒に眺めたように、ぼくは結局、ずっと、そうしているべき存在だったんだな、ということを。
つづく